読まない市民に図書館は必要か?〜伊東市立図書館について〜
普段クラシックの音楽レビューを書いております、すーだと申します。伊東市に居住している関係上、この話題に触れないわけには……と思い、投稿しました。
現在、静岡県伊東市では新図書館の建設について様々な議論が進んでおります。結論から申し上げますと私は「新図書館はあった方がいいな」派の人間でございます。でも、無計画に「立派な設備を建てろ!」と主張したいわけでもないのです……。
今回はこの問題に対して思ったことを以下に述べていきます。拙い記事ですが、どうか一人でも多く関心を持つ方が増えますように。
1. 何が起こっているのか
1.1 新図書館の概要
その額は何と42億円。伊東市の予算が318億5千万円(史上最大)なことから、市政を圧迫してでも建築するべき施設なのかという反対の声も出ている。この土地の取得にあたって佃市長時代の黒い闇もある上に、ホテルの跡地ということで温泉を止めて(これが大丈夫なのかちょっと怖い)その上に図書館を建築するという計画など複合的な問題が絡み合っている。詳しくは色んな人が色んな解説をしているので、ここでは省略させていただく。
伊東市は例によって少子高齢化の一途を辿っており、人口も右肩下がりだ。長らく7万人台だった人口が6万人台になった衝撃は今でも忘れられない。福祉や少子化対策にその金を当てろという声も確かに理解できる。それに、いつか来るであろう地震や津波の対策(風の噂だが市としては全く備えがないそうだ)にも金を回せというもっともな指摘もある。
これらを黙認しているわけではない。それとこれとは別だ。問題はこんな問題があったから新図書館をやめようという話題が出ている点である。
1.2 現状の図書館の何が不満か
もしも、一市民として現在の図書館体制に不満を申し上げていいとするのなら以下の三点を挙げさせていただこう。この節に関してはかなり主観が混ざるのでご容赦いただきたい。また、2010年代によく使っていた者の意見なので、今は違うという点もあるかもしれない。
開館時間が短すぎる
少ない蔵書、偏ったジャンル
居心地の悪いスペースづくり
以上について意見を述べさせていただく。悪口大会が嫌いな方は次の章へどうぞ。
1,開館時間について
長期休暇の時期に閉館してしまうのはちょっともったいない。お正月周辺やGWが休館なのだ。学校が休みの時に図書館も休まれると家で勉強できない児童はどこで勉強すればいいのか。大人にとってもせっかく本を読みたい休みの日にやってないのはどうしてもがっかりしてしまう。公共施設なんだから、使ってもらえる日に開けてほしいところだ。
まあ、市民における観光業従事者の割合が高くて、そもそも本どころでないのは理解できる。しかし、全員が全員そういうわけでもなかろう。長期休暇時の子どもの遊び場として図書館が開かれていてもいいとは思う。
2,蔵書について
一部ジャンルの本に関しては、その辺の高校の図書館のほうが充実していると言ってもいいくらい少ない。館内には歴史や小説など人文系の書物は多く充実していたが、専門書や自然科学関係の蔵書は少ない。そういったジャンルの偏りは感じられた。Googleやヤフーのレビューでも蔵書数の少なさについての指摘は多く見受けられた。
※日本図書館協会の出している指針では人口3〜10万人の蔵書目安は21万冊。市内図書館の蔵書は18万冊(分所等を含めれば約20万冊)だ。伊東市内の在庫は少なすぎるわけではない。が、多いわけでもない。
3,居心地について
薄暗い図書館内は本棚で区切られているが、ちょっとした物音でも結構響き周囲に人の気配が感じられる。ある時はおじさんの咳払いが館内に響き渡ってやかましくてたまらなかった。つまり、スタッフの足音や業務連絡なんかも丸聞こえ。これでは静かに本を読むなんてできない。親がよほどの本好きでなければ好んで行き着くところとは思えない。
本を読む分にはいいが、可哀想なのはここで勉強している子どもだ。市内で勉強のために開かれているスペースというのは非常に少なく、レストランで勉強しようにもお金がかかる(そもそもそういうのに向いたカフェやレストランがない)。
それにしても、ここはなぜ勉強スペースと読書スペースで分けているのだろうか。きっと受験生で占領さえて市民の読書スペースがなくなることを危惧しているのだろうが、そもそも市民が足を運ばないことには杞憂も杞憂だ。勉強机も狭いスペースにすし詰めにされて1人分のスペースは余裕がなく狭い。塾かな?と突っ込みたくもなる。
館内の読書スペースが一箇所に集約されて本棚のあるスペースに椅子が少ないようにも感じられ、誘導的な作為が感じられた。もっと自由にクリエイティブに図書館を使いたいのに、ここで読みなさいと指定されているようでちょっと心地が悪い。資料によると閲覧席は108席。それがほぼ一箇所に集約されているのは使いづらいし、人の目も気になる。
図書館に至るまでの通路も薄暗く(特に1階から向かう場合は大人でも怖い)、館内も光の入らない陰鬱な雰囲気。あまり心地よいようには感じられない。図書館に抱くイメージの悪化は、結果として図書館嫌い、本離れに繋がる可能性もある。子どもの寄り付かない児童書コーナーというのも本末転倒だろう。
なお、この節に関して以下のリンクを参考にした。
・令和六年度 図書館概要(PDF資料)
・伊東市新図書館基本構想(PDF資料)
※リンク貼れませんでした、すみません。名前で調べれば見つかると思うので、検索してみてください。
2. 伊豆半島における文化アクセスの悪さ
2.1 伊豆半島における体験格差
率直になんでこの問題が揉めているのかを挙げよう。
本を読まない市民のために税金で図書館を建てるべきなのか?
