【小説】捨てる女 集める男 (下) ③
今秦 楽子
男は行く。山に薪を集めるごとく昨日を行く。
女も行く。川に想いを捨てるごとく明日を行く。そしてコンビは解散した。
♢26
部屋の中を眺める。女はすっきりとしたものだ、と感心した。部屋の四隅に柱の影がくっきりと、この部屋がもう次の住人を迎える準備はできてると言っているようだった。新婚時代から愛用してきた冷蔵庫、買って一年も経っていない洗濯機。家財一切をリサイクル業者に処分を頼み、彼らは物の見事に30分で運び去った。女は大阪への未練も一緒に処分していた。梱包した衣類を宅配便で集荷して全てのものがなくなり去った部屋を後にする。
「お世話になりました」
女は玄関に立ち、少なからず娘と離別した寂しさに付き合った部屋に一礼した。
タクシーに乗り、流れゆく馴染んだ街を横目に生まれ育った大阪を味わう。通い馴れたスーパー、チェーンの牛丼屋、ファミリーレスストラン、ガソリンスタンド。飛びゆくそれらを見つめてはもう帰ってこない、と詰まる胸をなだめる。運転手は、駅の止まる場所を確認する以外何も言わず、路地を選択しては信号のない道を上機嫌に車を走らせた。ただ止まるたびにカチカチとウィンカーの音だけが地味に響くだけだった。
「こちらで大丈夫ですか」
15分も走ると目的の天王寺駅にたどり着いた。交差点には、平日にかかわらずたくさんの歩行者が群れていた。信号は赤。女は佇む。曇天の重い雲が赤信号をじらすように女を引き止める。ここはかつての女の中での街だった。働きにも出たし、オフを楽しんだ思い出深い交差点。
「さよなら。私はここから逃げる。散々苦しんだ大阪。さよなら」
深呼吸して呟くと信号が青に変わった。
在来線を経由し新幹線ホームに登る。コロナが開けて間もなく。マスクを外して人は戻ってきていた。
♢27
「4泊ぐらい近くの民宿で滞在しない?」
男からの通話に気を抜かした。女は何を男に振る舞おうかとか考えていた中、気負っていた。男は一緒に創作する時間として、民宿に缶詰になるのも一興ではないかと付け足した。
行き先を変えて男の住むバス停より手前で下車した女は、一息ついた。海の手から受ける風は、潮の香りを含んだ初夏の風だった。言われた民宿に足を進める。そこはレストランと民宿が備わった建物だった。その昔は浜辺に建っていたとされる面影を残す。今は護岸整備がなされ、敷き詰められた消波ブロックと背の高さほどある堤防が海の景色を打ち消した。パチンコ屋や商業施設、ファミリーレストラン。浜辺を想像する要素はもう今にはない。
「おう、お疲れさん。長旅疲れたでしょう」
フロントの女性から聞いた106号室には、前よりさらに痩せこけた男が、持ち込んだノートパソコンの前に座っていた。笑顔で迎える姿と裏腹に、さらに目が黄染し、赤い顔をした男はすでに500mlの缶酎ハイを、傍らに置いていた。女は心配が的中したのと同時に、今日まで男の身に何も起きていない現実に安堵を漏らした。
「お疲れ。大阪引き払ってきたよ。もう何にもない。後戻りできないよ」
と茶化しながら男との再会に笑顔を手向けた。荷物からノートパソコンを取り出しながら、実は退院して以来何も創作できていないことを打ち明けた。
「そういう時もあるよ。だからさ、こういう場だと何かかけるかもしれないと思ったんだ。ところ変われば気分も変わるからさ」
「何から書いていいか……」
「身近な文章から書いたらいいんじゃない、大作とか小説とかに限らずさ」
「じゃ、前に言っていた闘病記でも書いてみるかな」
「いいんじゃない?」
冗談と本気の間で女は決意を固めた。
♢28
