好きなものや生き方を全肯定してくれる人が、たった一人でもいいから欲しかった内向型の話
誰にも言っていない「好き」がある。そんな内向型の人は多いと思う。
周りの誰も聴いていない音楽とか。人に話したら少し引かれる気がして、出さないままの自分哲学とか。「本当はこんなふうに生きたい」という、頭の中にだけある暮らしとか。
そんな自分を外側では隠して、まわりに合わせて生きるなんて、どうしたって生きづらいはずだ。それでもどうにかここまで命を続けてこられたのは、内側にあったからだと思う。誰にも見せたことのない、自分だけの世界が。
それがなかったら、たぶんどこかで折れていた。
何年か前、私が密かに、心の底から良いと思っていたものが、メディアで大きめに取り上げられたことがある。
嬉しかった。もしかしたら、伝わる人がいるかもしれない。誰かの心に影響を与えたかもしれない。私が経験したのに似た波紋が生じたかもしれない。
そんな期待を抱えて、その夜、私は検索窓にその名前を打ち込んだ。
出てきたのは、想像と違うものだった。
「なんか怖い」
「こういうのが好きな人たちって、結局現実から逃げてるだけでしょ」
「無理。理解できない」
私に向けられた言葉じゃない。なのに、読むほどに胸がドキドキして、指先が冷たくなっていって、やめればいいのに、親指が止まらない。画面の中では、私が何年も密かに心を寄せ続けてきたものが数秒で、会ったこともない誰かの、ありがちな言葉に雑にまとめられていく。
その日を境にしてか、変わったことがある。
何かを「良い」と言おうとすると、口を開く前に、あの画面が再生されるようになった。
例えば職場の昼休みで「休みの日って何してるんですか?」と聞かれた時、本当の答えを無難な答えに差し替えるようになった。
話す前に、相手が何を良しとして、何を笑うのかを先に読み込んだり、相手の価値観を自分の頭にインストールして、その中で通る言葉だけを選んで出すようになった。
元々そういう傾向はあった。でも、年々それが、器用にできるようになってきてしまった。できるから、続けてしまった。
だけどその間も、内側の世界は止まらず、むしろ拡張し続けた。会社の帰り道、何かをリセットするようにイヤホンでいつもの音楽を耳に流し込み、頭の中では昼間言えなかった世界の方に没入した。昼休みに愛想笑いをしていた私から、完全に降りるために。
この二つの違う私同士の距離が、どんどん開いていった。
外の私が上手くなればなるほど、それはそれでおもしろくなって、日中の私はもう、自分に内側世界があることも思い出せなくなった。
夜、一人に戻ってから、「今日も一度も、本当のことを言わなかったな」なんて思う間もなく、無理やりでも注入した音楽でなんとか元の自分を取り戻す日々が続いた。
そんな、今思うとひどくアンバランスな日常が続けば、当然のことながら、こんな傾向が強くなっていく。
インストールしたはずの他人の価値観が、いつからか、私自身を裁き始める。
自分が一番良いと思ってきたものに、自分で「本当にこれがいいんだっけ?」と言い始める。
してみたい生き方に対して、「そんなの現実的じゃなくない?」という声が、自分の声として頭の中から聞こえてくる。
陰でずっと支えにしてきた世界に向かって、自分でも信じられないほど無礼な言葉が出てくる。
なんか、あたり前なんだけどさ。苦しくてもがいた末に、やっとたどり着いたはずのものを、一番近くにいる自分が疑い出したら、もう立っていられる場所なんてないんだよね。
そうして好きだったはずのものに、前ほど感動する力も失って、それより一般の世界に染まるようになって、「そうか、これが成長なのかもしれない」とすら思っていた。
そんな時期に、昔から好きだったあるアーティストのインタビュー記事を読んで、私は衝撃を受けた。
その人は、自分の感覚を、自分の信じている世界のことを、何の遠慮もなしに話していた。笑われたときの保険も、「変かもしれないけど」みたいな前置きもなく。まっすぐに、まるで水を扱うみたいに自然にこちらに流し込んできた。
読みながら、泣いていた。
内容に泣いたというよりは、「言えている」ということに泣いてしまった。
私も言いたい。
良いと思うものを、目指したい方向を素直に、なんの不安もなく口にしたい。たったそれだけのことが、どうして私にはこんなに遠いんだろう。私が本当にいいと思ったものを”言える”相手は、一体誰なの。どこにいるの。
当時の私は、本気で外を探せば、言える場所や、全部を受け入れてくれるコミュニティがあると思った。出会えてないだけだと思った。たった一人でもいいから、わかってくれる誰かにいつか出会えることを、祈るみたいにして生きていた。
それから、何年か経った。
探していた「全部を受け入れてくれる場所」は、結局どこにも見つからなかった。相手を先に読み込んでしまう癖も、今も消えていない。たぶんこれは一生ものだと思う。
でも、変わったことがある。
あの頃から私は、行き場のない気持ちを、文章に書いていた。わかってくれる誰かに、いつか見つけてもらいたくて。
それがここだ。
それは見つけてもらうための行為でありながら、偶然にも、全く別の感覚も生んでいた。
まだ誰にも読まれていない文章を書いているその時間、
私はもう、”言えて”いた。
まだ誰の価値観もインストールしていない、遠慮のひとつもない言葉で。
それで気づいた。私の中に溢れた「好き」や「世界」を、「言葉」を、最初から最後まで、ずっと聞いてきた人がいたことに。
私だ。
「言える相手は、一体誰なの。どこにいるの。」
ずっと外ばかり探していたけど、その前にすることがあった。
私が私の世界を、誰よりも先に認めること。
私が私に言うようになって、それを一番優先と位置付けて動くようになって、それをしばらく続けていたら、自然と、外の世界がどうとか、気にしなくなってきた。
そして不思議なことに、そうしていたら外の理解者が、ぽつり、ぽつりと現れ始めた。
私の孤独感の解消には、自分の「好き」を、その「こう生きたい」を、一番長く、一番近くで聞いてきた人=自分に、まずは味方になってもらうしか方法はなかった。
そのことに気づいたのが、私にとってのいちばんの救いだった。
「誰もいない」「どこにも見つからない」
それは絶望じゃなく、ようやっと、私に私の味方になってもらうことの、許しになっていった。
「好きなものや生き方を全肯定してくれる人が、たった一人でもいいから欲しい」そんな気持ちは絶対否定しなくていいと今も思ってる。
でも追って苦しくなる必要なんて無いことも、同時にわかってきた。
もし本当にそんな人やそれに近い人が見つかったら、それはそれでものすごいギフトなんだろうなと、今は思う。
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