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「自分を愛する」感覚ってこれの事かもしれない

近頃むしょうに、お芋とかカボチャとか栗とか、秋を感じる甘いものを食べたくなります。
もはや、秋を感じることに、少し焦っているくらいかもしれません。

秋、どこへ行っちゃったんでしょう。

驚くほどの冷たい風
かと思えば、
Tシャツをしまい込んだことを後悔するほど強い日差しの再来…

そんな荒ぶる天候に翻弄される中、
ほんっっっのスキマに
「ちゃんとした秋」の気温があると……

「そうそう、秋ってこれだったな」
って思い出す。
全てが緩む適温に、体がストンとする感覚。

その「ストン」には、いろいろなものが剥がれ落ちる音もある気がします。

今まで必死に握りしめてきたもの。
「こうなったらどうしよう」という不安。
不安を感じてることすら気づかず、自分を走り続けさせてきたエネルギー。

そんなものたちが木の葉みたいにはらはらと落ちて、自然と軽くなっていく。

INFJの秘密基地にいても、今、変化の中にいる人が多そうだな、と感じます。
そして今回は私もひとつ、大きな変化がありました。

どこまで書くか迷ったけど、今回の話の前置きに、私の近況報告として少しだけお話しさせてください。


数ヶ月前、一番大切だった人と、お別れしました。

6年以上、一緒に暮らしました。
このnoteを始めるきっかけになった人。
彼といなかったら、こんなにも内向的な文章は書けていない。

完全に私の「生まれてはじめての帰る家」になっていた人でした。

「もう終わったんだ」と分かってから
緊急地震速報のあの怖い警告音を聞いた時みたいな胸の震えが何日も続いて、
深呼吸をして、瞑想をして、「大丈夫、大丈夫」と一人で何度も口に出して、乗り越えました。

そして不思議なことに。

そのあとの私の世界には、多くの大切なものが残っていました。

いや、残っていたどころか、驚くほどに拡張しました。

今、自分の大好きなものたちに囲まれて、今まで以上に深く息が吸えるお家で、暮らしています。

失ったと思っていたのに、自分の中の何かが戻ってきてもいて、
それらを包み込むように、確実に自分の理想に近づいている。

自分でも、びっくりです。
なんの魔法が起きているんだ…


そしてその”魔法”の秘密を解くような、ひとつ大きな気づきがあった
というのが、今回の本題です。

少し奇妙な表現かもしれませんが、お付き合いください。

不思議なことに今、
ひとりで孤独に暮らしているはずなのに、
「大好き」と言っていた時のあのあったかい感覚が、自分の中で消えないんです。

今までは、彼にだけ向けていたこの言葉。
人生で初めて、私を真正面から愛してくれて、私もその言葉を言うことが完全に許されていた(「正しい」と思えた)から言えた、「大好き」。

どうやら、私の中にまだ彼への気持ちが残っている…とかではないみたいで。
なぜなら、誰のことも思い出さない、ただお気に入りの家具に触れて、お茶を飲んで、ゆっくりアニメを見ているような時や、ただぼーっとしたり瞑想している時に、なぜか出てくる感覚だから。

これはなんに対しての?
アニメに対しての?
この生活に対しての?

違う。

それはもはや言葉ではなく、ただの湧き出る感覚。

もしかして…
自分に対して?


そう、彼を愛する生活の中で、私はいつのまにか彼だけでなく、人を愛せるようになっていました。
ほんでついでに、
自分という存在すら愛する感覚を持てるようになっていたみたいなのです。

それは、比較や陶酔からくるものではなく、ごく自然な感覚。

全てがそこから始まる感覚があり、
現実的にもさまざまなものごとが変化していました。


私の人生の中で、何回も出会う言葉(考え)があります。
「自分は凡人だと自覚せよ。全てはそこから始まる。」

多くの人にとってそれは人生を前に進めるにあたり、重要な視点になるとは思います。
でもこれまでの私には「自分を特別だと思ってはいけない」という意味合いを持って、なぜか必要以上にぶつかってくる言葉でした。