パソコンを開く。女はワープロソフトを起動させ、空白の文書に文字をしたため始めた。出会ったときの男と今の男。頭の中で二つを並べ、変わってきた様をつらつらと書き記す。書けば書くほど、男は変わり果てていた。それほど酒は男の肝臓をアタックしたし、身も心もボロボロにさせていた。目の前にいる男ほど愛しく儚い存在に思えた女は、パタンとパソコンを閉じた。
「ねぇ、散歩に行かない? 募る話もあるしさ」
誘われるまま男もリモコンでテレビを消し身なりを調えた。
横断歩道を渡り潮風に誘われながら、堤防の方へ歩き進める。パチンコ屋は、夕暮れになっても煌々と光と騒音を放っていた。その横道を抜け堤防に出た。登れそうな階段を上がり、堤防の先の大海原を見渡す。
「ここに座ろうか」
缶酎ハイを手にしながら男は、堤防から足を放り出し細波が押し寄せる波消しブロックの波を見つめていた。小さな波は、白い泡を作りながらブロックにぶつかってはひいてゆく。女は男の肩に額をくっつけながら、これからよろしくと小さく呟いた。男は細腕で女の肩を抱き寄せる。男の心臓の鼓動を女は肌で感じた。時が止まったように、いつまでも寄せて返す波はそれを繰り返し、暮れ行く夕焼けは赤々と空を写し二人の時間を包み込む。お互いの目と目を合わせ見つめ合う。クスッと笑いながら男はそっと女の潤った唇に口づけした。ただ、そこには潮の香りだけが漂っていた。
♢29
宿に戻ると二人を待っていたのは家庭的な料理に長崎らしい刺身が並ぶ食卓。
「ひらすって知ってる? 俺もここにきて知ったんだけど、全国的にはヒラマサっていう魚なんだけどね、歯応えがあって、脂が乗ってて。多分この白いやつ。食べてみな」
「へー、知らなかった。マグロとかイカはわかるよ」
「そら。わかるって」
「ん、美味しい、九州のお醤油も合うね」
「甘いけどコクがあって刺身には合うよ」
刺身をつつきながら女は男のウンチクに付き合った。
「それで仕事は、しばらくどうするの?」
「うーん、失業手当が出るんだけど、しばらくはそれをもらいつつ体の調子を見て次の仕事探そうかなって思ってる」
「うん、体が一番だからさ、貯金もあるし協力させて」
「ありがとう」
部屋に戻ってそれぞれまたPCに向き合いそれぞれが文章を打ち込み始めた。
♢30
五日間、民宿で過ごす。たまに潮の風を嗅ぎに出掛けては料理に舌鼓を打ち、残った時間は文章に打ち込む、時々酒を酌み交わしふたりの明日を語らった。男の酒量は日に日に増えていく。寝ている時間以外はほぼ缶酎ハイのプルトップは開きっぱなしだった。
「わたし、何しにきたんだろう……」
女は空いた缶を自動販売機の横にあるくずかごに捨てに行く度自責の念に駆られる 空き缶がガラガラと底に溜まった缶とぶつかる音を響かせるのを聞きながら虚無感に襲われる。目の前の男は明らかに酒に蝕まれているのに。それを容認するだけが女の役割なのかと自分を問い詰めた。
調子が優れないという男は、チェックアウトを遅らせてタクシーで帰ると言った。女は久しぶりの町だから、と歩いて帰ることにした。
「ちょっと言いづらいんだけど、水道とガスがきてないんだ。引き落としがうまく行ってなくて」
「え、どうういこと?」
「うん、土日挟んだから支払いができてなくて。電気はすぐに開通してくれたんだけど…… 俺のうっかりミス」
「そうなん、お金がないってわけじゃないんね」
「手持ちはあるよ。大丈夫。ここの支払いもしておくから。……それと、……部屋見てげんなりしないでね」
「どういうこと」
「やっぱ、俺も帰るわ」
「いや、体調良くなってからタクシーで帰ってきな」
「いや、だって」
