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仮面殺人鬼


あらすじ
人間は誰しも心の奥底に殺意という「殺人鬼」を飼っている。

35歳の篠原匠は、愛情という大義名分で人生を支配してきた母・冴子の狂気から逃れるように結婚を強行。だが、新居建築を知った母は包丁を持ち出し、殺意を剥き出しにして「離婚と中絶」を迫る。

愛する家族を守るため、匠は両親の前では孤独な独身、新居では良き夫。2人の人格を演じる生活を始める。怪物がまたいつ牙をむくかわからない。張り詰めた偽装生活の中、父、母、妹…誰もが仮面の裏にどす黒い殺意を燻ぶらせていく。

篠原匠は全員を欺くことが出来るのか?愛する家族を守れるのか?

表の顔の裏で「殺人鬼」たちが互いを威嚇し合う、ホラーミステリー。最後の結末に、きっとあなたは驚嘆する。


<登場人物>
篠原 匠(しのはら たくみ)
 35歳
篠原 冴子(しのはら さえこ) 篠原匠の母
篠原 義男(しのはら よしお)篠原匠の父
篠原 芽依(しのはら めい) 篠原匠の妹
霧島 陽菜(きりしま はるな) 篠原匠の妻


プロローグ

「あいつを殺したい」

そんな恐ろしい感情を、実は誰もが心の奥底に持っている。そのことに自分自身気づいていない人もいれば、気づかれないように隠している人もいる。

人間は誰しも、生々しい殺意を持っているものだ。

自分の日常をぐちゃぐちゃに破壊し、それでもなお、アイツはのうのうと生きている。それがどうしても耐えられない。

その対象は、赤の他人とは限らない。意外にも身近な人間に向くこともある。

自分から大切なものを奪おうとするものへの自己防衛とも言える殺意なのか。狂気に歯止めをかけられない自分自身への自暴自棄とも言える殺意なのか。

それともー。愛情という大義名分を振りかざして他人の人生を壊していく「怪物」への恐怖から来る殺意なのか。

この世で最も恐ろしいものは、幽霊でも悪魔でもない。表と裏の顔を持ち、何を考えているのかわからない「人間」だ。

自分には関係ない。そう思っている人もいるかもしれない。殺人を犯す。それはいつどこで起きてもおかしくないことだ。

ほら、後ろ。あなたに殺人鬼が迫っているー。

第一章 予兆

1-1 息子・篠原匠

「相性がよくないわ。別れなさい」

母・冴子の一言は、我が家において絶対的な『力』を持っていた。

僕が過去に交際し、結婚を意識した女性。彼女を紹介するたび、母は穏やかな笑顔の裏で冷徹に値踏みをし、そして決まって理解できない「鑑定結果」を持ち出してきた。

「彼女の持つライフサイクルと、あなたの役割がまったく噛み合っていないの。あの女は匠のエネルギーを吸い尽くして、あなたの人生を破滅させるわ」

運命、星回り、目に見えないサイクル。母はそうしたものを巧妙に使い、僕の人間関係をコントロールしようとした。「あなたのためを思って」という呪縛に抗いきれず、僕は幾度となく、心に決めたはずの女性との別れを選択させられた。

抗おうと思った。

しかし不思議な力が働いてか、自分から別れを切り出す前に彼女から別れを切り出される。結果、母の思い通りとなるのだ。

僕にとって母とは何なのか。母にとって僕とは何なのか。僕はもう35歳になる。いい大人だ。次こそは絶対に結婚する。いま付き合っている彼女とは、何があっても添い遂げたい。そう強く決意していた。

チャンスは思いがけない形で訪れた。僕の勤め先である食肉卸売会社が、新事業の一環として「自社加工の肉を扱うデリカフェ」を展開することになり、僕がその責任者兼店長に抜擢されたのだ。オープンすれば間違いなく多忙を極め、休みすらまともにとれなくなるだろう。

僕はそれを「口実」にした。今の彼女と、カフェがオープンする前に籍を入れる。彼女も店の立ち上げを手伝ってくれると言っている。だから、結婚するね、と。母が新たな鑑定を持ち出したり、干渉したりする隙を与えないよう、すべてを「決定事項」として事後報告に近い形で伝えることにした。

案の定、烈火の如く反対されたが、仕事の忙しさと物理的な時間のなさを盾に強行突破し、僕はあれよあれよという間に結婚を果たし、妻となった陽菜とオープンするカフェの近くの賃貸マンションで暮らし始めた。

母は仕方なく結婚を認めた形となった。

そしてカフェのオープン。生活は目が回るほど忙しかったが、初めて母の支配から逃れ、幸せだった。

僕の実家は、決して裕福ではなかった。『いい大学を出て、いい会社に入り、サラリーマンを全うすることこそが人生の正解である』少年時代から、母にそう叩き込まれて育った。自分の夢や希望のためではない。親を安心させるために必死に勉強し、親が望む高校へ行き、親が納得する大学へ入った。そこに自分の意志はなかった。そうすることで母が納得するからだった。母に畏怖の念を持っていた。

だが、しかし。
35年間、親にコントロールされ生きた僕は、すぐにその呪縛から解かれることはない。結婚し、家庭を持った今、二世帯住宅を建てて親孝行すべきなのだろうか。そんな思いを持つようになった。

しかし、母の偏った思考を考えれば、嫁姑問題が勃発するのは火を見るより明らかだ。出来ることなら、二世帯住宅は避けたい。だが、後々のトラブルを防ぐためにも、一応の「確認」はとっておく必要があった。

「二世帯住宅って、どうだろ?」

探るように聞いた僕に、母は顔をしかめて即答した。

「他人と住むのは嫌よ」

他人。つまり、僕の妻・陽菜のことだ。その言葉の冷たさに背筋が寒くなったが、同時に僕は安堵もしていた。これで、二世代住宅ではなく自分たちだけの家を建てられる。「確認」を取ったからだ。

僕たちは、陽菜の実家の近くに土地を見つけ、新居を建てた。母には、建築が進んでいることをずっと伏せていた。言えば必ず口出しをしてくるからだ。

そして、引っ越しを明日に控えた日。僕は実家に顔を出し両親に報告した。

「明日、建てた家に引っ越すから」

事後報告なら文句は言えまい。そう高をくくっていた。
しかし、そこから全ての悲劇が始まったのだ。

「匠、あなた何を言ってるの?」

母の声のトーンが、一段低くなった。リビングの空気が冷え込んでいくのがわかった。テレビのバラエティ番組の笑い声だけが、ひどく場違いに響いている。

「明日、引っ越すって言ったんだ。もう家は建ったから」

母は何も言わず、ゆっくりと立ち上がった。スリッパの擦れる音だけを引きずりながら、無言で台所へと向かう。流し台の前に立ち、こちらに背を向けたまま、ピタリと動きを止めた。

カチャリ。微かな、しかしやけに硬質な音が鼓膜を打った。木製の包丁立てから、何かが引き抜かれる音。僕の心臓の鼓動が少し早くなる。

「母さん?」

母が、ゆっくりと振り返った。その顔を見た瞬間、僕は全身の毛穴が粟立つのを感じた。いつも僕を縛り付けていた「良き母」の顔はそこにはなかった。

両目は限界まで見開かれ、白目が赤く血走り、黒目は焦点が合わずに小刻みに震えている。口元だけが、三日月のようにおぞましく吊り上がっていた。完全に、理性のタガが外れた人間の顔だった。

そして、母の右手には、銀色に冷たく光る文化包丁が握りしめられていた。

「私の許可もなく、勝手に家を建てるなんて!結婚するところから、何から何まで、匠!!お前は何様のつもりなんだぁぁぁっっっ!?」

喉の奥から絞り出すような、湿った呪詛の声。母が一歩、こちらへ踏み出した。鈍く光る刃先が、明確な殺意を持って僕に向けられる。

この世で一番恐ろしいのは、幽霊でも悪魔でもない。愛情という名の狂気で、今まさに実の息子を刺し殺そうとしている、人間なんだ。

1-2 母・篠原冴子

息子が玄関に立ったとき、私はすぐに気づいた。

いつもと違うー。

靴を脱ぎながら「お邪魔します」と言うのを聞くと、この子は私の元を巣立ったのだと思わされるとともに、いつもとは違うオーラを感じた。

私は霊感が強いのかわからないが、「何か」を感じ取る力が昔から強い。その「何か」を避けることこそが、「悪いこと」を避けるポイントだった。

私自身はもちろんそうしてきたし、匠にもそうアドバイスしてきた。この子が連れてくる彼女もそうだ。相性が悪い。匠がこの子と一緒になると「何か悪いこと」が起きる。そう感じたからこそ、別れを告げることもあった。

匠はリビングの椅子に腰をかけ、世間話をしてきた。

(…違う。言いたいことはそんなことじゃないでしょ)

「何か言いたいことがあるんでしょ?」

私は聞いた。声は穏やかに。しかし胸の内側では、何かが急速に燃え上がっていた。

「いや…」

匠は目を逸らした。私にはわかる。このあと何の話をするのかを。

「明日、建てた家に引っ越すから」

私の身体の奥底から憎悪が湧き出るのを感じた。

あの女だ。私から息子を奪ったあの女。結婚を止める間もなく、あっという間に籍を入れ、2人で住み始め、カフェまでやり始めた、あの女!!

私は台所へ立った。夕飯の支度をするためではない。ただ、この激情の行き場を探して、体が勝手に動いた。

私の心の奥底にある、蓋がガタッと外れる音がした。
その中からどす黒いモヤッとしたものが出てきて私の心を支配しようとしている。

流し台の前に立ち、窓の外の暗がりを見つめる。自分の顔が、ガラスにぼんやりと映っている。

その顔を見て、私は思った。

醜い。

私は醜い顔をしている。こんな顔で息子を愛しても、息子には重荷にしかならないのか。こんな顔で息子の幸せを願っても、あの女には到底敵わないのか。

ならば。

包丁立てに手が触れた。木の柄が、ひんやりと手のひらに馴染む。引き抜くと、刃が蛍光灯の光を跳ね返してぎらりと光った。

私が包丁を向けたいのは、あの女だ。匠からすべてを奪い、あの子を壊していくあの女。あの子の隣に当然のような顔で立ち、私が35年かけて育てたものを、笑顔で横取りしていくあの女。

(全てを壊したい)
(全てを壊してやる!)
(私がワルイコトヲシタノカ?)