そう、これが問題の本質なのだ。私はこの問に以下の観点で反論したい。
交通アクセスの悪い田舎だからこそ、子どもたちに(あるいは住人に)文化的な体験の機会を提供するべきなのだ、と。
私はかつて浜松市から引っ越してきて、伊東市の文化に対する熱意の低さ、文化的活動に触れる機会の少なさに愕然とした記憶がある。それは読書習慣についても同じだ。
静岡県における文化活動はきれいなグラデーションを描いている。簡単な言葉を使うのなら西高東低だ(※決して静岡市をけなしているわけではない、浜松や静岡の文化圏と伊豆半島の対比としてこの単語を使用している)。
音楽の街として名高い浜松。県庁所在地として多くの文化施設を抱える静岡市。それらと比較すると、伊豆半島における学力や学習機会、そもそもの勉強や文化に対する熱意や必要性の薄さというのが問題として挙げられる。伊豆の子どもたちが進学校に行くためには三島や沼津まで長距離通学しなければいけないという現状がある。一方で伊東市内では高校の統合が進むなど、子どもや教育を取り巻く環境はどんどんミニマムになっている。
伊豆は日常的な文化的活動が非常に難しい地域だ。舞踊や和太鼓などのパフォーマンス系の活動は最近盛り上がりを見せているが、教育的な観点での文化活動は驚くほど意識が低い。それは間違いなく体感として理解している。市内に美術館は多くあれど、その多くは文化学習とは程遠い観光客向けの(学習活動の伴わない)アミューズメントパークというのが実態だ。例えば、科学館に行きたいと思うのなら電車に乗って静岡市の「るくる」まで行かなくてはいけない。静岡市の子どもなら気軽に行けるというのに。
この伊東市立図書館に関して、知人の感想は「自分は使わない(からどうでもいい)」というものだった。でも、自分が使わないからって子どもたちの学習の場を奪うってこともないのではないか。
伊東の子どもたちと都市部の子どもたちの間には体験格差が如実に現れている。伊東市内でさえこれなのだから伊東以南に住む子どもにとってはちょっとの文化体験も大旅行だ。彼らにとってもアクセスが(まだ)いい伊東で文化的な体験機会を用意するというのは意義のあることだと筆者は考える。
2.2 地理的に考えた伊東市の特色
ここで考慮してほしいのが、伊東市というのは、伊豆半島(特に東海岸地域)における重要な拠点の一つだということ。
半島の住人において(伊豆急線沿線や国道135沿線の住人)、一部の医療、スポーツ施設、買い物環境などは伊東市に出てこないとアクセスできないという地理的障壁がある。なんたって半島というのは半分島と書くのだから、中々出ていくのが難しい辺鄙な土地だ。だからこそ、伊豆半島における図書館連携の中心として伊東市立図書館が何か役割を果たせるのではないだろうか。例えば下田エリアとの連携を図り、伊豆半島の住人がどんな本にもアクセスできる環境を整える、とか。

伊豆半島エリアの最多蔵書数を誇るのは熱海市の19万5千冊。伊東はその次だ。なお、東部エリアも複合して考えると、三島市立図書館は37万2千冊。沼津市立図書館が51万冊と地域最大(公立図書館としては県で2番目の規模である)である。つまり、伊東以南に住む人は伊東に満足できる図書館がなければ三島や沼津までいかなくては読書環境にアクセスできないということだ(伊東駅から沼津駅の電車移動には最低で50分かかる)。
上記の図1は以下のサイトを参考に筆者作成(ibisPaint)
2.3 別荘地の文化人と市民における文化レベルの二極化
伊東市の別荘地には文化人が流入しているが、残念ながら現地住人との交流はない。彼らは彼らでコミュニティがあり、住人との接点はさほど多くない。そのため、伊東市における文化的活動は二極化しており、ほとんどは移住者による「外部からの」文化活動である。
