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「いただきます」は、いつから生々しくなったのか

食事の前に、
「いただきます」
と言います。余りにも当たり前の言葉ですが、近年、この言葉の意味付けに対して私は違和感を覚えるようになりました。

私は元々、「いただきます」とは、食事を用意してくれた人に対する言葉だと考えています。「いただく」という動詞は、目上の人や他者から何かを受け取るときに使う謙譲語です。つまり、
「(あなたが用意してくれた食事を)ありがたく頂戴します」
という省略表現として考えるのが日本語として最も自然でしょう。

家庭でも、学校でも、外食でも、必ず用意した側がいます。その存在に対して、食事の始まりに一言添えます。それ以上でも、それ以下でもありません。「いただきます」とは、本来とても軽やかな生活の挨拶だったはずです。


1. 仏教由来説

「いただきます」は浄土真宗・曹洞宗など仏教に由来する、という話を耳にすることがあります。確かに仏教には、食前に感謝や反省の言葉を唱える作法があるようです。但し、「いただきます」という言葉そのものが、特定の宗派から直接生まれたという確かな史料はありません。日本語としての「いただく」は、元々武家や公家社会で使われていた謙譲表現です。それが庶民の生活に降りてきて食事の場面で定着したと考える方が言語史的には筋が通ります。

仏教の影響が全くないとは言えないにしても、少なくとも宗教語がそのまま生活語になったという話ではなさそうです。

2. 「命をいただく」という生々しさ

近年よく聞くのが、
「『いただきます』とは、『命をいただきます』ということである」
という説明です。もちろん、私たちは生き物を食べて生きています。

ただ、私はこの説明を聞く度に、「そうじゃないでしょう」と思っていました。例えば、肉を食べる前には牛や豚や鶏の屠殺とさつシーンのような、生々しい死を強く意識しながらでなければ「いただきます」を言ってはいけないのでしょうか。正直なところ、そんなことを毎回想像していたら食欲がすっかり失せてしまいます。日常語としての「いただきます」は、そこまで哲学を重く心に添えなくても十分に機能してきたはずです。

日本語学者の飯間浩明さんは、「いただきます」の本来の意味は「食べます・飲みます」という謙譲表現で、「命をいただく」という考え方は後になって加わったものだと説明しています。私が絶対にそうじゃないと思ったことは言葉の歴史から見ても妥当なものだったと言えるでしょう。

3. 「いただきます」の本当の意味

「命をいただく」という説明は、食育や道徳教育の場では分かり易い比喩なのかも知れません。しかし、それを本来の意味であるかのように語り始めると捏造ねつぞうのようなものになってしまい、語源の説明としては成り立ちません。

この点で、『毎日小学生新聞』に掲載された、飯間さんのコラム「『いただきます』の意味は?」はとても意義深いものだと思います。なぜなら、大人が子供に向かって、
「『いただきます』とは『命をいただきます』ということなんですよ」
と、もっともらしく説明すれば、子供はそれを疑うことなく事実として受け取ってしまうからです。

子供にとって、大人の言葉はそのまま本当の話になります。特に、昔からの意味や日本の文化といった文脈で語られた説明は、後になって訂正されることのないまま知識として定着してしまいがちです。だからこそ、道徳的に立派な話であっても、それを言葉の本来の意味であるかのように教えることには慎重であるべきです。

飯間さんのコラムは、「命をいただく」という考え方を頭ごなしに否定するのではなく、それは後から加えられた解釈であり語源そのものではないと、子供にも分かる形で丁寧に切り分けています。こういう姿勢こそ、子供に向けた言葉として最も誠実なのではないでしょうか。

4.「江戸しぐさ」とよく似た構造

ここで、私は江戸しぐさのことを思い出します。江戸しぐさは、譲り合いや思いやりを重んじる、美しい振る舞いとして広まりました。道徳的には全く異論のない内容です。しかし後になって、それが江戸時代に実際に行われていた文化だという歴史的根拠が乏しいことが指摘されました。フィクションの昔話として語る分には問題なかったと思いますが、それをあたかも歴史的事実であるかのように語った点は問題でした。

「いただきます」に「命をいただく」という意味を、本来の語源であるかのように付け加える動きには、これとよく似た構造が見えます。道徳的には立派でも事実とは別の話です。有難味のある話を語るなら、その話をそのまま語ればいいのです。しかし、それを言葉の由来や本来の意味にすり替えてしまうと、疑問を持つ側の方が、冷たい人とか分かっていない人とかにされてしまいます。

江戸しぐさがそうであったように、善意から生まれた物事ほど事実との線引きは丁寧であるべきだと思います。

5. 合掌が増えた理由

私がもう一つ気になっているのは「いただきます」の際に合掌する場面を、テレビなどで見る機会が増えたことです。

ここでふと、「命をいただく」という話と合掌は、実に相性が良かったのではないかと思いました。合掌は、仏教文化において、感謝、祈り、弔い、鎮魂を一度に表現できる極めて便利な身体言語です。「これは命を奪って食べているのだ」という説明を添えれば、合掌は自然に弔いの所作になります。説明しなくてもなんとなく深い感じが伝わります。

テレビ的にも、教育的にも、これほど分かりやすい構図はありません。

6. その一方でちょっと重々しい

但し、その分、失われたものもあるように思います。元来の「いただきます」は、食事の提供者への感謝であり、行儀を整える合図であり、食事の区切りであり、集団生活のリズムを作るためでもある、極めて実務的な挨拶でした。私自身、保育園や小学校では、手を膝の上に置き姿勢を正して「いただきます」と言い、礼をするものだと教えられてきました。それは宗教でも哲学でもなく生活の作法だったのです。

ところが今では、合掌しないと心がこもっていないように見えるとか、軽く言うと不謹慎に見えるといった、空気が生まれているようにも感じます。挨拶一つに、随分と高度な精神性を要求される時代になったものです。

7.「いただきます」はもう少し気楽でいい

《いただきます=命をいただく》という説明を、あたかも本来の意味であるかのように語られると、疑似伝承(フェイクロア)とよく似た構造が現れます。価値として語るべきものが、いつの間にか事実として扱われてしまうのです。勿論もちろん、合掌してもいいですし、命への思いを込めてもいいのです。しかし、それが唯一の正解であるかのように扱われると、「いただきます」は少し身構えてしまう言葉になります。

「いただきます」は本来、もっと軽やかで日常に寄り添った挨拶でした。少なくとも、毎回、命と向き合う覚悟を決めてからでないと食べられない重々しい言葉ではなかったはずです。



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