包丁を持つ手がガタガタ震える。

「私の許可もなく勝手に家を建てるなんて!結婚するところから、何から何まで、匠!!お前は何様のつもりなんだぁぁぁっっっ!?」」

(匠を殺す!)

「この!親不孝者が!!」
私が私でなくなっていくようだった。

殺してやる!殺してやる!殺してやる!コロシテヤル!私は息子に刃を向ける。

「そんなに私を不幸にさせたいの?」

匠は困惑の顔を浮かべ立ちつくしている。

(何、その顔は。私はあなたを殺そうとしているのよ。もっと怖がりなさいよ。その顔はまるで…まるで私を見下しているようじゃないの)

どうすれば——どうすれば匠は、私のところへ帰ってくるのだ。匠を殺したいわけないじゃない。

(…そうだ)

刃先を、ゆっくりと自分へ向けた。

(匠を殺すんじゃない。私自身を殺そうとすればいいんだ)

私がここで死ねば、匠は悲しむ。あの子は優しいから、きっと泣く。きっと後悔する。あの女との生活を選んだことを、母をひとり残してきたことを、悔やむ。そして泣きながら、私のもとへ帰ってくる。

「そうね。私が死ねばいいのね。私が死ぬわ!!!」

包丁を自分の腹部に突き刺そうとする。刃の冷たさが腹部に触れる寸前で、私の手が止まった。

いや、止められた。

「やめないか!!」

それは匠の声ではなかった。義男—私の夫の声だ。

「もうやめないか。匠が決めたことだ。匠の人生なんだ」

私の包丁が取り上げられる。私は戦うすべを失い、床に崩れ落ちるしかなかった。

「なんで!なんで!なんで!なにが悪かったの!?」

振り返ると、匠が私のすぐそばに立っていた。細く強張った目、わずかに開いた唇。その顔は、あのころの幼い匠と少しも変わらない。私に支配されている匠の顔。夜中に悪夢を見て、泣きながら私の寝室へやってきたときの、匠だ。

「母さん、ごめん」

その言葉が、胸の奥深くへ刺さった。

私は確信した。この子は、私を必要としている。まだ、私のものだ。

あの女だけだ。陽菜さえいなければいいのだ。陽菜さえいなければ、私と匠は、ずっと一緒にいられる。

「あの女をコロシテヤル!」

1-3 父・篠原義男

俺が止めなければ、と思った。

冴子が包丁を自分の腹へ向けた瞬間、体が勝手に動いていた。

「やめないか!」

自分でも驚くほど、声が出た。

俺はー、

俺は収入が少なく、冴子にはずっと苦労させた。

高校を卒業して鉄鋼工場に勤めていたが、給料は世間の平均収入にまるで届かない。俺のせいで家族に裕福な生活をさせてやれなかった。県営住宅に住むのがやっとだった。冴子が我慢して住んでいてくれたことを知っていた。匠が友達を家に呼べないと嘆いたことを知っていた。

仕方がなかった。この稼ぎが俺の人生を表している。俺なんてそんなものだ。

だから俺は、あまり口を出さなかった。稼げない男に、何かを主張する資格があるとは思えなかった。冴子が家を取り仕切り、匠の進路を決め、交際相手に口を挟んでも、俺は黙って見ていた。黙ることが、俺なりの誠実さだと思っていた。

いや。

正直に言おう。

怖かったのだ。

冴子は賢い女だ。言葉が鋭く、感情の扱い方を知っている。俺が何か言えば、十倍にして返ってくる。それが嫌で、面倒で、俺は感情を出すことを止めた。

匠が生まれるとき、俺は病院に駆けつけることが出来なかった。仕事をしていたからだ。冴子にはさみしい思いをさせたかもしれない。薄情者とののしられたが、匠が生まれたとき、俺は工場の更衣室で一人で泣いていた。

嬉しかった。こんな俺でも子供が出来た。実感はなかったが嬉しかった。不思議な感情だった。この子が健やかに育って、好きなように生きてくれればそれでいい。それだけを思った。

しかし冴子は違った。

匠が物心つく前から、冴子はあの子の人生をコントロールし始めた。どの習い事をさせるか。どんな友達と付き合わせるか。どの高校、大学に行かせるか。

わかっていた。

「父親のようにならないように」そんな思いで冴子は匠を育てていたに違いない。

それがわかっていたからこそ、俺は何も言えなかった。

俺は見ていた。匠が好きでもないそろばん教室から帰ってきて、冴子の前では「楽しかった」と言う顔を。

言わなければならない雰囲気を、あの子は幼いうちから学んでいた。

それを作ったのは冴子だ。そして、黙って見ていた俺も同罪だ。

匠が女の子を連れてくるたびに、冴子は笑顔で「見定め」をした。表向きの笑顔だ。

運命だとか、星回りだとか、エネルギーだとか。俺には到底わからない言葉で、冴子は息子の彼女を裁いていった。

最初は、冴子なりの愛情なのだと思っていた。

しかし何度目かの別れを見届けたとき、俺はようやく気づいた。

あれは、愛情ではない。あれは、独占だ。

匠が自分から離れていくのが怖いのだ。だから彼女とは相性が悪いと吹き込み、自分だけが息子を「正しい道」へ導けると信じ込ませようとしている。匠が幼いときからそうしてきたのだ。そうしなければ、自分の存在意義が崩れると思っているのだ。

そのことに気づいたとき、俺は初めて冴子を憎いと思った。

愛情を装った支配。なんと醜いものか。だが、それを許し続けた自分自身が、もっと醜い。

匠が結婚を事後報告してきたとき、俺は内心で喜んだ。

やったな。

「お前はやっと、逃げ出せたな」

何の役にも立たない父親を許してくれ。

事後報告を聞いた冴子が、信じられない!と叫んでいたが、俺は口を閉じていた。止めなかった。匠を引き留めようとしなかった。それが俺にできる、唯一の贈り物だった。

家を建てた、という報告を聞いたときも同じだ。

よかった、と思った。それだけだ。息子が自分より幸せになるのは喜ばしいことだ。

だが、それは冴子には許せなかった。

だから今夜、冴子が包丁を握ったとき。

俺は止めなければならないと思った。初めて役に立つときだと。

冴子から取り上げた包丁を台所に置き、冴子が床で泣きじゃくるのを見ながら、俺は匠の顔を見た。

強張った顔をしていた。しかし逃げていなかった。

その時、冴子が叫び始めた。

「あの女をコロシテヤル!」

俺は冴子を一喝した!

「もういいだろ!匠が決めたことだ!匠の人生なんだ!!」

冴子は目を見開き俺の顔を見ていた。その顔は、夫への侮蔑心か、初めて抵抗した夫を見直した忠誠心か。

冴子が「なんで!」と叫びながら泣き崩れている。その声を聞きながら、俺は思った。

なんで…、か。

本当に、なんでなんだろうな。冴子が35年かけて積み上げてきたのは、息子への愛情だったのか、それとも息子という「所有物」への執着だったのか。冴子自身には、もうその区別がつかないのだろう。

それが一番の悲劇だ。

匠が「母さん、ごめん」と言うのが聞こえた。

謝るな、と言いたかった。謝らなくていい、と。
しかし俺は黙っていた。心の奥底に、疼くものを感じた。

第二章 再襲

2-1 息子・篠原匠

一夜が明けた。

昨夜のことは、夢だったのではないかと思いたかった。だが鏡の前に立つと、目の下に濃い隈が刻まれていた。夢ではない。あれは現実だ。

それでも、カフェはオープンしなければならない。

私情がどれほど荒れていようと、店のシャッターは定刻に上がる。手を動かしていれば、考えずに済む。

AM7:30
スマホが鳴った。

画面に表示された名前を見た瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。

母からだ。

「昨日はありがとう」

僕は返す言葉を探した。ありがとう、とは何に対してのことだ。包丁を持ち出して、息子に刃を向けて、そして自分の腹に刃を向けた—あの地獄の時間のことか。

「本当に、引っ越しはするの?」

「するよ」

「そう」

短い沈黙。それから、まるで世間話をするように、母は言った。

「匠、離婚しなさい」

昨夜のあれを経て、一晩を越えて、母の口から出てきた言葉がそれだった。

「母さん、それはできない」

「なんでできないの?籍を入れたときだって、紙切れ一枚だったでしょう。離婚するときも同じよ。紙切れ一枚でいいの。難しいことなんてない」

この人は、本気でそう思っているのだ。結婚も、離婚も、他人の人生も、全部、自分の都合に合わせて動かせる駒だと、そう信じている。

「早く離婚しなさい。いつになるか、連絡ちょうだいね」

一方的に電話が切れた。スタッフの声が聞こえた。もうすぐ開店だ。

気持ちを切り替えなければ。

その日の営業を副店長に任せ、僕は少し早めに退勤した。

引っ越しがあるからだ。

荷物の大半はすでに運び出してあった。賃貸アパートに残った最後の段ボールをいくつか車に積んで、エンジンをかける。

新居へ向かう道すがら、僕は子供の頃のことを思い出していた。一軒家に住む同級生が、羨ましかった。なぜ自分の家は県営住宅なのだろう、と親に問いかけたこともある。今ならわかる。父の稼ぎがそれほど多くなかったのだ。外食も、旅行も、ほとんどなかった。それでも、僕をここまで育ててくれた。その事実には、感謝している。

