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さようなら、ゴッホ。【ショートショート#118】(1976字)

 
 フィンセントと出会ったのは、今から六年前の一八八八年六月のことだった。あの頃の僕は生まれ育ったアルルの家を出てパリに行きたくてうずうずしていた。だから、ある日突然町にパリから風変りな男が引っ越してきた時はとても興奮した。彼はたった一人でやってきて、通りに面した二階建ての家を借りるなり、勝手に「黄色い家」と名前をつけた。漆喰の壁が自分好みの黄色だったからと彼は主張していたのだが、僕の目には黄色っぽく変色しただけのどこにでもある壁にしか見えなかった。
 それはともかく、初めは大人しく見守っていたアルルの人々も、彼が毎日働きもせずせっせと絵を描いていると知ると心中穏やかというわけにもいかなくなった。見るからに働き盛りという年恰好の男が昼間から町をうろついては、橋の下で洗濯する女たちや、麦を収穫する農夫たちを燃えるような眼でじっと観察している様子は住民に不安をいだかせた。
 僕がフィンセントと知り合いになれたのは、アルルの郵便局で働く父のジョゼフのおかげだ。フィンセントにはテオという弟がいて、まるで付き合いたての恋人のように頻繁に手紙のやり取りをしていた。父は郵便局で何度も顔を合わせるうちに少しづつ彼と親しくなっていったらしい。父はせっかちで、じっとしていられない性分だったので出世とは縁がなかった。きっと変わり者同士で波長が合ったのだろう。やがて彼を我が家に招いて食事をするようになった。
 フィンセントは僕に色々な話をしてくれた。特に興味を惹かれたのは、パリで流行している「日本」という東洋の国の話だった。
「カミーユ知ってるか。日本では、芸術家は皆ひとつ屋根の下に暮らして、お互いに作品を贈り合うんだ。すばらしい習慣じゃないか。僕は黄色い家をそういう場にしたいんだ」
 フィンセントは食後のコーヒーを飲みながら遠い目で語った。そしてフランス人と日本人女性との恋を描いた『お菊さん』という題名の小説本をくれた。僕は今でもその本を大事に持っている。
 ポール・ゴーギャンというフィンセントより五つ年上の画家がアルルに到着したのは、その年の十月のことだった。その時のフィンセントの喜びようといったら、クリスマスプレゼントをもらった子供のようだった。さっそく夜のカフェや劇場、ダンスホールへとポールを連れまわし連日遊び回っていた。フィンセントはポールがいかに才能あふれる画家なのかを僕たちに熱心に説いて回った。
 そんなある日、事件は起こった。フィンセントは生活資金を弟からの仕送りに依存してたのだが、突然それが届かなくなったのだ。三日おきに届いていた手紙も二週間以上も音沙汰がなくなった。フィンセントはほとんど半狂乱になって父のいる郵便局に駆け込み、騒ぎ立てた。
「どうしようジョゼフ! まさか弟に何かあったんじゃないかと心配で……」
「落ち着けよ。まずは親父さんに連絡してみたらどうだ」
 父親という言葉を耳にした瞬間、フィンセントの表情に暗い影が落ちた。青ざめた顔をして彼は首を振った。
「それは駄目だ。父にとって、僕は……重荷なんだ
「なぁ、子供を愛してない親がどこにいる。いいから手紙を出してみるんだ。優先して届くよう俺が口を利いてやるから」
 その話を父から聞いたとき、なぜフィンセントが自分より年上のポールに心酔していたのか分かった気がした。彼は自分を受け入れてくれる家が欲しかったのかもしれない。
 三日後にオランダから帰ってきた手紙を読んだフィンセントは、郵便窓口のジョゼフに泣きついた。
「仕送りを止めていたのは父だった。テオはもうじき結婚するんだ。だからこれ以上弟に迷惑をかけるなと」
 手紙を読む手は震えていた。
「父はこれからアルルに向かうと書いている。明後日には到着するそうだ……」
 アルル駅でふたりが何を話したのか、いまはもう知る方法はない。けれどテオからの仕送りは無事再開されたようだった。フィンセントはそれから少しだけ穏やかになったと思う。お金もないのに高価なプレゼントを贈ってはポールに怒られる、といったこともなくなった。
 今では誰もが知っている耳切り事件のあと、療養所に入院したフィンセントを僕たち一家は見舞いに行った。彼は相変わらずパイプを燻らせながらキャンバスに筆を走らせていた。ポールがパリに帰ったと知らせると、少し哀しそうな目をしたけれど、僕を抱きしめてくれた。
「ありがとう。君たちのおかげで僕はひとりじゃないと気づけた」
 フィンセントが天国に旅立ってもう四年が経つ。時は瞬く間に過ぎ去っていく。けれど、彼の遺した仕事はきっと百年後も消えないだろうと僕は信じる。
 僕は画商になるためにパリで勉強しようと思っている。その時はオーヴェル・シュル・オワーズにある君の墓を訪ねるつもりだ。さようなら、フィンセント・ファン・ゴッホ。


 




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