【頑張りすぎて疲れた】ゼロになるまで自分を使い切ってしまう私たちに起きていること
深夜、検索窓に「頑張りすぎて疲れた」と打ったことがある。
何を探しているのかは、自分でもよく分かっていなかった。 対処法が知りたかったのか、同じ人がいると確かめたかったのか。 今思えば、たぶんどっちでもなかった。 ただ、この一文を口に出せる場所が、そこしかなかった。
人には言えなかった。 言えば「休めば?」と返ってくるのが分かっていたし、心配だってかけたくない。 それに、もっと頑張っている人なんていくらでもいる。 私程度が「疲れた」なんて言っていいのか、自信がなかった。
だから先に言っておきたい。 そのためらいをかいくぐって、やっとその一文を打ったのだとしたら、その「疲れた」は、本物だ。
あの夜、検索結果には、親切な記事がたくさん並んでいた。
「まずはしっかり休みましょう」 →いや、休んでる。今布団にいるし。と思った。
「何もしない時間を作りましょう」 →そんな時間があるなら、まずは溜まってる用事を片付けたいと思った。
「自分を労わってあげましょう」 →分かるけど、これを聞いて実行できたことがない、と思った。
今読み返すと、われながら取り付く島もない。 処方箋のはずの言葉たちを、私は当たり前のように却下するしかなかった。
「頑張りすぎる人の特徴」を読むと、そこには
「真面目で、責任感が強くて、人の期待に応えようとしてしまう」
と書いてあり、そうなんだろうな、と思った。
そして月曜の朝になると、そのまま、普通に頑張っていた。
週に二日の休み。その二日は、平日にできなかったことで埋まっていった。買い物、掃除、洗濯。病院、美容院、実家の用事。普段はできない、事務的なこと。
だけど当時の私は「仕事の頭を使わなくて済む時間は、全部ありがたい休み」と思っていた。
実際は、「仕事に影響が出るような事態にならないための、最低限スレスレの皿回し」だったのに。
ソファでお茶を飲んでいる。頭の中では「これ飲んだら洗濯物だな」と、次の段取りが再生されている。 意味のない動画を再生できる時、「私、今けっこう贅沢してるな」という認識が、うっすらした罪悪感と一緒に浮かぶ。 日曜の夕方には、「明日からまた仕事。ちゃんとやらないと」という予告編が流れ始める。
友達と遊んでいる時、「……いいんだっけ、これで」というふわふわした感覚が通り過ぎていくこともあった。本当はうまく楽しめていないこともあった。
こうして冷静に文字へ起こしてみて、初めて分かることがある。 疲れたと心では言いながら、休日を予定で埋め、休憩中に次の家事の段取りを組み、娯楽一つに罪悪感を払い、遊びを採点する。 当時は全部、当たり前になっていた。
今ならわかる。たぶん私は、”休んで”いなかったのだと思う。
「休み」というのは、仕事がない日のことじゃないのだと思う。だって本当に心が休まるのは、頭の中の緊張とか、明日の仕事への不安とか、罪悪感とかが、ぜんぶ止まっている状態のことだから。
当時の私はそれすら想像できなかった。
私がしていたのは、休みの姿をした業務だった。
休みすら頑張ってしまうなら、私は一体、何のために私を絞っていたのか。
思い当たることはある。 子どもの頃から、頑張ることは無条件に「いいこと」だった。 怠けるのは悪いこと。テストの点、通知表、「よく頑張ったね」。 結果が出た時だけ認めてもらえる世界で、「努力」だけがそれを掴むための道だった。やって必ず結果が出るわけではないけど、やらないと絶対に結果は出ない。 頑張ることそのものを疑う機会は、どこにもなかった。疲弊すればするほど、何か罪が取り払われるような感覚。
その記憶が、いつのまにか取り引きの形で心に残っていた。
頑張ったから、存在を認めてもらえた。
…じゃあ、頑張らなかったら?どうなる?
娯楽に対する罪悪感も、日曜夕方の予告編も、「いいんだっけ」のふわふわも、たぶん全部、この問いの続きだった。
そして、何かを頑張っている間だけは、この問いは黙っていてくれた。
私が動き続けたのは、自分をゼロになるまで使い切ろうとしたのは、そういうことだったのだ。
動けば静かになるし、止まると、頭の中の誰かが何かを言う。だから、疲れ果てるまで、動き続けるしかなかった。
頑張る事自体は、悪い事じゃない。
誰かのために動き続けられる人は、そう多くない。その人のいいところでもある。
でも、自分がボロボロになるまで頑張りすぎるのだとしたら、それはもう性格じゃない。「真面目」や「責任感」という言葉ではもう済ませられない。
もう、自分の頑張りを、当然だと思うのはやめることにした。
私の優しさも配慮も、無償で無限に湧いてくるものじゃなかった。
あの時、検索窓に心の叫びを打ち込んだ私に、何が起きていたのか。 今なら答えられる気がする。
止まってしまう(休む)ことが恐ろしくてたまらなくて、走り続けていた。
逆に言うと、「止まっても生きていられる」ということが、わかっていなかった。
概念を知っていて理解できないのではなく、「自分にそれが許される」という視点がそもそもなかった。
まるで、エスカレーターを知らない人が、楽に流れていく人たちに脇目も振らず、階段を猛ダッシュしてるみたいに。
その場合はもう、体感を持って、知るしかない。
あの時の私に、伝えなければいけないことがある。
今の私、実は、あなたが見たら青ざめるくらい、めちゃくちゃに休んでいるよ。
何もしない午後があるし、罪悪感なしでドラマを見れるし、予定のない日が平気で存在する。
それで、何の問題も起きていない。
それどころか、より心も成長して、体も健康になって、もっと色々なことができるようになってる。
あの時は想像できなかったことが、色々。
ゆっくりお茶を飲むとか、アロマを焚くとか、深呼吸するとか、
したいならしていい。でも、やらない人が何か言われる筋合いはない。
一番の対処法は、「止まっても、そこから降りても、全然生きられるし、むしろいい」と、体感することだ。
だからもし、あなたが今、止まるか降りるかの際に立っているなら。
それは弱さじゃない。環境の中で一人だけ立ち止まるのは、走り続けるより、ずっと勇気がいることだから。
今夜はまず、何も頑張らずに眠ってほしいです。
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ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
私が仕事を辞めた時に考えた色々(不安とどう向き合ったか、お金のこと、手続き時に発生する心のモヤモヤ、などなど)をひとつずつ書いてまとめたマガジンを置いておきます。
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