10分間の鼓動
この記事は投稿コンテスト「#あの日母になった私へ」の応募作品です。
激しい雨音がする。
真夏の昼のはずなのに部屋の中は薄暗い。
私はベッドの横に立っていた。
見覚えのある部屋…
「懐かしい」と感傷に浸る前に、ベッドのふくらみに気づいて私の心臓は激しく鼓動し始めた。
あぁ、これは「あの日」だ。
ベッドの中には”彼女”がいる。
夏用の薄いブランケットの下で彼女は丸まっている。
手には陽性の妊娠検査薬が握られているはずだ。
そう。
数分前に、彼女の肩書きは
「主婦」から「母」に変わったのだ。
『何しに来たの?』不意に声が響いた。
心臓が飛び上がる。
「…わかんない」
できるだけ落ち着いて答える。
沈黙が流れる。
チッ チッ チッ…
2年前、壊れて捨てたはずの時計が壁で音を立てている。
少しずつ、あの時の感情が蘇る。
私はそっとベッドの横に腰掛けた。
まだ鼓動は早いままだ。
彼女の体の上にそっと手を置く。あたたかい。
沈黙を破りたくて、彼女に聞いた。
「嬉しい?」
『…わかんない。』と、彼女は答える。
「…怖い?」
『うん』
あぁ、やっぱりあの時と同じだ。
私は彼女に…
「母になった私」に何を伝えにきたのだろう。
相変わらず胸が苦しい。
いつの間にか両手で胸を押さえていた。
彼女は今、湧きあがる恐怖と、自分への怒りに飲み込まれている。
あれほど覚悟して臨んだ治療だったのに、
いざ妊娠すると、高齢出産への恐怖が押し寄せてきた。
そして、妊娠を喜べない自分に絶望しているのだ。
布団にくるまり、息をひそめ、自分の存在を消そうとしている。
私は何を、彼女に話せば良いのだろう。
あのね、もっと辛いことがこの先たくさんあるんだよ。
大丈夫、頑張って乗り越えようよ。
とでも言えば良いのだろうか。
それとも
あなたはすごく頑張ったんだよ。
とても元気な男の子が生まれてね…
と、未来の光を示せば良いのだろうか。
「違う」と直感的にわかる。
なぜなら私は、
この後遭遇する数えきれないほどの苦しみや、
夜通し泣くような悲しみを、
彼女が乗り越えていくことを知っている。
そして、悩み、苦しみ、もがいたこと全てが、
今の私につながっていくのだ。
だから、私は何も言えない。
ただそばに寄り添い座っているだけ。
しばらくすると、彼女が聞いてきた。
『いつまでいるの?』
「…そうだね。帰るよ。」
彼女にかける「答え」が見つからないまま、私はそう答える。
ゆっくり立ち上がり、ドアへと向かう。
ドアへ手をかけようとしたその時、消え入りそうな小さな声が聞こえた。
『いま、しあわせ?』
私は振り返る。
その瞬間、息子の声がした。
「まぁま!」
この部屋で、はじめて私を「ママ」と呼んでくれたあの時の声、そのままだ。
気がついたら涙が溢れていた。
彼女の方を向き、涙を拭いて答える。
「もちろん。」
その声は驚くほど透きとおっていた。
鼻をすする音、漏れてくる嗚咽。
私は少し微笑み、静かにドアを閉めた。
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