「その体調だったら部屋片せないじゃん。わたしやっとくから、ゆっくりしてから帰っておいで」
女は薄々、空き缶が散乱している光景を想像する。それに加え水道とガス。到底住めない環境だったもので民宿を選択したのだと勘が働いた。
♢31
八郎川。この川は東長崎を横切り橘湾に注ぐ。大きな川幅を備えるそこに沿って女は歩む。どんな生活が待っているか、ワクワク半分心配半分。八郎川は干潮を迎えた橘湾に連動して水位を低くそこにある石や砂が顔を出した。
その表情を伺うのが女は好きで、堤防に立つ柵から身を乗り出して水の流れを眺めていた。しばらく時間が止まったかのように大きな雲は流れゆく。木に止まるセミがもう直ぐ夏が始まるよ、と単奏を始める。この自然豊かな地で女の生活が始まる。これから暮らす地を踏みしめながら男のアパートへ足を進めた。
男から預かった合鍵を挿す。
ガチャ。
扉の向こうに待っていたのは荒んだ男の生活の抜け殻だった。大きなゴミ袋にまとめられた缶酎ハイの空き缶は4、5袋それだけでは足らず空いた缶が散乱している。インスタントラーメンで食をつないでいた、残りの汁の残った容器もそこらに割られた箸と一緒に机やスツールに並べて置かれていた。一緒にいた時間を過ごした男との部屋と同じとは思えないあり様に一旦女は頭を抱える。この部屋で男は生きながらえるために過ごしていた。ただ女の到着を待ってこの部屋からエスケープするために生きながらえていた。その事を思うと女の心はズキズキと響くだけだった。
エアコンをつけ、流れない水道の蛇口をひねる。
「よしやるか」
女は愕然としていた腰をあげて燃えるゴミ、燃えないゴミ二つの袋を広げた。
♢32
「悪りぃ」男が時間差で帰ってきた。
「これだけ片付けたけど……」
見渡すとそこにはゴミ袋が2~3個残るのみで女は掃除機をかけた後だった。
「床が見える」
「そりゃそうだよ、どれだけ片したと思ってんの。今日からわたしここに住むんだから」
ちゃんと男のお宝のスニーカーは箱に入ったままテレビの下の隙間にギチギチに並べらていた。
「トイレができないんだけど」
「ごめん、すぐ水道局に連絡するよ」
「ご飯も作れないし最悪だよ」
「なんとかするから、待ってな」
男は手元の水道局からきた紙を手に電話をする。
「はい、はい、わかりました」
振り替えが完了するとすぐに再開する事や、振り込み用紙じゃないとできないから、それが届くまで水道は使えないと男は言った。
「しばらくトイレはスーパーとコンビニ行って使わせてもらうとして、サバイバル生活だね」
女は引きつった顔で茶化した。体調が優れないと男は横になりながらごめんね、ごめんねと謝り続けた。
ごみも何もなくなった部屋にはソファーベッドとデスク。テレビ台だけが床を剥き出しにしてただ存在だけしていた。営みと思える様なものはなくただ二人もそこに存在だけしていた。
ふたりは出前を取ってゴミを片付けて、用を足しにスーパーに赴く。この繰り返しをただただ続けた。ようやくポストに水道の振込用紙が届いた。
「私、払いに行ってくる。残金少ないんでしょ。これから私も使うから払っとくよ」
振り込みの確認が取れたと連絡があったすぐ、蛇口をひねる。
「水、出た、命の水出てきたよ。トイレの水も溜まってる音がするよ」
♢33
相変わらず、飲酒を続けくだらない話をしたりテレビを見たり動画を見たり、「大学生の夏休み」のような毎日が続いた。
女はパートに出ると言ったけれど、1ヶ月も経たないうちに職場でキレた。勢い良くやめて帰ってきた女に男は頑張ったよとねぎらいの言葉をかけた。それがタイミングだったのかも知れない。
スーパーに買い出しに行った女の元へ男から連絡が来る。