「自分は特別ではないと自覚しよう
人に感謝しよう
他人は変えられない
だから期待もするな
執着を手放そう
重たいものを手放して、軽やかになって

それが苦しさから逃れる秘訣
幸せになる、大切な第一歩」…

でも、私はそれに行き詰まりを感じていました。
そしてこうも考えました。
「他人は操作できない」を前提とすることと表裏一体で
「他人と違って自分のことはどうにかできる」のも事実。
ならば…
どうしたって、”感じる”ことと直結するこの「自分」が特別であることは、
ある意味、当たり前なのです。

そこを、すっ飛ばしてはいけなかった。


昨今、「自分をメタ的に見ることが大切だよ」とよく聞きます。

「メタ的に見る」とは、「自分は今こう考えているな」「こういう考え方の癖があるな」と自分を自分で俯瞰して見ること。

さらに「そもそも人間というものは往々にしてそう思うものである」「だから自分は特別じゃない」という視点も、自分のものの見方に溺れないためには有効とも言われます。

確かにこれらは人と良い関係を築き、本質を見据えられるようになるために、とても大切な考え方だと思います。

では、視点を「自分」からどんどん遠ざけ、自分を「一人の人間」として見る「客観」「理論体」になり、果ては「宇宙」になることが正解なのでしょうか?

ここからが私の意見です。
「メタ的に見る(自分を俯瞰する)」とは、まず
「(当たり前に)自分が自分を愛している」「そしてそれを自覚する」ことがスタートなのではないでしょうか。

つまり、「俯瞰」は大事だけれど、それは「自分を(ある意味)特別に思っている」ことを大前提としたうえでの話だよ、ということです。
そしてその状態は人間として当たり前に許されていることであり、
過剰な肯定も要らなければ、否定も全く要らない

だからもし反対に自分を「愛していない」状態があるのだとしたら…
最優先なのは「俯瞰」より「手放し」より、なによりまず「自分を許すこと」なのではないか、と思います。

そして自分を許した先で、「自分を大好きになる」状態は、「人が(世界が)大好きである」状態と同じところにある
それは努力してそうなるものではない、と思ってます。

なぜなら私には、変化の中でそれらが自然とやってきた感覚があるからです。

自分をなるべく甘やかし、
「うわぁぁ!こんなことがあるなんて、世界は最高だァァ、ありがとー…!!」
というのを繰り返し感じることで、
そう感じられる自分にも、やわらかい視線を向けられるようになっていたんです。


「自分は特別じゃないから」
というような、人が社会的視点を意識し、自分を律するような言葉は美しく見えます。
一方で、人が自分に対して意図的に向けるやさしい眼差しや特別感ある眼差しというのは、他人にとっては違和感があるかもしれません。
(そこにも実は「誰もが”自分が特別”だから」という事実があります)

間違えやすいのは、「違和感のあるようないびつさが実際にある」のではなく「他人にとっては違和感がある」だけ、ということ。
事実ではなく、他人の目なのです。

それがもう自分の奥の方まで浸透し、身体と心の全てのコントローラーを握ってしまっている場合。
先に必要なのは、嫌われる勇気でも幸せになる勇気でもなく、
もしかしたら自分を「愛する勇気」なのかもしれません。
(アドラーさんのアンチではありません笑)


もし、「それは分かっているんだ」「でも変わらない」…
と行き詰まってしまった場合。

私の経験上、思い切っていつもと違うことをしてみるのが一番効果があります。

例えば…

朝起きてまず
必要なことからする⏰
をやめて、
→余計なことからしてみる🕺

栄養だから食べる
→好きだから食べる

したくないけどする→ならしない
行きたいけど保留→んじゃ行く

…ちょっぴりワクワクしてきました?


枯れ葉がはらはら落ちる秋。
捨ててしまいたいもの
代わりに、自分にあげたいもの
なにかありますか?

なにもなければまずは

自分のためにひとつ、
おいしいモンブランでも、買いに行きましょうか。





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