ただー

新居の前に車を停めた瞬間、スマホが震えた。

また、母だった。助手席にいる妻の陽菜を車から降ろし、電話に出た。

「匠、いつ離婚するの」

第一声がそれだった。挨拶すら、ない。

僕は何も言わず、しばらく黙っていた。

考えていた。どうすれば母は黙ってくれるか。離婚しなさいなんて言わなくなるかを。

実は、子供ができたのだ。なかなか授からず、不妊治療を続けてきた。長い時間をかけて、ようやく宿った命だ。このことを話せば、さすがに母も、初孫のことを聞けば、多少は気持ちが和らぐのではないか。そう信じたかった。信じるしかなかった。

「実はさ、子供ができたんだよね」

電話の向こうが、静かになった。

僕は息を吐いた。
(よかった…)

「堕ろしなさい」

一瞬、言葉の意味がわからなかった。脳が処理を拒否した。

「何か月なの?」

「え、あ…二ヶ月、くらい」

「じゃあまだ間に合うわ。早く堕ろして、離婚しなさい」

僕の中で、何かがぐらりと傾いた。打算も、計算も、全部、音を立てて崩れていく。この人には、孫という概念すら届かない。

「どんな気持ちで家を建てて、子供まで作ってたの。気持ち悪い」

僕は通話を切った。指が、かすかに震えていた。

(気持ち悪い…)

スマホがすぐに鳴りはじめた。母からだ。僕は画面を伏せ、助手席に放り投げた。

フロントガラス越しに、新居が見えた。陽菜と一緒に建てた、僕にとっての初めての一軒家。

僕はゆらりと車を降りた。ドアをしめ、車の窓に自分の顔が反射して映る。

そこに映っていたのは、生気を失った人間だった。

2-2 母・篠原冴子

匠に子供ができた。

その言葉が頭から離れない。

電話を切ってから、私はずっとそのことだけを考えていた。陽菜との子供。あの女の血が混じった子供。

絶対に、産ませてはいけない。

中絶できる期限がある。妊娠22週未満—妊娠21週と6日まで。法律で決まっていることだ。妊娠2ヶ月と匠は言った。まだ間に合う。しかし、悠長に構えている時間はない。

匠が自分から動くのを待っていてはいけない。この子は昔から、大事な局面で腰が重い。それは私が一番よく知っている。待っていれば、手遅れになる。取り返しのつかないことになる。

こちらから出向くしかない。

「あなた、車出して」

義男は何も言わずに立ち上がった。

日曜日の昼過ぎ。

カフェには、ランチのピークを少し過ぎた頃に着いた。混雑している時間帯を外したのは、わずかな配慮のつもりだった。

カフェの扉を開けると、珈琲の香りが漂ってきた。

店内を見渡す。匠がいた。カウンターの奥で、スタッフに何か指示を出している。私と目が合った瞬間、あの子の顔が強張った。

わかりやすい子だ。昔から、そうだった。

客席で待っていると、匠がすぐに近づいてきた。小声で「ここじゃなくて」と言い、外へ連れ出そうとする。他のスタッフに聞かれたくないのだろう。

連れてこられたのは近くのスーパーのフードコートだ。もっと誰もいない静かなところにすればいいのに。他人の目があるところなら、私が変な気を起こさないだろうと思っているのが透けて見える。

場所はどこでも構わない。言うことは決まっている。

「母さん、急に来なくても…」

「匠」

私は静かに、しかしはっきりと言った。

「早く子供を堕ろして、離婚しなさい」

匠は黙った。テーブルの一点を見つめ、何も言わない。

こういうときの匠は、昔から変わらない。嫌なことから目を逸らして、時間をやり過ごそうとする。それがこの子の悪い癖だ。

「聞こえてる?」

「…聞こえてる」

「じゃあ、いつ堕ろすの」

「それは…陽菜とも話し合わないと」

「話し合い?何を話し合うの。やることは決まってるでしょう」

匠がまた黙る。

この煮え切らない態度が、じりじりと私の中で何かに火をつけた。時間がないのだ。この子にはそれがわかっていない。

気づいたときには、私の手がテーブルを強く叩いていた。

「匠!!いつかはっきり決めなさい!!」

声がテーブルと叩く音が、フードコートに響いた。周囲の視線が、一斉にこちらへ集まる。家族連れ、老夫婦、学生たち。みんなが匠の顔を見た。

ほら、見なさい。

この子は昔から、名前を大きな声で呼ばれると萎縮して従順になるのだ。それを私は知っている。この子のことなら何でも知っている。35年、そばで見てきたのだから。

目の前の匠が、椅子の上で小さくなっていく。

「…わかったよ。だけど少し時間をくれないか」

「少しって、どれくらい」

「少しは少しだよ」

「そんな曖昧なこと言わないで。わかった。一週間あげる。一週間後に、いつ堕ろしていつ離婚するか、ちゃんと教えてちょうだい」

匠は何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ、テーブルの上に置かれたスマホに視線を落とした。画面が光っている。店のスタッフからのようだった。

「店に戻らなきゃ」

立ち上がった匠の背中は、ひどく頼りなかった。

私はその背中を見送りながら、静かに思った。

大丈夫。一週間で片がつく。

この子は昔からそうだった。ここぞという場面で私が毅然と構えてさえいれば、最後には従う。どれだけ抵抗しても、どれだけ遠くへ逃げても、匠は私の子供だ。私のものだ。

決して、陽菜のものではない。

2-3 妻・霧島陽菜

「ちょっといいか」

匠の声は、いつもと違った。

重く、沈んでいて、どこか謝罪を含んでいるような声。それだけで、わたしにはわかった。お義母さんのことだ。

嫌な予感は、結婚する前からずっとそこにある。

匠から話は聞いていた。お義母さんのこと、運命だとか星回りだとか、そういう言葉を使って彼女たちを次々と別れさせてきたこと。そしてそれに抗えなかった匠のこと。

この人を救い出さなければ、と思った。それが結婚の動機の全てではないけれど、確かにその一部だった。だから半ば強引な形で籍を入れた。

それでも、旦那の母親だ。粗末に扱うつもりはなかった。

家を建てるとき、わたしは匠にはっきり言った。

「二世帯住宅にしてもいいんだよ」

匠の一家はずっと県営住宅に住んでいた。一軒家への憧れは、匠だけじゃなく、ご両親だってあるはずだと思った。だから一度、きちんと意向を聞いてほしいと匠に頼んだ。

匠は実家に聞いて母に聞いてきたという。「母さんは一緒には住みたくないと言っていたよ。母がどういう人かは、俺が一番よくわかってる。二世帯じゃなくていい。俺たちの家を建てよう」だった。

だからわたしは、ご両親の了承のもとで家が建てられたのだと思っていた。

そう、思っていた。

「家を建てて引っ越すって言ったら、激怒された」

匠の口から出てきた言葉に、わたしは絶句した。

「なんで?事前に聞いたんじゃなかったの?もしかして…事後報告だったの?」

匠は黙った。そして口を開いた。
「いや、事前に聞いたは聞いたんだけど…」

呆れるより先に、申し訳なさが込み上げてきた。それと同時に、じわじわと怒りも湧いた。匠に対してではなく、この状況に対して。なぜわたしたちが自分たちの家を建てることで、誰かを激怒させなければならないのか。

でも、今はそれを言っている場合じゃない。

「匠、謝りに行こう。わたしもついていくから」


匠の実家。テーブルを囲んで4人が向き合った。

お義父さんは静かに座っていた。お義母さんは、穏やかな表情を作っていたが、目が笑っていなかった。

「わたしたち二人で住むことを、許してください」

わたしは頭を下げた。

なぜわたしが頭を下げているのか、という気持ちが、心のどこかでうごめいた。でも、匠のため。そして、お腹の、この子のため。だからわたしは頭を下げられる。

沈黙が続いた。

お義母さんが口を開いた瞬間、部屋の空気が変わった。

「このどろぼう猫めが」

低く、しかし明確に。その言葉はわたしに向けられていた。

「私の匠を奪って楽しいか。私たちを愚弄して、面白いか」

「そんなことは思っていません」

「やってることと、言ってることが違うんだよ!!」

お義母さんの顔が豹変した。まるで悪魔のような…怪物のような…

「早く離婚しなさい!匠にはずっと言ってるんだ。いつ離婚するの、って」

「え?」

わたしは思わず匠を見た。家を建てたことで怒られたとは聞いていた。でも、離婚を迫られているなんて、一言も聞いていなかった。

「離婚は、しません」

「はん。だからどろぼう猫なんだよ」

その言葉が、わたしの中の何かに火をつけた。

頭を下げに来た。誠意を見せようとした。それでもこの人は—。

次の瞬間、お義母さんの右手がテーブルを叩いた。

バン、という乾いた音が部屋に響いた。湯呑みが揺れ、中身がこぼれた。お義父さんが微かに身じろぎした。

「いい加減にしなさいよ!」

お義母さんの声が裏返った。それまでの低い声とは別の、金切り声に近いものだった。

「あなたのせいで、この家がめちゃくちゃになったんでしょ!わかってるの!?」

立ち上がったお義母さんが、わたしに詰め寄ってくる。テーブル越しではなく、横を回って、わたしのすぐ真横に立った。

顔と顔が、ほとんど触れそうな距離だった。

化粧の匂いがした。息が、かかった。

「出ていきなさい。あなたなんか、最初からいなければよかったんだ」

静かな声だった。さっきの怒鳴り声より、ずっと静かで、だからこそ、ずっと恐ろしかった。

圧倒されるようなこの状況でも、わたしは引かなかった。

ここで引いたら、この人はずっとこのやり方で来る。それだけはわかった。

「出ていくのは、お断りします」

声が震えなかったのは、自分でも意外だった。

お義母さんの目が、ぎりぎりと細くなった。

「この—」

「やめて!」

おもわぬところから声が聞こえてきて、その場にいた全員が振り向いた。

部屋の入口に、若い女性が立っていた。

匠の妹だった。

2-4 妹・篠原芽依

隣の部屋で黙って聞いているだけのはずだったのに、やめて、と叫んでいた。

体が勝手に動いていた。気づいたときには廊下に立っていて、気づいたら叫んでいて、リビングにいる全員がこちらを振り返っていた。

お母さんが陽菜さんに詰め寄っていた。

あたしは、この家が好きだった。

県営住宅の、狭くて古い部屋。決して裕福ではなかった。友達の家と比べれば、みすぼらしいと思ったこともある。でも、家族4人でテーブルを囲んだ夕飯の時間が好きだった。お父さんが無口なりに笑う顔が好きだった。

