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教えることは、ともに学ぶこと│ラコスケが教えてくれた、「教える」の哲学│#004


シリーズ記事4本目です。
▼シリーズ執筆のきっかけについては下記記事にて


▼前回の記事







▼今回の名言はこちら

教えることは ともに学ぶことでもある





「教える」ときいて皆さんが想像する主語は
誰だろう?


学校の先生、部活の先輩、両親、上司。
noteの記事執筆者なんかも当てはまるだろうか?(笑)



彼らが未熟な者たちに「教える」時、
一見彼らは足踏みをしているように思える。


上位の者が未熟な者から学ぶことなど
本来ないはずだからだ。


しかし現実は違う。




▼人に教える際に知識が深まる

そもそも人は、事柄を正しく理解していないと
言語化や人に教えることなどできない。

人に教えることは、
自分の中で、事柄についての知識を整理したり
理解を深めたりと
自然と自分の勉強にもつながるものなのだ。



▼教える相手があっての学びがある

「なるほど!」とか、「わかりません」とか、
相手の反応が得られることで、
自分に足りない技術が見えてきたりする。
言語化能力、思いやり、語彙力だとか。

また、相手からの質問を受けてはじめて、
多角的にものごとを見ることができ、
自分の見方を見つめ直すきっかけにもなり得る。

自分が思ってもみなかった広がった世界を
見ることができるのである。



▼教えてもらう側に歩幅を合わせる

教えることは、ともに学ぶこと。

共に学ぶ。
つまり「教える」ということは
歩幅を合わせて歩くことだ



子どもに「こうだよ」と教えるときも、
「一緒にやってみようか」と
きっとあなたは子どもに目線を合わせて
手を差し伸べて学ばせている。

ラコスケの言葉にも、
そんな優しさが存在する気がする。


教えられる者に歩幅を合わせて、
同じ目線でものごとを考え、解決していく。
そうして、学び直したり、新たな発見をしていく。


完璧に教えられなくていい。
間違えても、知らないことがあってもいい。

一緒に考えようとする気持ちが
相手の心の壁を溶かしていく。




おわりに


教えることで、共に成長していく。

ラコスケの言葉は、
人と関わることの本質を
見抜いているように思える。




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