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世の中で何が恐いって……

大河ドラマ『べらぼう』の副題に「饅頭こわい」が登場したが、この噺は一体いつ頃からある話なのかが気になり、調査してみることに。『饅頭こわい』の起源から、成立までを追ってみたい。


笑話「畏饅頭」

『避暑録話』

落語『饅頭こわい』は、中国で古くから語られる「畏饅頭」が元とされている。その中でも、北宋末から南宋にかけて活躍した政治家で学者の葉夢得(1077-1148)が著した随筆『避暑録話』に書かれた「畏饅頭」の話が記録として残る最も古いもののひとつである。

讀書而不應舉、則已矣。讀書而應舉、應舉而望登科、登科而仕、仕而以敘進、茍不違道於義、皆無不可也。
而世有一種人、既仕而得祿、反嘐嘐然以不仕爲高、若欲棄之者。此豈其情也哉。故其經營、有甚於欲仕。或不得間而入、或故爲小異以去。因以遲留。往往遂竊名以得美官、而不辭。世終不寤也。
有言。窮書生不識饅頭、計無從得。一日見市肆有列而鬻者、輒大呼仆地、主人驚問。曰、吾畏饅頭。主人曰、安有是理。乃設饅頭百許枚空室、閉之。徐伺于外、寂不聞聲。穴壁窺之、則以手搏撮食者、過半矣。亟開門、詰其然。曰、吾見此、忽自不畏。主人知其紿、怒叱曰、若尚有畏乎。曰、有。猶畏臘茶兩椀爾。
此豈求不仕者也。

『避暑録話』 葉夢得 著

葉夢得は、当時の官人たちが「高邁なふり」をするのが気に入らなかったようで、その態度を「畏饅頭」の話を引いて批判している。たどたどしい訳ではあるが、「饅頭」の話の前までを以下に記した。

学問をして科挙を受け、科挙を受けて合格を望み、合格をして仕え、仕官して昇進するのは、道を違えなければ、何の問題があろうか。だのに世の中のある種の人は、仕官して禄を食んでいながら、仕官しないほうが立派であるかのように、職を捨てるそぶりをみせる者がいる。どうしてそれが本心であるといえるだろうか。その者の(役職を使って利益を得る)やり方は、仕官を希望している者より酷い。あるいは割り込んで差し出口を叩いたり、あるいは小さな差異を指摘し役職をおりるという。そうして職に留まる。しばしば実もないのに名声を得て、よい役職に就けば辞めない。世の中の人は最後まで(虚実であることを)気づかない。これのどこが、仕官を求めない者であろうか(いや求めているではないか)。

いかにも自らが高邁な志を持っているかのように振る舞うが、実際は自らの名声や利益ばかりを追い求めている、と批判する。そして「畏饅頭」の話をして、饅頭が怖いと偽って、それにありつこうとする貧乏学生と、役人を辞めると偽って、役職のおいしいところだけいただこうとする役人、両者の何が違うというのか、と続ける。
『避暑録話』の「畏饅頭」が何かしらの書物の逸話か当時知られた俗話の引用なのか分からない。だが、それより古い話は今のところ見当たらない。

『五雑組』

「畏饅頭」については時代が下って、明代の文人・謝肇淛(1567-1624)の『五雑組』(万暦四十七[1619]年成立)にも採られている。

有窮書生欲食饅頭、計無從得。一日見市肆有列而鬻者、輒大叫仆地。主人驚問。曰、吾畏饅頭。主人曰、安有是。乃設饅頭百枚、置空室中閉之、伺於外、寂不聞聲。穴壁窺之、則食過半矣。亟開門詰其故。曰、吾今日見此、忽自不畏。主人知其詐、怒叱曰、若尚有畏乎。曰、更畏蠟茶兩碗爾。

『五雑組』「畏饅頭」 謝肇淛 著

貧乏学生が饅頭を食べたくなったが、考えても手に入れる方法がない。ある日、市場の店に(饅頭を)並べて売るものを見た。すぐさま大声で叫び地に倒れた。主人が驚き問うと、(学生が)いうには「私は饅頭を畏れている」と。主人は「そんなことあるか!」といい、饅頭百個を空き部屋に置き、これ(学生)を閉じ込めて外から伺っていると静まりかえって音もしない。壁に穴を穿って中
を伺うと、なんと(学生は饅頭を)半分ばかり食べていた。すぐさま門を開けて理由を問うと、言うには「今日はこれを見ても、恐くなかったんです」と。主人は騙されたと知り、怒って「お前には、まだ恐いものがあるのか!」というと、「さらに蠟茶が二杯恐いだけ。」といった。