お兄ちゃんが好きだった。

幼い頃、お兄ちゃんはよくあたしを遊びに連れて行ってくれた。狭い団地の駐輪場でかくれんぼをして、近所の公園で夕暮れまで走り回った。勉強を教えてもらったこともある。不器用な教え方だったけれど、付き合ってくれた。

そのお兄ちゃんが結婚した。

あたしは心から祝福した。お兄ちゃんには幸せになってほしかった。それは今も変わらない。

でも、あの頃から、お母さんが変わっていった。笑う回数が減った。独り言が増えた。あたしに向かって、陽菜さんがいかに悪い人間かを延々と語るようになった。最初は聞いていた。でも、何度も何度も繰り返されるうちに、どう返せばいいかわからなくなっていった。

そして—家を建てたと聞いた日から、お母さんは完全に壊れてしまった。

「やめて」

もう一度、言った。

お母さんの肩が、ぴくりと動いた。振り返った顔は、怒りで、ひどく歪んでいた。

陽菜さんは、一歩も動いていなかった。

お母さんに顔を近づけられても、怒鳴り声を浴びせられても、その場に立ったまま動かなかった。

その立ち姿が、あたしの中の何かに引っかかった。

さっきの言葉が、まだ耳に残っている。

—出ていくのは、お断りします。

冷たい怒りが込められていた。わかる。詰め寄られて反発すれば誰だってそうなる。でも。

この人は、うちの家族のことを何もわかっていない。

「陽菜さんは、お母さんの気持ちがわかるんですか」

口を開いたら、言葉が止まらなかった。

「自分だったらどう思いますか。大切に育てた我が子が、赤の他人に連れていかれる気持ちが」

陽菜さんは何も言わなかった。

その沈黙が、あたしには答えに見えた。わかろうとしていない。最初からわかる気がない。

「私たち家族の絆を、壊さないでください」

声が震えていた。泣くつもりはなかった。でも、目の奥が熱くなっていくのを止められなかった。

「お父さんも、しゃべらない人だけど—同じ気持ちでいるはずです。ずっと黙って、耐えてるんです」

お父さんはテーブルの端に座ったまま、何も言わなかった。でも、その背中が、すべてを語っているような気がした。

「ねえ、お兄ちゃん」

お兄ちゃんを見た。

「結婚してから、おかしくなっちゃったよ。お兄ちゃんじゃないみたいだよ。戻ってきてよ」

お兄ちゃんは、何も言わなかった。ただ立っていた。陽菜さんとあたしの間で、どちらにも顔を向けられないまま、ただ立っていた。

陽菜さんの視線を感じた。

まっすぐな、静かな視線。怒りでも哀れみでもない。どこか、あたしを値踏みするような、冷めた目だった。

その目が、あたしの中の何かに触れた。蓋が…外れるような音がした。

こいつは。この人は、あたしを子供だと思っている。感情的になっているだけの、子供だと。

お母さんへの同情も、お兄ちゃんへの懇願も、全部ひっくるめて、正面から受け取る価値もないと思っている。

ふつふつと、腹の底から何かが湧いてくるのがわかった。

これが何なのか、あたしにはわかった。

この感情に名前をつけるとしたら—。

リビングに、重い沈黙が満ちていた。湯呑みからこぼれたお茶が、テーブルの端からぽたりと床に落ちた。お母さんは仁王立ちのまま立っていた。陽菜さんは動かなかった。お父さんは黙っていた。お兄ちゃんは、どこも見ていなかった。

そしてあたしは—

この部屋の全員が、今この瞬間、誰かに対して取り返しのつかない何かを向けていることに、薄々気がついていた。

この場所は、もう限界だった。

このまま行けば、誰かが殺し、誰かが殺される。

この場所は、殺人鬼が支配しようとしていた。

2-5 終結

「もうやめないか」

沈黙を破ったのは、父・義男だった。

目を開けてもいなかった。立ち上がってもいなかった。ただ、テーブルの端に座ったまま、静かにそう言っただけだった。

それだけなのに、部屋の空気が変わった。

冴子の怒りの暴走が、完全に止まった。芽依の唇が、閉じた。陽菜の肩から、何かがすうっと抜けていった。

凄みとも違う。怒鳴り声でも、命令でも、ない。

ただ、長い年月をかけて積み上げられた凄みが、あの一言の中に入っていた。普段は何も言わない男が、ここぞというときにだけ発する言葉の重さが。

誰も、抵抗しなかった。

それ以上、誰も何も言わなかった。

陽菜と匠は、静かに頭を下げた。冴子は宙を見たまま、誰も見なかった。芽依は壁に背をつけたまま、床を見ていた。義男は、また目を閉じた。

玄関を出た。扉が閉まった。

夜の空気が、頬に触れた。

陽菜と二人、駐車場まで歩いた。互いに何も言わなかった。言葉が見つからなかったのか、言葉が必要なかったのか、自分でもわからなかった。

車に乗り込んで、エンジンをかけて、しばらくそのまま動かなかった。

フロントガラスの向こうに、実家である県営住宅の灯りが見えた。あの窓の向こうで、何かが燻ぶっている。

—あいつを殺したい。

その感情に気づいていない人間など、この世にいない。ただ、それを心の底に沈めて、蓋をして、明日もまた誰かの隣で笑っているだけだ。

問題は、その蓋がいつまで持つか、だ。

きっかけは、いつだって些細なものだ。

あの部屋にいた5人の中で、誰かの蓋が外れかけた。

今夜はかろうじて外れなかった、だけのことだ。

そしてその蓋は、まだ、完全には閉まっていない。

第三章 偽装

3-1 息子・篠原匠

あの夜から、一夜が明けた。

朝、僕は陽菜に改めて頭を下げた。謝罪の言葉しか出てこなかった。そして言った。今件は全て僕が解決する。陽菜はもう僕の家族と会わなくていい、と。

陽菜は黙って聞いていた。

しばらくして、口を開いた。

「あたしより年下のくせに、なんなの。妹こそ部外者でしょ。あたしだけ、なんで攻撃されなきゃいけないの?」

声は静かだった。静かなのに、恨みにも似た黒くうごめく何かを感じた。

「もう忘れて」
と僕は言った。このままでは陽菜が犠牲者になってしまう。

「忘れたくても忘れられない。あんなに侮辱されて…あたしの方が、殺してやりたいくらいよ」

殺すというワードが出て、僕はビクっとした。陽菜の中にも殺人鬼はいる。そして僕は返す言葉が思い当たらず、黙るしかなかった。

「もういいわ。匠の家族には今後一切関わらない。あたしはこのお腹の子を守り抜く。あとは匠、自分で解決して」

それだけ言うと、陽菜はまた寝室に戻っていった。扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。

(そうだ、しっかりと蓋をして鍵をかけるんだ…陽菜は蓋を開けてはいけない)

さて。
僕は一人でテーブルに座り、考えた。どうすればいいのか。このままいくと、僕たち夫婦間の関係も危うくなる。本当に離婚してしまう。

それでは、あの人たちの思うつぼだ。なんとかしなくてはならない。

自分だけでは答えが出そうになく、嫁姑問題や家族間のトラブルを扱う相談機関に連絡を入れてみることにした。しかし返ってきた答えは、マニュアルに書いてあるようなものばかりだった。

「もう一度、話し合いの場を設けて、お互いの気持ちを理解し合うことが大切です」

それができていたら、とっくにやっている!
それで解決できないから相談しているんだ!

相談員も、所詮は人間だ。自分の経験と知識の範囲内でしか答えを持てない。

僕には一つの解決策が頭にあった。

それは全てに嘘をつく。ということだ。
僕の親、妹には、子供を堕ろし、離婚をした。と説明する。
妻の陽菜には両親と和解をしたと説明する。

僕は親の前では独身の男という仮面を被り、
妻の前では旦那という仮面を被る。

二重の仮面生活を送る。二役を場面に応じて演じ切るということだ。

そんなことを相談機関に話してみた。
絶句された。それはそうだ。そんな例がないからだ。相談員にそんな経験がないからだ。人は、経験がないこと、想像していないことをアドバイスすることが出来ない。

「一時的な嘘をついてもいつかはバレてしまうので、もう一度話し合いを…」

そんなことはわかってる。当たり前の回答をしないで欲しい。
相談機関を否定するわけではないが、僕のケースでは使えないな…そう思った。

全て、自分で判断して行動していくしかないのだ。

他人は頼れない。自分で解決するしかない。

その間にも、母からの着信が続いた。一度も出なかった。それでもスマホが震えるたびに、胸の奥で何かが軋む。

無視をする。しかし、仕事が手につかなかった。カフェのカウンターに立ちながら、頭の中では様々な思考を巡らせていた。

本当にうまくいくのか。
本当に全てが丸く収まるのか。

毎日考えた。

ある日、覚悟を決めた。

嘘をつくなら、とことんやるしかない。中途半端な嘘は、すぐに綻ぶ。誰にも見破られない準備が必要だ。そしてその嘘は、自分の墓まで持っていく覚悟で臨む。

頭の中で、静かに整理が始まった。

まず、親に子供を堕ろしたと説明すればどうなる。
「あら、そう」「ようやくね」
そんなことを言うだろうか。そしてその次は?証明書を見せなさいと言われるのではないか?

子供を堕ろすと医療機関が中絶証明書を発行するようだ。それを、もしものために準備しておく必要がある。

恐らく、証明書の書式は医療機関によって異なる。統一された様式がない以上、自分で作成しても見る人間には判別がつきにくい。

自分で証明書を偽造すれば立派な犯罪になるだろう。だが言われてすぐ提示出来るよう、目途を立てておく必要はある。

次は、離婚をしたと説明すればどうなる。
「やっとね」「私の言う通りにすればいいのよ」
そんなことを言うだろうか。そしてその次は?住民票を見せなさいと言われるのではないか?

