東ミソスモアで初対面の人とお茶を飲む
東ミソスモアでは、初めて会った人とお茶を飲むことがあった。知人から正式に紹介された相手とは限らない。雨を避けて店先に入ったとき、乗合車の出発を待っているとき、道を尋ねた家の人が「少し座ればよい」と椅子を示すこともあった。
私は最初、お茶に誘われると、これから互いのことを詳しく話すのだと思っていた。名前、出身、仕事、東ミソスモアへ来た理由。初対面の会話に必要そうな情報を、頭の中で並べてから席に着いた。
けれど、カップが置かれても、すぐ質問が始まるとは限らなかった。湯が少し冷めるのを待ち、窓の外を見て、同じ皿から乾いた菓子を取る。相手がどのような人かを知る前に、まず同じ時間の中に座ることが求められていた。
席へ着くまで
いちばんよい椅子とは限らない
初対面の客だからといって、部屋の中央にある立派な椅子へ案内されるわけではなかった。台所の入口に近い椅子や、窓際の小さな腰掛けを示されることも多かった。
そこは家族が普段使っている場所だった。座面には少しくぼみがあり、背もたれには上着や布が掛かっている。家の人はそれらをすべて片づけるのではなく、客が座れる幅だけを空けた。
私は、歓迎されるなら、特別な席を用意されるものだと思っていた。しかし東ミソスモアでは、初対面の人を暮らしの外側へ置くより、日常の中に一人分の場所を作ることがあった。
その椅子に座っても、家の人と同じ位置にはならない。台所の奥へ勝手に入ることも、棚から物を取ることもできない。それでも、客専用の場所へ隔てられず、その家でいつも使われている物の間に身体を置くことができた。
荷物は手の届くところへ置く
鞄を持っていると、家の人は床や椅子の脇を指した。別の部屋へ預かろうとはしない。初対面の人が、自分の持ち物を見失わない位置に置けるようにするためだった。
私はときどき、丁寧に見せようとして、鞄を膝の上に抱え続けていた。すると相手が、足元へ置いてよいともう一度示した。
鞄を下ろすと、身体の前が空く。カップを両手で持てるようになり、食卓へ少し近づける。けれど上着までは脱がず、靴もそのままでいることが多かった。
完全にくつろぐわけではないが、すぐ立ち去る姿勢でもない。初対面のお茶は、その中間に身体を置くところから始まった。
最初の一杯
カップは満杯にしない
東ミソスモアで出されるお茶は、最初からカップの縁まで注がれないことが多かった。半分より少し多い程度で止め、相手が飲む速さを見てから足される。
熱いお茶を好む人もいれば、冷めてから飲む人もいる。砂糖を入れる人、何も加えない人、少量の乳を混ぜる人もいた。初対面では、その人の飲み方がまだわからない。
少なめに注いでおけば、熱すぎても急いで飲む必要がない。気に入れば、次はもう少し多く入れてもらえる。最初の一杯は、もてなしを完成させるものではなく、相手の好みを知るための小さな量だった。
私は出されたものを残すのは失礼だと思い、熱いうちに飲み切ろうとしたことがある。すると家の人はすぐ次を注いだ。私が早く飲みたい人だと判断したらしい。
初対面のお茶では、飲み方も返事になっていた。カップを置く速さ、砂糖へ手を伸ばすかどうか、二杯目を受けるときの表情によって、言葉より先に互いの調子がわかっていった。
甘さは本人に決めさせる
砂糖は、あらかじめお茶へ入れられず、小さな器に分けて出されることが多かった。角砂糖ではなく、粗い粒の砂糖を小さな匙ですくう家もあった。
「いくつ入れるか」と尋ねられても、私は適量がわからない。相手と同じでよいと答えると、家の人は笑い、自分は甘くしすぎるからまねをしない方がよいと言った。
それでも私が迷っていると、匙に半分だけ砂糖を載せ、カップの横へ置いた。入れるかどうかは、自分で決めればよいということだった。