『笑府』

明代末の文人・墨憨斎主人こと馮夢龍(1574-1645)が唐代からの笑話を集めて編んだ『笑府』にも、饅頭を恐がる貧乏人の話がみられる。

有貧士餒甚。見市有鬻饅頭者、僞大呼仆地。主人驚問其故。曰、吾性畏饅頭。主人因設數十枚于空室中、而閉士于内、兾相困以爲一笑。久之寂如、乃啓門、見其搏食過半。詰之、則曰、不知何故、忽不覺畏。主人怒叱曰、汝得無尚有他畏乎。曰、無他。此際只畏苦茶兩碗。

『笑府』巻十二 日用部「饅頭」
墨憨斎主人(馮夢龍)撰 

『五雑組』も『笑府』も、登場人物(窮書生と貧士)や、最後に怖がるもの(蠟茶と苦茶)の違いはあれ、『避暑録話』の「畏饅頭」の筋と大きな違いはない。
この話が日本で知られるようになったのは、この『五雑組』あるいは『笑府』の訳本が出回るようになってからである。

『畏饅頭』から『饅頭こわい』へ

『為愚痴物語』

日本で『五雑組』の訳本が板行されたのは寛文元(1661)年のことである。元の本の刊行が万暦四十七(1619)年なので、40年ほど経ってから日本でも売り広められたことになる。
この一年後に刊行された仮名草子『為愚痴物語』には、織田信長に御伽衆として仕えた野間藤六が「あずき餅」を怖がる、「畏饅頭」を翻案としたのではないかと思わせる話が採られている。

第十六野間藤六女を誑し餅くふ事
彼藤六、城の助殿台所にて、傍輩四五人より合て中居の女房たち、はしたものなと、ましはりて火にあたりゐたりけるか。めん/\におぢものをそかたり出しける。われはねすみの赤子ほとおそろしきものなし、と云人もあり。あるひは、くちなは、いもむしなとほとおそろしき物なしといふもあり。あるひは、むめほし、しらかゆをみれは、是にましてこわき物なしなとか。それ/\さんけして、はなしける所に、彼藤六は何のおち物もなしとてゐたりけるに、中居の女房達、藤六殿は何をるおぢ給ふやらんといへは、われもすくれてこはきものあれと、惣しておつるものをは、聊爾に人にかたらぬものなり。人是をしれは、かならすおどすものなりとて、つゐにかたらす。女房たちいや/\さやうにおとす人もあらし。是非かたりて給へと、たひ/\しゐて云けれは、かならすおとすましきならはかたらんと、よく/\口かためして小声に成て云けるは、われはいかにもあたゝか成、いきのたつあつきもちほとこはきものなし。是を見れは、たちまちに色変じ胸おとりて絶入するなり。それもひえたるはあまりにおそろしからすとそ、かたりける。女房達めくはせして、いかにもあたゝか成、いきのたつあつきもちを、町屋より、こぶじきろうにとりよせ、ふたをよくして、藤六殿茶の子まいれとて、もちて出られける。藤六是を見て、さためてかのおとし物成らんと云て、立さりにげんとす。女房たちあまたして引とゝめ、とらへてじきろうを藤六かかほにさしつけ、ふたをとりて、さあかのあづきもちよとて、藤六かかほにさしあてける。藤六是をみて、されはこそあらおそろしやといふまゝに、目をうち、ふさきもろ手をもつて、十四五のもちをみな、そくじにつかみくひにけり。女房達けうをさまし、あんにさういして、藤六殿は大のいつはり手也。すこしもおち給はす、あまつさへみなくひ給ふは、いかにとあきれはてし。手をたゝき、わらひあはれけれは、其時藤六いや/\さにてはあらす。かやうのおそろしき物を見れは、むねおとり絶入するなり。おそろしなからも、目をふさきすこしものこさす、みなくひたゆしてなくなし、見ぬこそよけれとわらひける。その処になみゐたる男女、みなけうに入て、わらひあてはれけり。そのゝち藤六、のぶたゝの御まへに出て、此よしありのまゝにのこらす申上けれは、ヿの外にけうにいらせ給ひて、いしくもしたるものかなとて、御かんのあまりに御こそてをくたされけると也。

『為愚痴物語』 曾我休自 作

『刪笑府』

一方、『笑府』の訳本は明和五(1768)年に刊行され、これを安永五(1776)年に風来山人こと平賀源内が刪訳(余分なものを削って訳したもの)した『刪笑府』を刊行している。そこに、『饅頭』の話も採られている。

饅頭
貧士有リウエ甚シ。マチニ饅頭ル者有ヲ見ル。僞テ大ニ呼テ地ニコチル。主人驚テ其ノ故ヲ問フ。曰。吾レウマレツキ饅頭ヲ畏ル。主人因テ數十枚シタヽカニ于空室アキヤノ中ニヲキテ、士ヲ于内ニ而ヲイコミテ、兾相困ドウゾコマラセテ以テ一笑ワラヒサタニント。久之寂如シズカナリタリ。乃ヒライテ見レバ其ノ搏食過半ハンブンノウエセシメル。之ヲトヘハ、則曰ク、不知何故ドウシタコトカ忽不覺畏ネカラコワクゴザリマセヌ。主人怒テ叱シテ曰ク。汝得無コハクナクハ尚ヲ有他畏乎ホカニコハイモノハアルカ。曰ク、無他イヽヤ此際イマテハ只ダ畏苦茶兩碗チャガニハイバカリコハウゴザル