これは問題だ。住民票を見様見真似で作れるのだろうか。住民票には特殊な用紙が使われている。コピーすると「複写」の文字が浮かび上がる不正防止加工だ。

しかし、その特殊用紙は「コピー偽造防止用紙」として市販されている。緑色のカラー印刷のものを購入し、本物の住民票を参考に模倣すれば、一見しただけでは区別がつかないものが作れる。

これは、公文書偽造罪にあたる。

頭ではわかっていた。重い罪だ。実際にやりたいわけではない。ただ、母が「見せなさい」と言ってきたときのために、その選択肢を頭に置いておく必要があるのだ。

そこまで想定ができたら、いよいよ離婚届だ。

離婚届を手に入れるのは簡単だ。役所にいけばもらえる。

離婚届には夫婦当事者の署名だけでなく、2名の証人の署名が必要になる。籍を入れたときと同じだ。あのとき証人を頼んだのは、僕の父と陽菜の父だった。

今回も同じ組み合わせが自然だろう。

だが、陽菜の父に頼めるわけがない。

では自分で筆跡を変えて書くか。…無理だ。自分の親が相手では、どれほど変えても不自然さが滲む。筆跡の癖は、長年の付き合いで染み込んでいる。

誰かに頼むしかない。

改めて、ため息が出る。ここまで思考したが、本当にやるのかー。

第三者の意見がやはり聞きたかった。しかし相談機関では駄目なことはわかっている。

僕が信頼できる人間。地元と無縁で、どこからも情報が漏れない人間。

一人だけ、いた。

社会人になってから知り合った友人だ。僕の地元には縁もゆかりもない。余計なところに繋がりがない。

早速連絡をし、次の休みの日、カフェで会うことになった。

僕は友人に今までのことを全て話した。母のこと。陽菜のこと。このどうしようもない事態を。

そして、今僕が考えていることを。

友人は黙って聞いていた。たびたびコーヒーカップに口をつけるものの、最後まで口を挟まなかった。

全部話し終えたあと、しばらく沈黙があった。

「ベストな答えはわからない」と友人は言った。「でも、匠がそう考えるなら、いいんじゃないか」

それから少し間を置いて、続けた。
「俺にどうして欲しい?背中を押して欲しいんだろ?」

だまる僕を見ながら友人は続ける。

「俺に協力出来ることなら何でもやる。だが、中絶証明書や住民票の偽造には手を貸せない。…でも、離婚届の証人欄なら、代わりに書いてもいい」

もちろん友人自身の名前ではなく、陽菜の父親の名前を代わりに記入するということだ。それだけで立派な偽造になる。それでも、友人はそう言ってくれた。

「ありがとう」

それしか言えなかった。友人には申し訳ない思いでいっぱいだった。だが話を聞いてくれて覚悟が出来た。思考が整理できた。友人の言った通り、背中を押して欲しかったのだ。

これで、離婚届の目処は立った。

次は住む場所だ。

本当に離婚したなら、陽菜の実家の近くに建てた新居には住まないだろう。どこに引っ越すのが自然か。僕が経営しているカフェの近くが一番無難だ。

ネットでマンスリーマンションを探した。家具・家電つきの部屋なら、すぐに生活している体裁が整う。

早速、カフェの営業の合間を縫って、マンション管理会社を訪ねた。陽菜にはもちろん言えない。だから自分の小遣いから敷金・礼金と家賃を払うしかなかった。いきなり15万ほどの出費になったが、お金でこの親の問題が解決するなら安いもんだ。全て、親を騙すための必要経費なのだ。
管理会社には部屋を借りる理由を聞かれたが、セカンドハウスと答えた。本当にカフェの営業が忙しいときは寝泊りするかもしれない。

学生のときも一人暮らしをしなかった自分が、まさか結婚して、家を建てたあとにアパートを借りるとは夢にも思わなかった。

母親に嘘をつくために部屋を借りている。おかしな話だ。

でも、これ以外に方法が思いつかなかった。

準備が整ったその夜、スマホにメッセージが届いた。

母からだった。

「なんで電話に出ないの?離婚はいつするの?昨日、役所から離婚届をもらってきたわよ。今度これに名前書いてよ」

画面を見つめながら、僕は長い息を吐いた。

35年間、この人の言葉に従ってきた。従い続けることで、何かが守られると思っていた。

でも、もう違う。守るべきものが変わった。

陽菜がいる。お腹の子がいる。

陽菜の言葉を思い出す。

ー忘れたくても忘れられない。あんなに侮辱されて、あたしの方が、殺してやりたいくらいよー

母の言葉を思い出す。

ー堕ろしなさいよー

母はどんな思いでその言葉を発しているのか。
自分の孫を、僕の子を殺そうとする殺人鬼よ。

さぁ、戦ってやろうじゃないか。
そして、決着をつける。

3-2 母・篠原冴子

匠が電話に出ない。

何度かけても、呼び出し音が鳴るだけだ。

明らかに避けている。

「逃げられると思うなよ」

この子は昔からそうだ。嫌なことがあると、殻に閉じこもって時間をやり過ごそうとする。でも私はその手に乗らない。35年間、この子のことを見てきた。どうすればこの子が動くのか、私が一番よく知っている。

電話に出ないなら、メールを送ろう。
『なんで電話に出ないの?離婚はいつするの?昨日、役所から離婚届をもらってきたわよ。今度これに名前書いてよ』

送信ボタンを押しながら、私は少し笑った。

実際には、もらってなどいない。離婚届は誰でも役所でもらえる。でも実際に取りに行くとなると、世間体というものがある。私が離婚すると思われたらどうするのだ。窓口で「離婚届をください」と言う自分を想像するだけで寒気がする。

数日後、匠からメールで返信が来た。

子供を、堕ろした。だから電話に出られなかった、と。

私は画面を見つめた。
そうか。とうとう堕ろしたのか。間に合ってよかった。私は安堵した。

私は経験していないが、中絶というものが女性にとって大変なことであるのは、なんとなくわかる。体のことだけではなく、気持ちの整理もあるだろう。男の方だってそうだ。妻をいたわらないといけないし、自分も落ち着かせないといけない。落ち込むこともあるだろう。

でも。

それもこれも、匠自身が巻いた種だ。勝手に子供を作ったのだから、その始末は自分でつけるしかない。自分が犯した過ちは自分で補う。当たり前のことだ。私が同情する筋合いはない。

そして離婚届も、自分で用意して持ってくるという。

証人欄に父の義男の名前を書いてほしい、とのことだった。

やっと、決意してくれた。行動してくれた。

それでいい。よかった。ようやく、この長かった戦いに決着がつく。

「あなた、車出して」

義男は黙って立ち上がった。

待ち合わせのカフェに着くと、すでに匠がいた。

しかし、違和感を感じた。匠が帽子を被っている。帽子嫌いなあの子が。

私たちが近づくと、匠もこちらに気づいた。すると帽子を取った。

その瞬間、私は思わず立ち止まった。

頭が、丸かった。

坊主頭だった。心なしか頬もこけて見える。あの丸みのあった輪郭が、少し削れていた。

なんて、なんてかわいそうな息子。
何がこの子を追い詰めたのか。丸坊主にしたのは詫びのつもりか。子供への償いか?

私は向かい側の席に座りながら、胸の奥で何かが揺れるのを感じた。かわいそう、という気持ちは本物だった。この子が憔悴している姿を見て、平気でいられるほど、私は鬼ではない。

匠が口を開いた。
子供を堕ろしたこと。陽菜と、離婚することにしたこと。改めて、静かな声で語った。

憔悴しきった匠を見て、全て信じることにした。この子は嘘をついていない。証明書を見せなさいなんて野暮なことはやめておこう。

私は表情を整えた。目を細めて、息子をいたわる顔をした。
「大変だったわね」「辛かったでしょう」
そういう言葉を、ちゃんと口にした。

一方、やっと。やっと終わった。やっとこの子が戻ってくる。というのが本音だった。

今この場でその喜びを表に出せば、匠は何かを感じ取るかもしれない。この子は鈍いようで、たまに妙なところで勘が働く。

私は静かに、悲しむ母の顔を保ち続けた。

匠が鞄から書類を取り出し、テーブルの上に置いた。

離婚届だった。

広げると、匠夫婦の名前と住所、そして陽菜の父親の名前と住所がすでに記入されていた。残るのは、証人欄の義男の署名だけだ。

義男がペンを取り、名前を書き始めた。

その様子を眺めながら、私はふとつぶやいた。

「離婚届って、初めて見たわ」

口に出してから、しまった、と思った。油断した。

でも匠は特に気にした様子もなかった。ただ、書き終わった離婚届を確認して、鞄に入れた。

「明日、役所に出してくるよ」
匠はそう言った。

「匠、住む場所はどうするの?」
私の素直な疑問だった。

「もちろん建てた家には住めないから、近くにアパートを借りたよ。家具家電つきのマンスリーマンションをね」

「それならすぐ住めていいわね。ここから近いの?」

「すぐそこだよ。帰るときに外から見ていく?」

私たちはカフェを出た。
匠は義男の車の助手席に乗り込み、道案内をしてくれた。

窓の外を流れる景色を見ながら、私は思った。この周辺の町はスーパーも飲食店も増えて、若い人たちに人気がある。緑も多くて、悪くない。

「あ、ここだよ」

匠が指を差した。

二階建ての、どこにでもありそうなアパートだった。
「ここの一階の隅の部屋」と匠は言った。

ここで、この子が新しい人生を始めるのか。

私たちと一緒には住めない。カフェの経営もある。距離だってある。それはわかっている。一緒にすめれば一番いいが、仕方のないことだと思っている。少し寂しい気がしたが、もう、あの女と一緒じゃないなら。それでいい。