太宰治の『斜陽』という小説をご存知だろうか。主人公である没落貴族のかず子は母親と伊豆長岡の家に逗留することになる。市民はそんな世間知らずの母子を冷ややかに捉えている(何かあれば助けはするが、積極的に関わろうとはしない)。皆生きるのに必死な中、着物を売って生活しましょうなんて言っている世間知らずなお嬢様とは反りが合わないだろう。
それと同じことが伊東市内でも起きている。大体、伊豆高原エリアに別荘を買って住まうなんて首都圏の金持ちにしかできない。実業家や芸術家、享受だと言った非常に高い文化を持った人間が集まっている。なのに、伊東市民のほとんどは文化的な事業にあまり興味がない。言っちゃあ悪いが噂と悪口が大好きな性格の良くない伊東市民にとって移住者はよそ者。意識の中にも入らない「どうでもいい」存在だろう。
文化レベルが高いか低いかの二極化が市民の中で起きている。文化に対する意識の低い者にとっては「要らない」存在だし、それなりの図書館を欲する者にとっては現状の図書館は「読みたい蔵書がない(本論1.2参照)」場所である。結果どの市民にとってもミスマッチが起きているような気がする。初心者でも入りやすい図書館、あるいは専門色を打ち出した尖ったタイプの図書館と言ったように個性を出さなければ、せっかく建てた新図書館も市民にとって魅力のないただの箱物となってしまう。
3. 図書館の持つ本質的な存在価値
もしも、図書館が本を読むだけの場所と捉えている人がいるのなら、それは古い観念に囚われていると伝えたい。現代の図書館は本を読む場所でありながら、市民の憩いの場であり、交流の場ともなる。生涯教育の主体の一つでもあり、そもそも勉強のはかどる空間を求めるものだっている。
筆者はこれまでの人生で静岡、山梨、長野、岐阜県を転々と動いてきた。その中で様々な図書館を見てきたが、中でも静岡は地方都市における図書館がしょぼい(本当にすみません……)ように感じられた。対して長野県はさすが教育県と称えられただけあり、図書館の規模も、そこを使う市民の数も桁違いだ。人口一万人を切るような町でも、その郡の中心地であれば立派な図書館が建っているという事例も見てきた。もちろん規模の大きく余裕のある街ほど文化的活動に時間や予算を割けるという前提はあるだろう。だが、蔵書数は少ない館でもそこそこ利用者はおり、温かみのある空間を作っていた。スポーツスタジアムのような瞬間的な動員はないだろうが、恒常的に市民が迎え入れられる場所というのはあってもよいのではないかと考える。それは生涯学習論でよく言う「居場所づくり」にも繋がってくる。
同じくらいの人口を持つ長野県塩尻市の事例を以下に挙げよう。ちなみに塩尻市と静岡県南伊豆町は姉妹都市だ。
塩尻市立図書館は「えんぱーく」と呼ばれる文化施設の中に併合されている。館内の至る所にフリーアクセスの椅子と机が並んでいるため、各所で色んな人が作業しているのを目にできる。それこそ勉強中の子どもたちだけでなく、パソコンで仕事する大人の姿や、本を読む老人も見かける。筆者が行った時には木曽漆器(塩尻市)の展示もされていた。
図書館内部は非常に開放的で机の量も多い。蔵書数も約40万冊と非常に多い。郷土の本がいたるところに置かれていて、使いやすいシステムが取られていた。開館時間も夜の八時まであるので、仕事終わりにふらっと立ち寄って読書習慣をつけるという事もできそうだ。本好きであればきっと気にいるだろうという作りをしている。席数は350席。結構人が入っていても余裕で読む机が置いてあった。
また、塩尻市立図書館は市の中心部に存在しており、隣には商業施設も建っている。駐車場に関してはいずれかの施設を使用することで数時間分無料になるシステムのようだ。つまり、市民がふらっと立ち寄ってお買い物して帰るという事も想定して作られている。伊東市図書館(新旧どちらも)の周囲には何かあるだろうか。図書館の利用者を巻き込んでビジネスできるチャンスなのに、結構ガラっとしている。