初対面の客には、何が好みかわからない。それを無理に聞き出したり、家の味へ合わせさせたりせず、途中まで用意して選択を残す。お茶の甘さには、その距離が表れていた。
会話はお茶より遅く始まる
名前をもう一度尋ねる
紹介された直後に名前を聞いていても、席に着いてからもう一度確かめられることがあった。聞き取れなかったからではなく、その人へ直接呼びかけるために必要だったのだと思う。
東ミソスモア語では、名前や呼称が文の最後に置かれることがある。お茶を勧めるときにも、「もう少し飲む、シヲン」と名前を添える。発音が正しくなければ、私はゆっくり言い直した。
相手の名前も、私には一度で覚えられないことがあった。聞き返すと、その人は名前を短く言い、必要なら日常で使う呼び方も教えてくれた。
初対面の会話では、名前を覚えているふりをするより、間違えたまま呼ばないことの方が大切だった。名前を尋ね直す短い時間によって、相手はただ家に入ってきた人から、呼びかけられる一人へ変わった。
出身をすぐ聞かない
私が外国から来たとわかると、どこから来たのか尋ねられることは多かった。それでも、お茶を置いた直後から質問が続くことは少なかった。
最初に話されるのは、外の天気や、今いる場所についてだった。「雨が長くなった」「この時間の乗合車は遅れやすい」「その椅子は少し傾いている」。互いがすでに見ているものから会話が始まる。
そのあと、言葉の発音や持っている鞄、これから向かう場所へ話が移り、ようやく出身や仕事を尋ねられる。
私は初対面では、早く自分を説明した方が相手も安心すると考えていた。けれど、東ミソスモアのお茶の席では、相手の経歴を聞く前に、その人がどの速さで返事をし、どの程度の沈黙を気にしないかを確かめていた。
誰であるかを知る前に、どのように隣に座れる人なのかを見ていたのである。
同じ皿から取る
一つ目を勧められるまで待つ
お茶とともに、薄い焼き菓子やパンが出されることがあった。大きな皿が中央に置かれ、人数分を取り分ける小皿はない。
家の人が一つ取り、客へ勧めてから、自分も食べる。初対面の私は、いつ手を伸ばせばよいのかわからず、皿を見ながら待つことが多かった。
一度勧められれば、二つ目からは自分で取ってよい。ただし、残りが少なくなると再び手が止まる。家の人はその様子を見て、皿を客の近くへ少し動かした。
言葉で「遠慮しないで」と何度も言うのではなく、皿の位置を変える。客も、勧められた分をすべて食べる必要はない。食べ物のやり取りは、互いのためらいを少しずつ減らすものだった。
最後の一つは半分になる
皿に菓子が一つだけ残ると、誰もすぐには取らなかった。家の人が客へ勧め、客が断る。二度ほど同じやり取りをしたあと、家の人が菓子を二つに割ることがあった。
正確に同じ大きさにはならない。片方が少し大きければ、その方が客の側へ置かれる。
私は最初、そこまでして最後の一つを食べなくてもよいと思った。けれど、一つを誰かに譲れば、受け取った側だけが食べることになる。半分にすれば、同じ皿の終わりを二人で引き受けられる。
初対面の人とのお茶では、同じ物を食べることが親しさの証しになるというより、片方だけが客や主人の役割を続けすぎないための小さな調整になっていた。
沈黙が続くとき
カップへ視線を落とす
初対面の相手と会話が途切れると、私は何か質問を探していた。沈黙が長くなれば、相手を退屈させているように感じたからである。
東ミソスモアの人は、話題がなくなるとカップへ視線を落とした。匙で底を一度混ぜたり、湯気の消え方を見たりする。すぐ次の質問へ進まず、お茶を飲む時間へ戻る。