それだけで、十分だった。

仕事があるという匠をカフェまで送り届けて、私たちは帰ることにした。

車窓から流れる景色を見ながら、私はそっと静かに目を閉じた。

長かった。
本当に、長かった。

でもこれで終わった。匠はまた、私に戻ってくる。あの女の影響から解き放たれて、本来の息子に戻っていく。

私がずっと望んでいたことが、ようやく叶った。

窓の外に、見慣れた街並みが流れていく。

私の胸の中で、戦いがようやく幕を閉じた。

3-3 息子・篠原匠

全て、うまくいった。
生まれて初めての丸坊主だった。

激安カットサロンで坊主にしてきたのだ。効果は絶大だった。憔悴した息子を演出するのに、これ以上のものはない。最初の場の空気を作った者が、流れを支配できる。

おかげで中絶証明書も、住民票も、母から求められることはなかった。僕の言葉を信じてくれた。それがなによりだった。

ただ一つだけ、耐えがたい瞬間があった。

「離婚届って、初めて見たわ」

母のあの一言だ。

あれを聞いた瞬間、僕の中で何かがガチャと音を立てた。心の奥底で蓋がはずれ、落ちかける音がした。以前の母のメールに書いてあった『役所から離婚届をもらってきたわよ』あれは嘘だったわけだ。僕を動かすための、でまかせだった。

うんざりだ。

そして…

子供を堕ろせ、と言い続けたあの人は、今日あの場で何の罪悪感も見せなかった。なぐさめの言葉を口にしながら、その目はどこか満足そうだった。

自分では手をかけていない。でも、あの人が命令した。

あの人は、善良という仮面をかぶった殺人鬼だ。

だが…僕の目的は、そのことを叫ぶことではない。
母に対して殺人鬼だとわめき散らすことではない。

子供を堕ろし、離婚し、独身になった。その嘘を両親に信じてもらう。それだけが目的だ。そこをはき違えてはいけない。

僕はゆっくりと深呼吸をした。蓋が外れないようにコントロールをした。

父が証人欄に署名を書き終え、離婚届が完成した。僕はそれを鞄にしまった。

「明日、役所に出してくるよ」

もちろん、役所になんて持って行かない。

これで終わっても良かった。でも、もう一押しをしようと思った。建てた家を出て、妻とは別れて暮らしている。そのことを、目で確認させる必要がある。危ない橋ではあったが、やる価値はあった。

「すぐそこだよ。帰るときに外から見ていく?」

あくまで外からだ。中には絶対に入れない。マンスリーマンションには僕の荷物は何一つない。生活感のかけらもない部屋だ。しかし母は、そこまで踏み込む性格ではない。外から確認できれば満足する。そんな確信があった。

案の定、アパートを見た母は満足そうだった。

両親にカフェまで送ってもらったあと、僕は一人でカウンターに座った。

窓の外の景色を眺めながら、そっと目を閉じた。

長かった。本当に、長かった。
でも、これで終わった。

両親は、僕が離婚したと信じた。子供を堕ろしたと思った。独身になった息子が、カフェの近くのアパートで新生活を始めると思っている。

ただ同時に、僕は親の前では独身という仮面を一生被り続けなければならない。

それでいい。それでいいのだ。

仮面を被ることには、慣れている。35年間、ずっとそうしてきた。母が望む顔を作り、母が聞きたい言葉を口にしてきた。今更、仮面が数枚増えたところで、どうということもない。

その夜、妻が待つ新居に戻った。

陽菜が夕飯を作っていた。いつもの台所の匂いがした。

「ただいま」

「おかえり」

陽菜は僕の丸坊主姿を見てびっくりした様子をしたものの、すぐに何かを悟ったようだった。

僕は陽菜に報告した。両親と話して、納得してもらった、と。

陽菜は「そっか」とだけ言い、それ以上は聞いてこなかった。

その潔さが、陽菜らしかった。細かいことを問い詰めない。信頼して任せてくれる。

僕はこの家では、夫だ。来年の春に生まれてくる子供の、父親だ。独身などではない。

大黒柱として、しっかりしなければならない。


数日が過ぎた。

カフェで開店の準備をしていると、スマホが震えた。

画面を見た。父からだった。

父からの着信は珍しい。嫌な予感を抱きながら、電話に出た。

「もしもし、匠か?」

「あぁ、そうだけど」

「いまは一人か?」

「もちろん。独身貴族さ、はは」

乾いた笑いが出た。我ながら白々しかった。

「ところで…」

父が、少し間を置いた。

「子供を堕ろしたのは、本当か?それとも、嘘か?」

冷たいものが、背中を流れた。

本当に恐ろしいのは…

母ではなく、父か。

ずっと黙っていた男が、ずっと見ていた。

「いま、母さんはいないから。俺にだけ正直に言ってみろ」

沈黙が続いた。

「母さんには何も言わない。俺だけの胸のうちにとどめておく」

迷った。

父を信じていいのか。でも、いつ母の蓋が再び開くかわからない。何をしでかすかわからない。父を味方に引き込んでおけば、今後の戦い方は変わってくる。

賭けだった。

「父さん、どこで気づいたんだ」

「…言ってみろ」

「父さんの言う通りだ。子供を堕ろしたのは嘘だよ」

「やはりな」

「だって子供を殺す親がどこにいる。おかしいだろ!」

「そうだな…おかしいな」

「母さんはおかしい。普通じゃない」

「そうだな」

父は静かに、しかし確かに頷いた。電話越しでも、その重さが伝わってきた。

「このことは秘密にしておく。だが母さんの気持ちも、少しはわかってやってくれ」

僕は黙った。

「ちなみに、いつ生まれるんだ」

「来年の3月10日が予定日かな」

「そうか。陽菜さん大変だろうから、家事手伝ってやれよ。生まれたら、こっそり俺にだけ報告してくれ」

電話が切れた。

僕はしばらく、スマホを手に持ったまま立っていた。

本当に大丈夫だろうか。

父は秘密にすると言った。信じるしかない。でもいつだって火事の原因は、些細なものだ。

小さな火種が、どこかでくすぶっている。

それがいつ燃え上がるか、誰にもわからない。

第四章 訪問

4-1 息子・篠原匠

いよいよ、僕が父になる日が来た。

2018年3月14日。予定日より4日遅れて、長女が誕生した。

不妊治療を経ての、待望の子供だ。陽菜には感謝してもしきれない。出産にも立ち会った。生まれてきた子供を見て、まるで自分が生まれてきたかと思うほど、僕にそっくりだった。でも、実感がない。父親になったという実感だけが、追いついてこない。

世の中の父親は、みんなそうなのだろうか。

それとも、僕が特別なのか。

子供が生まれたら、普通は親に報告する。もちろん僕はしない。母には、子供は堕ろした、と伝えてある。この子の存在は、あの人には一生知らせない。

でも、父にはー

迷った末に、短いメールを送った。

「生まれたよ」

返信は完結だった。

「そうか」

たった三文字。それ以上は何もなかった。

父の感情が読めない。嬉しいのか、複雑なのか。なぜ生まれたことを知りたかったのか。そして、本当に味方なのか。

考え始めると、きりがない。でも、そんなことを考える余裕もなく、毎日を慌ただしく過ごしていた。

子供を育てるとは、こうも大変なことなのか。

数ヶ月が、あっという間に過ぎた。その間、母からの連絡は特になかった。平和な、普通の時間だった。この静けさがいつまでも続けばいい。そう思っていた。

そんなある日、父からメールが届いた。

「母さんが匠の建てた家を見たいと最近言っている。あの家はいまどうなっている?」

スマホを持つ手が止まった。

(なんだって!?)

この家が見たい。今更なぜだ。

「あの家はいまどうなっている?」
どうもこうも、いま僕たち家族が住んでいる。でもそんなことは言えない。僕はマンスリーマンションに住んでいることになっているからだ。

離婚したあとの、あの家はいまどうなっている?
それが知りたいのだ。でもなぜ知りたいのだろうか。

父は、子供をおろしたのは嘘と知っている。しかし離婚については、嘘とまでは言っていない。父は今、子供は生まれたが離婚はした、という形で理解しているはずだ。そういう形の夫婦も世の中にはいる。

とにかく、ここに来られては困る。

僕は父に返信した。

「あの家がどうなってるかは知らない。売却されて誰か別の人が住んでるかもしれないし…とにかく母さんが行くのを止めてくれ」

「わかった」

そのやり取りで、一旦は収まった。

母の気持ちが落ち着くことを、ただ祈るしかなかった。

数日後。

父からメールが来た。

「すまん。止められない。今から家を見に行く」

(今から!!??)

今日は、たまたまカフェを副店長に任せて休みにしていた日だ。陽菜は朝から子供を連れて実家に行っている。妻の実家はここから歩いて3分ほどだ。

(考えろ!この局面を乗りきるんだ!!)

僕は『独身男性』という仮面を静かに被った。独身男性を演じきるんだ。

この家には、誰も住んでいない。そう見せるしかない。

生活感を消す。

まず表札だ。幸い、ねじで取り外せるタイプだった。スマホで取り外し方を検索しながら、震える手でドライバーを回した。外れた表札を、家の中に持ち込んだ。

次は車だ。

我が家には2台ある。どちらも駐車場にあれば人が住んでいることが一目でわかる。どこかに移動させなければ。

近くに路上駐車をするか?それで違反切符をきられてはシャレにならない。それに車の2台のうち1台は僕が結婚する前から乗っていた車だ。つまり親も知っている。それが近くに路駐しているところをたまたま見てしまうかもしれない。歩いて10分ほどのところに大型ショッピングセンターがある。心苦しいがそこに置いておくのがいいだろう。車を隠すなら車の中に、だ。

1台目を走らせ、ショッピングセンターの駐車場に入れて、そこから家まで走った。文字通り、走った。

(両親は今、どこまで来ている?もうこっちに向かっているのか?)

