09、説明される快楽:ブルーピリオド
発売に気づいていなかった最新の『ブルーピリオド 17』を購入した。もう17かと思うとびっくりするが、今まで続けてくれてありがたい。素晴らしい物語であり、僕が単行本の新発売を追いかけ続けている数少ない作品でもある。
私が単行本の発売をリアルタイムで追いかけている四大マンガ pic.twitter.com/bQc62ADOPI
— 村上裕一 | yuichi murakami (@murakami_kun) June 17, 2025
脈絡のない四作ともいえるが、うち二冊はその反社会性が非常に面白く、うち一冊はその批評性のあまりの高さに震えるものがあり、目が離せないでいる。そして、なぜか結果的に『ブルーピリオド』はその二つの要素を繋ぐような感じになってしまっている。
『ブルーピリオド』は美大受験生である矢口八虎が美術に目覚める様子を描いた第一部、見事東京藝大に合格してからの奮闘を描く第二部に概ね分かれており、現在は第二部の佳境である。第一部が「構築」を描くものだとすれば第二部は「脱構築」であり、かなり波乱万丈なことになっているが、近作ではなぜか八虎はホストクラブでバイトしており、ホストを題材にしたアートでブレイクスルーすることになっている。
いずれにせよ共通的なのは、部外者からは、もしくは関係者からもわかりにくいアートなるものを、プレイヤーの立場から実践的に言葉で説明しきっているところだ。これは前半が美大受験を描いていることで、受験合格戦略の軸を取ったことによって成立している語りのラインだと思ったが、それによって美大に関係ない人にも面白く読める内容になっている。そして、その態度をそのまま、正解のないアートの世界に解答を生み出す営みとして維持している点がとてもよく、引き続き面白くなっている。僕はこういった頭が働いているものがとても好きだ。感性を、感性的に扱うのではなく、言語によって説明しようとする仕草がとても好きだ。言語化がバズワードになって嫌われつつある世相だが、言語化そのもの自体を一種の悪として見る反応が出てくるにおいてはまさに反動であり、全く首肯できない。僕からすれば、この世界は全く言語化が足りていない。
言語化とはそもそもどういうことなのかを論ずるとなるとまた長い沼に入るので今回は止めるが、ともかくそういうものであり、だから僕は、イラストレーターであればニリツさんを、格闘家であれば朝倉未来を尊敬するような感じである。たまたまの例示だが、いずれも方略的思考のもとに行動しており、だからこそ説明の精度が高い。なんとなく書いている奴らは好きじゃない。
著者の山口つばささんが色々あってホストクラブを題材にしたことには本当に色々な事情がある気がしているのだが、結果としてこれは正しいことだと確信している。純粋な欲望を取引する夜の世界から、現代アートを照射しようとしている。アートは資本主義との関係で純粋に理念的・美術史的ではありえないが、同時に制作する主体との関係で自己本位でもなければならないような実践だから、感情を描く「ブルーピリオド」は僕には実にしっくりくる。批評を媒介になんとなく現代アートシーンにも触れていたから、描かれている内容にもたまたま親近感を覚える。「考えるとは何か」が気になるのであれば、美術への関心に関係なくあらゆる人におすすめできる作品だ。それはこのような言語化が作品という実践に至る経路を説明するものだからであり、そのような動的な説明には快楽がある。分断された事項説明ではなく、それはまさに物語なのであり、あたかも自分がそれをしているかのように伴走することができる。もちろんそれをして「自分がそれをした」と思うことは錯誤であり、この快楽は錯誤の産物ではあるのだが、楽譜を見ることと演奏することが普通の人にとっては全く違うことであるように、一種の身体操作のシミュレーションのようなものが物語的な説明にはあるのであって、もちろん読者はそこで作品制作をしているわけではないのだが、その思考過程を共有することで実践の一部を感じることが可能になっているのである。
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長年不満に思っていた文庫棚・ないし文庫管理の画期的な方法を思いついたので、その実行を始めている。まだ最初なので成果は少しだが、明日、資材を追加したり台座などを補充したらもっと整理が進むだろう。楽しみだ。た私の中の悪魔が、本を整理するより本を読む方が大事ではないか、というのだが、本を読む前の準備もまた読書なのだ。