その沈黙は、会話が失敗したことを示してはいなかった。そもそも、二人は話すためだけに座っているのではない。同じ卓でお茶を飲んでいるのであり、言葉がないあいだにも、その用事は続いている。
私も、無理に文を作らずカップを持つようになった。すると、窓の外の車輪の音や、奥の部屋で動く家族の気配が聞こえた。次の会話は、沈黙を埋めるためではなく、そこから見つかったことについて始まった。
相手の家を見回しすぎない
話が途切れたからといって、部屋の中を詳しく見るのも避けた方がよかった。壁の写真、机の紙、棚の小物には、その家の暮らしが表れている。興味を持っても、視線を長く留めれば、相手は説明を求められていると感じるかもしれない。
初対面の客は、見えるものすべてについて尋ねる必要はなかった。
家の人が写真へ目を向け、自分から話し始めれば聞く。棚の器を手に取って見せてくれたなら、由来を尋ねる。相手がまだ触れていないものは、その家の内側に残しておく。
お茶を飲むことによって家へ入れてもらっても、家にある記憶まで自由に読めるわけではない。その境界を守ることが、沈黙を落ち着いたものにしていた。
帰る時刻
カップを空にしても終わりではない
お茶を飲み終えたからといって、すぐ立ち上がるとは限らなかった。カップを置き、最後の会話をし、外の様子を一度見る。
家の人が次のお茶を注ごうとしなければ、そろそろ帰る時刻であることもわかった。けれど、それを追い出されているとは感じなかった。最初の一杯と同じように、相手の様子を見ながら、お茶の時間を閉じようとしていたのである。
私は帰ると決めると、急に鞄を持って立ち上がりがちだった。すると家の人も慌てて扉へ向かう。次第に私は、まず鞄を膝へ載せ、会話を一つ終えてから立つようになった。
座っている状態から外へ出るまでにも、短い移行が必要だった。
次に会う約束を必ずしない
初対面の人とよい時間を過ごすと、「また会いましょう」と言いたくなる。しかし東ミソスモアでは、必ずしも次の約束が交わされるわけではなかった。
「またこの道を通ったら寄ればよい」と言われることはある。それは具体的な訪問日を決める言葉ではない。再会する可能性を閉じないまま、その日の関係を終える言い方だった。
名前を知り、お茶を飲み、少し話したからといって、すぐ友人になるわけではない。次に会えば挨拶をし、相手も覚えていれば、そこで前の会話の続きが生まれるかもしれない。
初対面のお茶は、関係を完成させるためのものではなかった。次に会ったとき、完全な知らない人へ戻らない程度の記憶を、互いに残す時間だった。
東ミソスモアで初対面の人とお茶を飲む
東ミソスモアで初対面の人とお茶を飲むとき、私は相手について多くを知らないまま席に着いた。そして、席を立つときにも、その人の生活のすべてを知っているわけではなかった。
わかったのは、砂糖をどれほど入れる人か、沈黙をどのくらい待てる人か、最後の菓子をどのように分ける人かという、小さなことだった。相手もまた、私が熱いお茶を急いで飲むことや、名前の発音を何度か確かめることを覚えたかもしれない。
経歴を交換するだけなら、もっと短い会話で済む。けれど、同じカップから立つ湯気を見て、同じ皿へ交互に手を伸ばすうちに、相手の言葉では説明されない部分が少し見えてくる。
初対面のお茶は、知らない人をすぐ身近な人へ変えるものではなかった。相手がまだ知らない人であることを保ったまま、しばらく同じ卓に座れるかを確かめる時間だった。
帰るころになっても、二人の間には知らないことが多く残っている。それでも、扉の外で再び顔を合わせたなら、前より少しだけ声を掛けやすい。
東ミソスモアで初対面の人とお茶を飲むことは、関係を始める約束ではなかった。知らないままの相手との間に、次に言葉を置けるだけの小さな場所を作ることだったのである。