「多分、吐血だと思うんだけど、茶色いの吐いた」
「え、すぐ戻る。安静にして待ってて」
家へ戻った女は男の様子を伺う
「どれぐらい吐いたの?」
「そんなに吐いてないんだけど」
「それただの嘔吐じゃなくて?」
「なんか鉄の味が残ってるから血液やと思うんよね」
「救急車呼ぶよ、吐血ならさ。呼んだ方がいいと思う」
「いや待って。じき治るから今はそっとしておいて」
ソファーベッドに横たわる男を背に女は「吐血」「救急車」の文字を検索欄に打ち込んだ。その回答は女に与えるプレッシャーを低気圧を受けたように強くした。女のアイフォンには急いで救急にかかるべきだと強く伝えていたからだ。それを尻目に男はソファーベッドで呼吸をしている。きっと見間違いだ、吐物は血液なんかじゃ無い、女は根拠なくそう信じリズムよく上下する胸の動きを男を見守った。
2度3度と男はトイレに駆け込む。音からして多量の吐物を便器に吐いている。様子を見に行った女は愕然とした。チョコレートいろの液体、跳ね返った便器には血液と分かる褐色の撥ねたしずく。何を物語っているか明らかだった。
「絶対救急車乗ったほうがいいよ。救急車レベルだって」
「俺、昔吐いたことがあったけれど大丈夫だったから。横になってたら大丈夫だから」
「あんなけ吐いたんだったら水分取らなきゃ死んじゃうよ。ポカリみたいなんでよかったら、私買ってくるから」
家を飛び出しスーパーに行きながら看護師の知人にLINEした。
「そりゃ救急車すぐ乗せなきゃだめだよ」 知人は言う。
「でも乗らないって聞かないの。吐血の後飲水は大丈夫かな」
「飲めるんだったらね」
看護師の確認が取れた女は清涼イオン水を買い求めた。
「これだったら飲める?」
男は勢い良く清涼イオン水を飲み干した。
「やっぱり救急車呼んだほうがいいよ」
「今、気分が落ち着いてきたから。本当に大事だと言う時声かけるよ」
女は青ざめている顔の男の言いなりに飲水だけは絶やさないようにとスーパーで清涼イオン水とカロリーのあるゼリーを買い求めに走った。
♢34
男が血を吐いた。オレンジの街灯の帯を女はタクシーの車窓から眺めていた、「死」そんな単語がよぎる。男が鎮痛剤によって意識を戻さず、深い眠りについた病室から女が引き上げてきたからだ。
「明日もし起きなかったらどうしよう」
女ははっと町の明かり灯る、我が町についた運転手に、クレジットカードを渡した。
家に戻ると明かりの灯ったリビングに犬がしっぽを振ってかけ寄る。
「ごめんね、寂しかったね」 犬に話す。
トイレの周りに散ったチョコレート色の雫をウェットシートで女は掃除した。
「明日、もしも起きなかったどうしよう」 また不安が戻る。その日の月は明るく部屋の中まで照らし続けた。
「俺、不死身のだから」 そんな冗談を言う男に女は安堵の息を濡らしたのだった。
女は男の元に足繁く通った。たった1週間の入院生活だったが、毎日通った。
男は輸血が効いたのかみるみる顔の血色が良くなり、一気に快気した。
そしてまたアルコールに手を出す。
女はそれを咎めなかった。なんなら女も一緒になって飲酒する。酒の肴に採れたての焼き野菜や新鮮な魚の酒蒸しなどを用意するくらいだった。街に出ては鯨の刺身を買ってみたり、直売所でジビエを求めては焼いたり、カレーにしたり。男の肝臓を労る料理を振る舞った。
男は女のその料理をいたく気に入った。
しかし女は、親から受けた相続を、崩すだけのことしかできなかった。
男は、早く社会復帰できるように、リモートで面接を受けはじめた。一次二次三次と、次々就職試験をクリアする男を女は清々しい目で見ていた。
♢35