息を切らしながら家に戻り、すぐに2台目に乗り込む。またショッピングセンターへ。また走って帰る。

走りながら父にメールする。
「もう向かってるの?」

返信が来た。
「いまむかっている」

句読点も漢字変換もなかった。信号待ちの合間に打ち込んだような文字だった。

(急がなければ)

玄関の傘立てを家の中に入れる。外に置いてあるものを片っ端から取り込む。家の中が外から見えないように、窓についているシェードを全ておろした。そして電気を全て消した。

準備は出来た。呼吸を整える。

スマホを確認する。連絡はない。

(本当に来るのか?)

昼間なのに暗い部屋で息をひそめる。

その時。

家の前で車が止まる音がした。

窓のシェードをおろしているから外の様子が見えない。

音、だけが聞こえる。

(来た)

ピンポーン。
チャイムが鳴った。

(チャイムを鳴らすとはどういう心境だ?)

室内にあるドアホンモニターをみる。カメラの映像が映し出されている。

そこにいたのはー

息が止まった…

モニターに映ったソレは、白かった。

顔、が白かった。

顔、じゃない。

のっぺりとした、表情のない白い仮面だ。

いつのまにか雨が降り始めていたらしい。雨粒がカメラのレンズを濡らして、映像を滲ませていた。傘を持った人間が、レンズに顔を近づけている。

母だった。

白い仮面ではない。僕の脳がそう処理しただけだった。

(そう、あれは悪魔だ)

心の中で、そう思った。僕の子供を殺せと言った怪物だ。僕の人生を35年間支配し続けた人間という怪物だ。

母がカメラの視界から消えた。

どこに行った?何をしている?

次の瞬間ー

ドンドンドン!!

玄関扉を叩く音が、家全体に響いた。

ドンドンドン!!

声、が出そうになった。口を両手で押さえた。

(誰もいない。この家には誰もいないんだ!)

自分に言い聞かせながら、床に座り込んだ。膝が震えていた。

ドンドンドン!!

また叩く音。

(早く帰れ。頼む。帰ってくれ!!)

今この瞬間に陽菜が戻ってきたら全てが終わる。陽菜はこのことを知らない。10か月前の地獄が、そっくりそのまま戻ってくる。

自分の心臓の音、がやけに大きく聞こえた。ドクドクドクと、外まで漏れてしまいそうなくらいに。

どれくらい経っただろうか。いつのまにか静かになった。

そして、車のドアが閉まる、音がした。

バックする、音。

エンジン音が遠ざかっていく。

帰った、のか。

玄関のドアノブに手をかけた。

が、やめた。

もし待ち伏せていたら。ドアを開けた瞬間に母が立っていたら。

頭の中に、包丁を持った母の顔がよぎった。

(まだだ。もう少し待つんだ)

暗い部屋の中で、待った。

5分。10分。15分。

カチ、カチ、と壁掛け時計の秒針の音、だけが、響く。

意を決して、父にメールした。
「いまどこ?家は見終わった?」

数分後、返信が来た。

「見終わった。表札もないし、物も置いてないし、誰も住んでいなさそうだったよ。いまは近くのショッピングセンターにいる」

全身の力が抜けた。

続けて、父からメールが来た。

「母は満足したようだ」

(何の満足なんだ。本当に…)

でもよかった。この局面を乗り越えた。

いや、まだだ。原状復帰をしなければならない。陽菜はこの事態を何も知らない。帰ってくる前に全てを元に戻さなければ。

窓のシェードをあげる。窓から外を確認する。誰もいない。表札を取り付け直す。傘立てを玄関に戻す。

あとは車だ。でも父たちはショッピングセンターにいると言っていた。いま取りに行くにはリスクがある。

陽菜にメールした。
「昼ごはんはどうすればいい?」

「まだ実家にいるから、何か好きなもの食べてきていいよ」

ガッツポーズが出た。車はゆっくり回収すればいい。

僕はそっと、仮面を外した。

それから、自分の服が濡れていることに気づいた。

そういえば雨が降っていたのだったな、と、ひどくぼんやりした頭で思った。仮面を被って生きていくことを覚悟したあの日から、こうして見えない悪魔と闘っていく日々を過ごしていくことになるのだ。

4-2 妹の結婚

妹からメールが来た。

「お兄ちゃんに相談があるんだけど」

妹も妹だ。

1年前のあの事件。陽菜に罵倒を浴びせたあの日以来、会話をすることもメールをすることもなかった。恐らくは母から、兄は子供を堕ろし、離婚をしたと聞いているのだろう。妹としても、兄に連絡できなかったのかもしれない。

それにしても、突然「相談」とは何だろうか。そんな関係性なのに突然の切り出しだ。

いかがなものか。とは思うところもあったが、妹と会うことにした。なんとなく悩みの内容がわかったからだ。

僕の思っている悩みだったら…兄として救いの手を伸ばしてやろうとそう思ってしまった。

陽菜を傷つけた妹を、まだ許す気持ちにはなっていない。それでも僕は『独身』という仮面を被って、妹とカフェで待ち合わせをした。

妹は少し思い詰めたような面持ちで現れた。

「久しぶり」

「あ、あぁ」

そっけないやり取りのあと、妹が切り出した。

「実は、結婚を考えている彼氏がいて」

なんとなく、想像していた通りだった。大方、母の同意を得られないとか、そういう悩みだろう。

「プロポーズも受けたんだけど、お母さんに言いづらくて」

「なんだ。てっきり反対されているのかと思ったけど、相談もしてないのか」

「お兄ちゃんの一件があるから、言いづらくて」

(お兄ちゃんの一件って)

「僕の話とは関係ないだろ」

「そうなんだけど…、で、彼氏は仕事の都合で来年から中国転勤なんだよね」

「ついていくのか」

妹は、静かにうなずいた。

「お母さんには言うしかないだろ。結婚して、中国行きます。全部決まっていることです、ってな」

そう言いながら、思わず笑ってしまった。
決定事項の報告ー。
まるで自分のときと同じじゃないか。

「それしかないよね」

「お母さんに何を言われても、強い気持ちで立ち向かうことだ」

僕の一件もそうだが、この妹の親に対する行動も、傍から見たらひどいことだろうか。親孝行をしたいときには親はなし、とよく言う。僕たち兄妹は、親不孝者なのだろうか。

自分を正当化したいだけかもしれない。それでも、自分たちのあの親が「特殊である」と言い聞かせたかった。そして、様々なことを調べている中で腑に落ちる言葉を見つけたのだ。

「毒親」

「え?」

妹は、まるで理解できない、という顔をしていた。

「僕たちの親は、毒親なんだ。だから、何も気にすることはない」

スマホを取り出し、妹に見せた。

毒親は、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親に対して、1989年にスーザン・フォワード (Susan Forward) が作った言葉である。学術用語ではなく、スーザン・フォワードは「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉として用いた。

ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%92%E8%A6%AA

毒親の特徴を持つ母親は「毒母」とも呼ばれます。

毒親である母親には、「押しつけがましさ」「感情の起伏の激しさ」「子育てからの回避」「愚痴の多さ」「子どもへの嫉妬や依存」「極端な言動」といった特徴が見られます。

このような母親のもとで育った子どもは、性別に関係なく「母親と関わること自体がしんどい」と感じやすく、母親の存在そのものが大きなストレス要因となっているケースも少なくありません。

なお、毒親である母親に共通する主な特徴としては、以下の点が挙げられます。

過干渉・コントロール
罪悪感で支配
過保護・心配しすぎ
子育てから逃げる/子どもに愚痴を聞かせる
感情的(ヒステリック)
嫉妬・依存(共依存)
極端な言動

「メンタル心理そらくも」 https://sorakumo.jp/report/archives/271

妹がスマホの画面を読み終わるタイミングで、僕は話し始めた。

「毒親は病名じゃないから、母さんがそうだっていう証明はできない。でも、事例を読んでいくと、まさに母さんのことなんだ。だから僕は、母さんは毒親なんだ、と思うようにした。ひどい息子と思われるかもしれないけど」

一呼吸おくために、アイスコーヒーを流し込む。

「そう思うと、気が楽になった」

本心だった。

今までの不思議な出来事の説明が、ようやくついた気がした。だからといって僕が仮面を外せるわけではない。でも、心にかかる重さが、いくらか軽くなったような気がした。

だから妹も、同じように母と向き合えば自分を追い詰めなくて済むのではないかと思った。

「そっか…毒親…毒母か…」

妹は、何かを噛みしめるような表情になった。それから、ゆっくりと顔を上げた。

「タイミングを見て、お母さんに結婚のこと話してみるよ」

「そうだな。頑張ってくれ」

(冷たいかもしれないが、僕は居合わせないし、関わらないよ)

「アイスコーヒー代は、お礼としてあたしが払うから」

そう言って妹はレジに向かった。


その後、父から聞いた話では、妹は結婚をし、中国に行くことを半ば強引に押し切ったらしい。

母は、最初は納得しなかったという。それでも妹は、僕とは少し違う方法を取ったようだ。涙ながらに訴えたとも聞いた。意外にも、最後には母も結婚を了承したらしい。母にとって、息子と娘は違うのか?

