小林信彦『アメリカと戦いながら日本映画を観た』(3)「鞍馬天狗」

「開戦一周年の<特撮映画>(一九四二年)」の章は、アメリカの『大平原』を利用したプロパガンダ作品の安易さが語られる。これが話の枕となっている。

そして、伊藤大輔監督の『鞍馬天狗、横浜に現る』が扱われる。戦後『鞍馬天狗・黄金地獄』として公開されたときには、300メートル疾走しながら鞍馬天狗=嵐寛寿郎が敵を斬り倒すという場面が、GHQによってカットされたことでも知られる。現在この部分を観ることはかなわないようだ。リアルタイムの観客だった小林は「佳作と言うより、実に奇妙なアクション映画であった」と評している。

明治4年の横浜を舞台にして、ユダヤ人ヤコブが頭領となり偽札が製造され、そのからくりを暴くために、西郷隆盛の命を受けて潜入捜査をするのが鞍馬天狗の役目となる。横浜で政府の蒸気船が建造されているドッグの下に偽札作りの秘密工場がある。しかもこの蒸気船は軍艦に転用できるもので、これも一種の偽装した存在なのだ。このあたりの重ねかたは興味深い。

偽札作りの設定は、藤田組の創設者でもある藤田伝三郎が巻き込まれた「藤田組贋札事件」がヒントではないかという説もある。井上馨の盟友として「政商」藤田が狙われた感があり、逮捕されても当然ながら起訴はされなかった。その後見つかった真犯人は熊坂長庵で、こちらは北海道の樺戸監獄に流された。長庵と偽札事件は松本清張の小説でも扱われたのだが、「西郷札」で世に出た清張が興味をもったのも当然だろう。また長庵は『ゴールデンカムイ』の登場人物のモデルともなった。

『鞍馬天狗、横浜に現る』に関して興味をひく点はいくつかある。

(1)杉作少年の角兵衛獅子では対抗できない人気を獲得する敵対的なものとして、西欧人が活躍する曲馬団がでてくる。花火やパレードを使った人気集めや女曲芸師の姿態から空中ブランコまでが描かれる。しかも、鞍馬天狗は女曲芸師に気に入られて買い物の供をするのだ。

ヤコブ商会という悪の巣窟が描かれながら、単純に外国人=悪とか脅威論とはならない。他方で杉作が姉と呼ぶ女芸人お力の不自由な目をヘボン先生に治療してもらう話が絡んでくる。これは明治学院の院長になり、ヘボン式ローマ字で有名なJ・C・ヘボンのことであろう。アメリカで医学博士をとり、眼科医としても活躍した。横浜の医学の創始者ともされる。杉作たちを助ける援助者である。排外主義的なプロパガンダ映画としては片付けられない側面を持ち、「反ユダヤ主義」という主張を通じて、良い外国人と悪い外国人を弁別しようとしている。

(2)ヤコブ役の上山草人は、ハリウッドのサイレント映画で、謎の東洋人や悪役として活躍したが、トーキーの登場とともに日本に帰国していた。その上山がカタコトの日本語を話すヤコブを演じ、しかも付け鼻でユダヤ性を強調している。

飛び道具と刀が使用されるが、明治維新以降に軍艦を建造する話が、刀からの転換を象徴している。鞍馬天狗が時代遅れとなっていることはその点でもある。時代劇の枠組みがつねに破壊的となってしまうのは、すでに消えた時代を語ることで、それが終了することの要素を見せつけるからだろう。

小林は伊藤大輔によるこの映画の真意をあっさりと読み解く。

嵐寛寿郎に、二枚目の原健作をそえ、二人ががりでヤコブ一味をやっつける、というお話だが、<反ユダヤ>はたてまえであって、実は西部劇をやりたかったのだと思う。事実、原健作が江戸からつれてくる騎馬隊が鞍馬天狗のピンチに間に合うかどうかという場面は、車輪の撮り方一つ観ても、明らかに「駅馬車」の真似である。

p.62

伊藤大輔が1940年に公開された『駅馬車』と出会って、そこから「いただく」のが主眼だったとする。小林が指摘するように、敵対的なはずの相手への憧れを隠さない(隠せない)のだろう。偽装された西部劇としての時代劇。だが、西部劇そのものが、19世紀後半のフロンティアの消滅という失われた時代をハリウッドが虚構化し続けたジャンルだった。そして、当時の観客には『駅馬車』を覚えている者もたくさんいたと推測でき、その再現こそ共感を誘ったのかもしれない。では、ジョン・フォードの『駅馬車』から、伊藤大輔が憧れた場面を。

この場面へのオマージュを成立するためにこそ、幕末ではなく明治4年という設定が必要だったのかもしれない。『駅馬車』が白昼のもとで疾走する作品であるのに対して、夜のなか馬車が疾走する『鞍馬天狗』では、トンネルを抜ける箇所がとりわけ印象に残る。最大の変更点は、疾走する駅馬車を助けに騎兵隊がやってきて、インディアンを蹴散らすという趣向の『駅馬車』に対して、かけつける馬車の一隊こそ新政府の「騎兵隊」という違いかもしれない。

全体に灯りの扱いや光が白黒映画の特性を活かしている。贋金工場への階段を降りながらアラカンが斬りまくるところは、刀さばきが美しい。ドックを爆破するために、ヤコブが火薬の導火線に火をつけるという最後のクライマックスのために夜の闇は用意されている。昼日中では効果は弱いだろう。

ヘボン博士によって、お力の失明が治癒されるというまさに「啓蒙」が、彼女の自己犠牲的死と、ひと目倉田典膳の顔を見たかったという願いが不首尾に終わったことへと読み替えられる。今回の鞍馬天狗が黒頭巾姿をほとんどとらないのは、彼女にとってその姿が見えないからに他ならない。そして、彼女の犠牲が、悪い外国人を征伐する軍艦建造という日本の「夜明け」とつながっている。

もちろん全体はアクション映画として成立させるための「口実」にすぎない、と割り切ることもできる。けれども、便法としての「口実」は、無批判なものになりがちで、紋切り型がそこに入り込む。無事に航行する蒸気船の姿を見て、鞍馬天狗と杉作が交わす「お力が死んで神様になった」という結論づけだが、この言葉はその後多くの戦死者に与えられることになるのだ。








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