男が最終面接を予定した日、体の不調を訴えた。骨が痛むというものだった。仙骨あたりがうずき顔をしかめずにはいられないほど痛みに耐える。最終面接を見送り、女はそれを見守った。
なかなか痛みは引かず男はソファーベッドを動かない。トイレに行くのも困難となり女が何度も受診を促したけれど首を縦に振らない男はベッドと化していた。
「とりあえず、ソファーでおしっこできるように、尿パットとか買ってくるわ。寝たままの方がいいやろ」
「……そうしてくれる。悪りぃ」
絞り出す男の声は優しさと苦悶の入り混じった吐息のような声で。
女はドラッグストアで悩んでいる。どれぐらい寝たきりになるのか。大きなオムツの袋と小さな袋と見比べながらひとり呟く。
「とりあえず、これで試してまた無くなったら買いに走ればいい。それにしてもオムツ代も馬鹿にはならないな」 大きなリハビリパンツと小さな尿取りパッドをレジ籠へ放り込んだ。
家に帰り尿取りパッドを円錐型に組み立てる。陰茎にそれを装着しリハビリパンツを履かせた。
「試しにおしっこしてみてよ。漏れるかな」
勢いよく放尿した男の尿はみるみる円錐形を通り越して滲み出す。
「ゆっくりしな、吸水に時間がかかるよ。難しいけどさ」
「うん。ごめん、また練習するわ。トイレに立たなくて済むのはすごい助かるわ。ほんとありがとう」
女は男が尿を済ますと昼でも夜でも甲斐甲斐しくオムツを取り替える。それが1週間も経つと女にも介護疲れの病相が見え隠れし始めた。
「おむつ変えたり、重たいゴミを出したり私は何してるんだろう」
男に聞こえるか聞こえないかの声量で呟く。
「ほんとごめん、ちょっとよくなったし、パットで自分で取ってみるようにするわ」
こうしてお互いを労らいあって、男と女は時を重ねる。1ヶ月もした頃だろうか、男の兄から連絡があった。男のラインがつながらないが様子はどうだという伺いの連絡が。この間に男は意味を持たない発言をしたし、目の黄染はどんどん色濃くなっていた。
♢36
「文生、大丈夫か」
男の兄は言葉を失っていた。気丈に振る舞う男の姿は、兄と会った最後の日よりずっと体重を落としたし、何より覇気のない返事に病気の進行を物語っていたから。
「京子さん、いますぐ入院させてやってください。今日からでもよければ僕が運びますんで」
「今日はいいよ、休日だし受け入れてくれる病院も少ないし。明日いく、明日朝イチで行くから」
「どうしてもというなら明日、その代わり明日必ず入院するんだぞ」
レジ袋に水やトマトジュース、乾麺に缶詰なんか、溢れるほどの食料を詰め込んだ兄からの差し入れは、女には家で静養できる男の状態を希望した差し入れに見えた。
次の日、女はかかりつけ医に頼んだ紹介状を持って救急外来へ男を連れた。救急車を要請して。
今回は医師からの説明はなかった。ただ肝性脳症でありその治療が必要なことを看護師から伝え聞くのだった。意識のある男と病室へ流れる。
「必要なものはまた買ってくるし、私、毎日くる予定だから。大丈夫だからね」
「うん。ポンくんのことも頼むよ。いつもありがとうね」
そんな言葉を交わし女は病室を去る。
「とりあえず、終わった。介護生活が終わった……」
病院横の長崎港に停泊している豪華客船を眺めて女は希望だけしかない安堵感に包まれていた。
♢37
「それやったら、あの時死んだ方がマシやん」
とっさに男にこんな言葉を投げてしまった。
男が治療の甲斐あって調子を戻したおり、病院の片隅でふたりは口論になっていた。女は追い詰められていた。長い介護生活に終止符を打てたものの、毎日40分かけて男のもとに通い、家のことも、犬のこともこなす。病院に通っては、男は看護師に頼めないからと、おむつの交換を求めたし、便の処理も頼んできた。疲れていた。
