齧られる回数をよくまちがえる/栫伸太郎
シリーズ・現代川柳と短文NEO/206
まず発端は《かじる側》にあり、発端なのでそこには「まちがい」という概念そのものが存在しない。それがあるのは《かじられる側》だ。踏み込んで言えば、そもそも《かじられる側 》は正解を出すことができない。よくまちがえるどころではなく、つねにまちがえる。それこそが《かじられる側》だ。そしてかれらがいるからこそ《かじる側》の存在が保証される。
【きょうの現代川柳】
齧られる回数をよくまちがえる
/栫伸太郎
▼出典
シリーズ・現代川柳と短文NEO/206
まず発端は《かじる側》にあり、発端なのでそこには「まちがい」という概念そのものが存在しない。それがあるのは《かじられる側》だ。踏み込んで言えば、そもそも《かじられる側 》は正解を出すことができない。よくまちがえるどころではなく、つねにまちがえる。それこそが《かじられる側》だ。そしてかれらがいるからこそ《かじる側》の存在が保証される。
【きょうの現代川柳】
齧られる回数をよくまちがえる
/栫伸太郎
▼出典