『刪笑府』「饅頭」 風来山人 刪訳

天明・安永期は、江戸で「仕方咄」をはじめた鹿野武左衛門(1649-1699)が※風評により流罪になって以来、途絶えていた「江戸落語」を烏亭焉馬らが再興した時期であり、それに合わせるように中国で書かれた説話集や笑話集が和訳本として板行され、これを元にした「噺本」が流行った時期でもある。

※風評により流罪=鹿野武左衛門が活躍した元禄六(1693)年、某所の馬が人語を発し、「『ソロリソロリ』という悪疫が流行する。これを防ぐには南天の実と梅干を煎じて呑むべし」と警告した、という噂が広まり、南天の実と梅干が高騰した。流言した者は間もなく捕まり、取り調べで「武左衛門の噺に着想を得た」と白状した。
この噺とは、武左衛門の噺本『鹿の巻筆』(貞享三[1686]年刊)第三の「堺町馬のかほみせ」に、馬役の役者が褒められて「いいん、いいん」と声をあげてしまう件のようだ。これにより武左衛門は伊豆の大島へ流罪となった。六年の刑期を終え、江戸に帰ったが間もなく病を得て亡くなっている。

『一の富』と『気のくすり』

『畏饅頭』の話を元としたとみられる、いわゆる『饅頭こわい』系の話は、安永五(1776)年刊の『一の富』、安永八(1779)年刊の『気のくすり』に見ることができる。

饅頭
おれハ虫がきらふかして、饅頭をミると、こハくつて/\身の毛がよだつ。コレハおもしろいと、いたづらな友達、こハかる男を明キ店へいれ、むし立のまんぢうを、せいらうにつめて、鼻の先へつきつけ、外から錠をぴんとおろす。半時ほど過て、音も沙汰もなし。あまりしつかな。気を失なつたもしれぬと、戸の透間からのぞけバ、かの男、こそり/\とまんぢうをくひ、蒸籠大かたたいらけた様子。こいつ、ふとい奴。こハくハないかといへは、彼男、〽とてもの事に、茶か一ぱいこわい

『一の富』

饅頭
四五人集つて居る所へ、痩た色のわるい男が、片息に成てがた/\とふるへて来て。あとから饅頭売が参りますか、私はあのまんぢうがどうも怖しくてなりませぬ。どこぞへかくして下され。といへば、物置へかくして置て、いたづらに右のまんぢうを買て、盆へ杉形に積上け、物置の内へ入て、戸をひつしやり建て押へて居るに、久しく過ても、音も沙汰もなし。もしこはがつて死はせぬかと、明けて見れば、まんぢうはのこらず喰て、口なめずりをして居る。ゆへてまへは、あまり怖がつたから、おどしに入たがそう喰て仕廻たのは、どこがこわいのた。といへば、アイ此上は茶が二三ばい怖ふござる。

『気のくすり』

この噺本で語られる「饅頭を怖がる男の話」は、中国の『畏饅頭』と違い、数人が寄り合っているところで、「饅頭がこわい」という男に、饅頭を見せて怖がるのを笑ってやろうと「いたずら」を仕掛ける、つまり落語の『饅頭こわい』そのものの筋に変わっている。

『詞葉の花』と烏亭焉馬の落語

落語としての『饅頭こわい』がいつごろから話されているかは不明だが、寛政九(1797)年に烏亭焉馬が編纂した『詞葉の花(落噺六義)』にある「饅頭」が、肉付けされて現在の『饅頭こわい』になったと考えられる。『詞葉の花』の序に、「…唯滑稽にあそばんと、ことしも卯月の始より、かんな月のすえにいたるまで、不佞がつたなき舌講、机下にたはれたるはなしをかいつけて…」とあり、この本は寛政八年四月より十月のあいだに、焉馬が高座に掛けた噺をよりすぐって、編んだものであることを記している。また、そのすべてが焉馬の作ではなく、「饅頭」の噺は「※東南西北平」なる人物の作であるとしている。
つまり、『饅頭こわい』が落とし噺として、江戸落語の再興の時期に次々と作られた噺の一つであることがわかる。

※東南西北平=読みは不明。「とうなんさいほっぺい』か?どのような人物かもよく分からない。

『饅頭こわい』は、他の落とし噺同様に、中国で生まれた「笑話」を種として、寛政期に誕生した噺の一つと考えられる。これが、小噺程度の噺から十五分ほどの話になるのは幕末にかけてであり、「落語」という芸能が形式を作り上げていく過程の中で、現行の『饅頭こわい』へと変化していったわけだ。

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