そんななか男は退院すれば飲酒を再開するし、同じような状況に戻っても構わないと女に言い放ったからだ。
「死ぬ」
男はそんな言葉を女の口から聞きたくなかった。あれだけ言葉を大事に扱うように教えてきたのに、そんな言葉をまして自分に向けるだなんて。信じられなかった。
女は女で、救急搬送するまで男が納得するのなら、自宅で息を引き取っていいとまで考えていた。男のことを看取る、その覚悟をしていたからだ。それを助かった命に対して投げやりな男の態度はやるせなかった。口をついて出た言葉は、もう頑張らなくていいという優しさを孕んでいることを男には到底理解できなかった。
退院を待って男は兄の家に身を寄せた。大阪と長崎でしていたような電話を毎日続ける。
「私、個人事業主の届け出そうと思うんだけれど」
「いいやん。京子ちゃんは京子ちゃんの道を歩めばいいよ、うん」
女は事業を始めるといい、長崎の観光ガイドの事業主となった。
♢38
「こちら時津警察ですが、文生さんを保護しました」
そんな一方が女の携帯に入った。どうやらコンビニで飲酒し酩酊状態にあるというもの。女は事業に向けて動き始めていた最中、義理の姉に身柄の引き取りを願い出た。
「京子ちゃん、俺自分ちに帰りたい」
「いいよ、迎えに行くから。いつぐらいがいい?」
「18時には準備できる」
「うん、時津に向かうよ。ウォーターフロントにとりあえず向かうわ」
女は備品を買い求めていた足を家に戻した時の入電に時津方面へと踵を返した。
ウォーターフロントの駐車場で男を待つ。
大村湾に面したその公園はひらけた大空に壮大な夕焼けが雲を照らしていた。大きな雲は鳥の羽を描いたような翼を赤々と光らせ何かこの先を照らしているようにも見えた。
しばらくその情景にひたていると男から連絡が入った。コンビニの駐車場で待っているとのことだった。タクシーを拾ってその場に向かう。
そこにいたのは駐車場の縁石で頭をうなだれた男の姿だった。
義理の姉から飲酒を咎めて口論になったと伝え聞いた。
「とりあえず、ゆっくり話聞きますね」
と義姉に一礼し男を東長崎まで運んだ。タクシーでは飲酒したことにも触れず、男はただ甥や姪にいいおじさんを頑張った話を聞き逃さず女はうなずいた。
タクシーメーターは一万円を示していた。
いつもの様に手を取って男を支えながらエントランスの階段を登る。相変わらず男は一歩一歩が緩慢で女は一歩一歩左手に男の体重を感じた。
男は依存症の病院に10日後に入院する手筈を取っていた。それまで自宅でゆっくり穏やかに過ごしたい。そう女に告げた。
♢最終回
「そうしよ」
「うん、そうしよ」
男は女から受けた「死んだ方がマシ」という言葉をひきずっていた。そんな言葉を撤回もせず、誤りもしない女とは、パートナーとしてやっていけないと話した。
女も自分の事業を進めるにあたって、男の介護との両立はできかねると考えていた。
「男女のパートナーとしての関係はもう解消しよう。その代わり文章に携わる身としてビジネスとしてパートナーシップは存続したい」
女は男に告げた。
男が依存症の病院に入院する2日前のことだった。
男の携帯には女と過ごした日々の思い出の写真がたくさん集まっていた。
女の携帯には男と過ごした日々を要所要所、削除した写真が残っていた。
男は行く。山に薪を集めるごとく昨日を行く。
女も行く。川に思いを捨てるごとく明日を行く。
そしてコンビは解散した。
(了)
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