伊東市の図書館しか知らなかった私にとって、様々な図書館の事例はあまりにも魅力的で、それが本を読む目的でなくても立ち寄っていい場所だったというのはカルチャーショックだった。本を読むだけにとどまらない、様々な体験の提供。子供の居場所作り。そして市民の居場所。図書館には生涯教育の拠点として、市民に寄り添う成長の場になることが望まれている。
もちろん理想論だけを掲げていて、現実的な面に目を向けないのは良くない。多額の税金を使ってどこまでそれを許容するべきか。その議論は一人ではできない。専門家に任せよう。
4. 最後に
図書館という施設は確かに金のかかる施設だ。だが、決して軽んじていわけではない。街や市民の性質にあった図書館。伊東市の図書館には何が求められるのか。誰に来てほしいと望むのか。そのビジョンをはっきりさせれば、この図書館騒動にも一つのピリオドが打てるのではないか。そうなった時、また再燃するのは「どうせ使わない建物にそんな金をかけるな」論である。
ここで抑えておきたいのは、最低限の基準を満たす図書館の整備は未来の子どもへの投資だということ。これは決して浪費ではないと考える。文化体験を子どもたちに与え、学習の場、勉強スペースとなる第二の家のような場所を提供するのは悪いことではないだろう。
ただ、見栄を張って必要性のない無駄な装飾や要素を付け足す必要はない。うがった建築なんて要らないし、外観の美や機能性を競う世界まで足を伸ばす必要はない。建設資材の高騰化で非常に高い事業であるが、どうでもいいこだわりは「どうせ使わない」ものとなるのがオチだ。伊東市役所の外観があまりにもこだわりすぎている(市役所のラインを超えている)気もするので、ここは懸念材料。現在公表されているイメージ図がどのように固まっていくかは注視しなくてはならない。
最後に、現状の本のラインナップがあまりにも偏っている点に関して一言。もっと多角的に、様々なジャンルの本を集めて欲しい。願わくば専門書なんかを。この街は文化的な人間が流入して、その本の処分に困っているという声もあるのだから、市民からの寄付を募ってもいいだろう。そうすれば間接的に伊東市内における住人の文化交流が発生するはずだ。暮らしの中に少しの文化の風を取り込んで、市民が学びの空へと翼を広げられるように。そのとまり木が新しい図書館の果たす役割なのだと筆者は考える。
(あとがき)
好き勝手言ってしまい、大変申し訳ございません。現場の声も知らずべらべらと。これは私も意地の悪い一市民ということの証左ですね。もちろん反論はたくさんあると思いますし、この解いに正解がないことも承知しています。私も心の奥底では災害対策にお金をかけてくれと思うところもあるので、あくまでも一つのこういう意見として聞いていただけたら幸いです。
そして、もし面白い意見だなと思ったら「スキ」をいただけると励みになります。シェアしていただいても大丈夫です(いたずらや誹謗中傷、無断転載はおやめください)。それでは、最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
2025.5.25 追記
今日の伊東市長選挙で新図書館に反対の姿勢を取っている田久保さんが当選となったようです。これにより、新図書館の建築は難しくなったかもしれません。ただ、私の主張している問題点はどちらかと言うと「ハード」よりも「ソフト」面での課題の方が多いような気もします。状況がどうであれ、なお良い図書館運営の方向に持っていってもらえたらいいなと切に願います。
さて、新図書館反対が市の民意ということらしいです。やはり、タイトルの「読まない市民」というのは皮肉でもなく、現状なのかもしれませんね……
2025.9.08 訂正
図1の蔵書数判例をもう少し細かい区分で描き直しました。
2025.12.18 修正
序章の文章が今読み返すとしっくりこないので書き直しました。
(追記)
記事に書き忘れておりましたが、田久保前市長によって5月に図書館計画は中止となっております。杉本新市長時代の図書館論争はどうなっていくのかはわかりませんが、上記の課題がわずかでも解決するといいなと思います。
