『うっせぇわ』を聴かずに過ごすチャレンジをした思い出

皆さんも名曲『うっせぇわ』のことはご存知であろう。Adoのメジャーデビューシングルであり、名をインターネットを超えて世間に轟かせた『うっせぇわ』。この文章はその『うっせぇわ』をとある成り行きから聴かずに過ごすチャレンジをしていた私の過去の記憶だ。


2020年9月、私はあまりに過酷な環境に耐えかね仕事を休職(3ヶ月後退職)、実家に戻っていた。衰弱した心身の休養する中、あのビックバン級の曲が発表されたのだ。

その時のTwitterやニコ動といったら、「『うっせぇわ』歌ってみた」「『うっせぇわ』替え歌」「『うっせぇわ』踊ってみた」「『うっせぇわ』ちゃんの雑コラ」

『うっせぇわ』祭りである。


何よりパンチのある曲名、激しい表情で叫ぶうっせぇわちゃんのサムネ。

正直、体調バチ崩してる時にコイツはキツい。当時ありとあらゆる娯楽を体が受けつけず庭の草木の世話が唯一の安らぎになっていた私にとって、『うっせぇわ』は刺激が強すぎた。私は自分の精神を守るため、今は聴かないことにした。


しばらくすると、Twitterやニコ動の枠を超え、インターネットメディアが『うっせぇわ』に関する記事やニュースを出し始めた。

どうやら「今の流行りはこれ」「今の若者と昔の若者の違い」「現代の反逆の歌」「チェッカーズの歌詞との対比」のような取り扱われ方をしたらしい。そしてその記事を見たツイッタラーが「いやあれは反逆ですらなく諦念のうんちゃら」などといっていってバズっていた。

この時の私の気持ちは

「ジジババがこんなもん聴くな!!!!!」である。



ティーンの間でバズるようにターゲットを絞って作られたであろう(聴いてないから知らんけど)曲を、全然世代じゃない人があーだのこーだの知ったような感じで語ってるのが小っ恥ずかしくてたまらなかった。


私は「何かを勘違いしてすれ違う」というもの(例:アンジャッシュのコント、恋愛漫画によくあるやつ、人格入れ替わりで不審がられるやつ、等)に強烈な羞恥を感じる質で、それを見ると目と耳を塞いでその場から逃げたくなるし実際逃げるのだ。

『うっせぇわ』の世代間ギャップとして取り沙汰されている現状は、その「何かを勘違いしてすれ違う」の条件に当てはまってしまった。文章を見るだけで内心発狂してるのに、本当に聴いてしまったら狂ってしまう。私は今まで以上に聴かないことを意識して生活するようになった。


私がいくら『うっせぇわ』を遠ざけようとも、世間は私に『うっせぇわ』を聴かせようとしてくる。

テレビが『うっせぇわ』を特集し始めた。

スッキリとかニュースキャスターとかで、「今の若者は刺激的なものを聴いてますね」「でも昔だってねぇ」「チェッカーズがうんぬん」と、そこそこの尺をとって曲と共にコメンテーターが色々言い出したのだ。

(『うっせぇわ』サムネ)アシスタント「続いてのコーナーは最近若者に流行りの」
この2秒で耳を塞ぎ意識を聴覚以外に向ける。

ここで難しいのが、当時私が実家住まいだったことだ。一緒に見ている親からすればなんでもないコーナーであり、私がチャンネルを変えるのは不自然な行動だ。

実際チャンネルを変えた時は「なんか他に見たいのあった?」と悪気なく質問された。「いやあんま面白くなかったから」と返したが、そう何度もこの言い訳は使えないだろう。

だからといって「『うっせぇわ』って曲があって…」等と説明すれば、それこそ私は恥ずかしさで死んでしまう。

私は『うっせぇわ』がテレビで紹介される度に、親の視線が私に向いていないのを確認しながら耳を塞ぎ、テレビから離れ自室に戻り、特集が終わればリビングに戻るという生活をするようになった。



テレビのインタビューで米津玄師はこう語った。

”米津玄師「ふらっと入った飲食店で音楽が流れていて、ずっと『Lemon』が流れていたりするわけじゃないですか。それによって別に好きでも嫌いでもないような人間は、それをずっと聴かされたらやっぱり嫌いにもなりますよね」

米津玄師「だから色々な人に広く届いていくような音楽って言うのは、その存在だけでやっぱり誰かを傷つけている。普遍的になればなるほどそこからあぶれる人間も生み出していく」”
引用: http://jin115.com/archives/52300832.html
(URLはテレビの書き起こし)


私も働いていた時は、買い物中無限に『Lemon』が流れているのを聴いて「どこも米津玄師で草」と思うだけだった。

しかし数ヶ月後退職して米津玄師が語ったことが(インタビューと違い私はまだ聴いていないが)分かるようになった。音楽というのはどこまでも、そして誰にでも届くが、だからこそ避けようとするのは難しいのだ。


そんな折、当時の相互フォロワーが私と同じように「『うっせぇわ』をどれだけ聴かずにいられるか」試していることを知った。

相互はどういった意図で『うっせぇわ』を聴かずにいるのかは分からない。だが私の心には相互との不思議な連帯感が生まれた。そして心に負担がかかるからという後ろ向きな理由ではなく、こうなったらとことん抗ってやるぞという前向きな気持ちで『うっせぇわ』を聴かないようになった。

そう、これは

『うっせぇわ』を聴かないで過ごすという偉大な挑戦だったのだ。


私はhide-and-seekならぬseek-and-hideをして日々を過ごした。





そんな日々も終わるのは呆気なかった。


https://twitter.com/rakkonabee/status/1356087193714847746?s=46&t=oeb2rN8HiTEO0MuBIIYPdA



あんな激しい曲(想像)がホームセンターで流れるとは。ホームセンターは広く、また母と買い物に来ていた為脱出は不可能。私は初めて『うっせぇわ』を聴いたのだった。

照れくさかった。恥ずかしかった。逃げ出したかった。

しかし買い物客達は気にも止めず買い物を続けている。もちろん母も。

音楽は鳴っていても、鳴る前と変わらず世界は回っていた。その事に少し安心したのだった。


『うっせぇわ』リリースは10月23日、ホームセンターで初めて聴いたのは年明けて2月1日。3ヶ月と1週間もの間、世間がひたすら流し続けている中聴かずに過ごせたのは割とスゴいことではないだろうか。私は私を称えたいと思う。


この記事を書くにあたって、改めて『うっせぇわ』を聴いてみた。自分から聞くのはこれが初めてだ。

照れくさくもならなかったし、恥ずかしくもならなかったし、逃げ出したくもならなかった。

普通にいい曲だと思った。

それくらいの感情しか抱かず、そしてそう思ったのが嬉しかった。


1年前割とホワイトなとこに再就職し、心が穏やかになり過ぎて定期的にわざとクソなインターネットを見て心の牙を研ぐ程になった私は『うっせぇわ』を正面から受け止めても倒れないようになっていた。

人によっては感受性が鈍ったと思うかもしれない。しかし制御出来ない感情の嵐に常に晒され思考すら難しくなるより、物事と感情の距離感を持って過ごす方が精神に優しく、そしてなにより何か文章を書きたいという気持ちも生まれるのだ。

『うっせぇわ』を避け続けていた当時は辛かったが、今はちょっとした面白エピソードとして私の思い出となっている。

ありがとう『うっせぇわ』





余談
『踊』はリリース直後すぐに聴いた。めちゃくちゃ好み。大好き。




この文章は雑談 アドベントカレンダー企画参加作品です。

https://note.com/calm_avocet202/n/n51c4049a1e9e

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