僕は、遠い空に向かってつぶやいた。

「ずるいよな。仮に喧嘩別れしたとしても、中国に行くんだもんな。ちょっと家を見に行くか、っていう距離じゃないもんな」

母が悪魔になるのも面白かったかもしれないけどな。妹には、蓋が外れなかったか。

ま、僕には関係のないことだ。

そして僕は、そっと仮面を外した。

4-3 父の失踪

何てことない朝だった。

食パンをトースターに入れようとしていた。ちょうどそのとき、スマホが鳴った。

画面を見た瞬間、手が止まった。

母からだ。

なんの用だ。妹の件か。それとも僕の件が再燃したのか。無視しようかと思った。でもどうせしつこく追いかけまわされることはわかっているので、出ることにした。

「もしもし」

電話に出るなり、母の声が飛び込んできた。

「匠!どうしよう!」

僕は無防備に気づき、とっさに仮面を被った。

「何があった?」

「お父さんが変なの!」

「変?」

「さっき、いつものように会社に行くはずだったんだけど…朝ごはん食べて、身支度して、玄関に向かったと思ったら」

「うん」

「俺ってどこに行くんだっけ?って言い出したの」

「はぁ」

「最初は冗談かと思って、何言ってるの、会社でしょって言ったんだけど…ピンと来ない顔をしてて。それで…そうだよな、って言って、そのまま出て行ったの」

嫌なものが、心の中に広がった。

「会社には着いてるの?」

「それが、まだ着いてないって」

母の声が、一段高くなった。

「車で出て行ったのよ。大丈夫かしら。ボケが始まったんじゃないかしら。事故しないわよね。お父さんだけが怪我するのはいいけど、よそ様を巻き込んだりしないわよね」

お父さんだけが怪我するのはいい。

その一言が耳に引っかかったが、今はそこに構っている場合ではない。

問題は父だ。

父が認知症になったとしたら。記憶が混濁したとしたら。僕が子供を堕ろしたのは嘘だと、父だけが知っている。それが口から出てしまったら…全てが崩れる。

「わかった。今から実家に行く」

カフェに詫びの電話を入れた。副店長に任せるのは申し訳なかったが、今日はそれどころではない。

実家に着くと母が玄関で待ち構えていた。

「父さんから連絡は?」

母は首を振った。

「会社にもう一度電話してみたけど、やっぱり着いてない」

家を出てから1時間以上。会社までは渋滞を考えても30分あれば着くはず。

「周辺を探してくる」

車に乗り込み、走り出した。探すといっても、相手は車で移動している。行動範囲が広すぎる。

考えろ。父はどこに行くか。いきなり遠くへは行かないはずだ。どこかに車を停めて、立ち往生しているのではないか。

駐車できる場所。コンビニだ。

近所のコンビニを、一軒ずつ回り始めた。

一軒目。父の車はない。二軒目。ない。三軒目も、四軒目も。

焦りが積み上がっていく。

六軒目。七軒目。

八軒目のコンビニの駐車場に入った瞬間、見覚えのある車が目に入った。

父の車だ。駐車場の隅に停まっていた。

車を停め、駆け寄った。助手席から覗き込む。父が運転席に座っていた。前を向いたまま、微動だにしない。

窓ガラスをコンコンと叩いた。

反応がない。

ドンドン、と強く叩いた。

ゆっくりと、父がこちらを向いた。

その目を見た瞬間、息が詰まった。

焦点、が合っていなかった。

濁った、うつろな目だった。誰かがそこにいるとわかってはいるが、誰なのかがわかっていない、そういう目だった。

ドアを開けた。

「父さん、こんなところで何してるんだ。会社だろ?」

「あぁ、そうか。会社か」

声は出た。でも言葉が、どこか上滑りしていた。

「父さん、しっかりしろよ。僕が誰かわかるか?」

父が僕を見た。しばらく眺めてから、わずかに首を傾けた。

「……?」

(わからないのか)

「嘘だろ。匠だよ。父さんの息子の匠だ)

「息子…か」

「そうだ!父さんがいなかったら、母さんをどうするんだ。母さんを制御できるのは父さんだけだろ!」

「母さん……」

「そうだ!あの母さんだ。包丁を持ち出してまで息子を脅した、あの母さんだ!」

その瞬間。

父の体がピクッと震えた。

ゆっくりと、目の焦点が戻ってきた。濁っていたものが、すうっと引いていくのがわかった。そして父は、まっすぐに僕の目を見た。

「匠。こんなところで何してるんだ」

「父さん!」

「俺は…なんでコンビニにいるんだ?」

「父さんが会社に行ったまま連絡がつかなかったから、探してたんだよ。母さんが心配してる。一旦家に戻ろう」

父は座り直し、シートベルトを締めた。その動作は、いつもの父のものだった。

よかった。

と、まず思った。

それから、すぐに別のことを考えた。

(父がおかしくなって、僕の秘密を口にしてもらっては困る。正常に戻って、本当によかった)

自分の冷たさに、少し驚いた。

二人で実家に戻ると、母は呆れた様子で父を出迎えた。

「もう老人ね」

冗談なのか、本気なのか、判断がつかない言い方だった。


後日、父が医者にかかったと聞いた。

『一過性全健忘』と言われたとのこと。

一過性全健忘(TGA)とは、特定の出来事や前後の出来事に関する記憶が一時的に失われる記憶障害です。後遺症はほとんどなく、通常は後で記憶を回復します。

ウェルネス総研レポート https://wellnesslab-report.jp/pj/gamma-tech/column/symptoms-dementia-tga.html

特定の前後の記憶が一時的に失われる記憶障害で、後遺症はほとんどなく、通常は記憶が戻るという。

しかし、父はあの朝の記憶—朝食を食べたこと、母との会話、コンビニに向かった経緯が全く思い出せないらしい。

原因はよくわからないが、極度のストレスや疲労が引き金になることもあるという。

ストレス。

父のストレスとは、何だったのか。

黙って、全てを見続けた35年か。

それとも、息子の秘密を抱えたまま、妻の隣で過ごしたこの数ヶ月か。

考えても、答えは出なかった。

父ももう60代中盤だ。いつ何が起きてもおかしくない。

この仮面生活を保つためには、父が正気でいてくれることが実は一番大切な条件なのかもしれなかった。

第五章 届物

5-1 退去

実は、時系列が少しずれてしまうが、半年ほど前に、マンスリーマンションを退去した。

一番の理由は、単純だった。お金がもたなかった。

月6万円。妻は知らないから、僕の貯金からの持ち出しだ。約10か月で、トータル70万円ほどになった。もったいないと言えばそうだ。でも、あの偽装離婚劇が成立したのも、今こうして平穏な日々を送れているのも、あの部屋があったことも大きい。ムダ金ではなかった。僕にとっては。

もう一つ、あそこを借りたことで、大きなメリットがある。

郵便物の転居転送サービスが使えることだ。

日本郵便に届け出をしておけば、マンスリーマンション宛に届いた郵便物を、新居へ自動で転送してくれる。親が何か送ってきても大丈夫なのだ。

そうして僕は退去した。

ある日、母からメールが来た。

「東京に旅行に行ってきたの。お土産送るわね」

お土産。なぜ送る。直接会ったときに渡せばいい。わざわざ郵送する必要などない。

僕は素早く返信した。

「わざわざ送ってもらわなくても、今度そっちに行ったときに受け取るよ」

だが母は、かたくなだった。

「送りたいの。住所教えて」

なぜだ。…考えた。母の立場になって、考えた。

息子はまだあのマンスリーマンションに住んでいるだろうか。時間が経って、少し疑惑が芽生えてきた。郵便物が届くかどうかで、確かめられる。

そう思っているのかもしれない。

悪魔の考えることはわからない。でも、そう考えても不思議ではない。

ここでこれ以上郵送を断れば、かえって疑惑を大きくすることになる。

「わかった。楽しみに待ってるよ」

そう返した。打ちながら、指先が少し震えた。

父にメールした。

「母さんから聞いたよ。お土産送ってくれるんだってね。ありがとう。いつ送るのかな?」

白々しいとは思いながら、探りを入れた。

「今日これから送るって言ってるぞ」

今日か。

頭の中で、郵便物の流れを追った。母が住むB区の郵便局から集荷され、その後、僕が住むA区の集荷郵便局に届き、さらに配達郵便局に移って、それから配達される。

転送届は出してある。届け出通りに動いてくれれば、新居に転送されるはずだ。

そう。そのはずだ。

でも、本当に転送されるのか。
転送に時間がかかって、その間に母から「届いた?」と連絡が来たら…。
もし転送処理がされずに、住所不明で返送されたら…。

そうなれば、待ち受けるのは地獄だ。

考えれば考えるほど不安が膨らんだ。

郵便局に取りに行けないか。

集荷郵便局に届いた段階で、窓口受け取りができないか。確証はない。でも、行ってみる価値はある。

翌日、僕は郵便局の窓口へ出向いた。

「昨日、B区に住んでいる両親が郵便物を送ったそうで、僕が今日からしばらく不在にするので、こちらに届いていれば受け取りたいのですが……」

差出人の住所と名前、マンスリーマンションの住所を伝えた。

「少々お待ちください」

局員が奥に引っ込んだ。

待った。

カウンターの前で、僕はただ立って待った。窓口の向こうで、局員が何かを確認している気配がする。他の窓口では、別の客が淡々と手続きをしている。

時間が、妙にゆっくり流れた。

(もしここで「ございません」と言われたら)
(もしここで「引き取りはできません」と言われたら)

転送を待つしかない。

でも転送されなかったら。
返送されたら。
母が「なぜか返送されてきたわよ。ねぇ、どういうこと?」と連絡してきたら。

「お客様」
僕はハッとした。局員が戻ってきた。

手に、小さな茶封筒を持っていた。

「こちらでしょうか」

封筒の差出人欄に、見慣れた文字で母の名前が書いてあった。

「これです。ありがとうございます!」

身分証明書を差し出し、受け取った。

車に乗り込んで、封筒を開けた。

お菓子が一袋入っていた。
ポテトスナックだった。

「こんなもので…!」

思わず声が出た。

でも、冷静になって考えると、だからこそ怖い。

お菓子一袋だから、わざわざ郵送したのか。それとも、郵便物が届くかどうかを確かめるために、お菓子を口実にしたのか。

ん?茶封筒の底をよく見ると、厄除けのお守りが入っていた。
これはなんだ?

僕の厄が近いから同封したのか?

内容物の意味はわからない。
だが郵送の行為の意味はわかっている。

僕には確信があった。

絶対に、試したのだ。

脳裏に、母の顔が浮かんだ。悪魔のような笑みを浮かべて、郵便物がどうなるか待っている顔が。

僕は負けなかった。僕はこの勝負に勝ったのだ。

あえて翌日、メールを送った。

「お土産無事届いたよ。パッケージがかわいいね」

送信ボタンを押してから、窓の外を見た。

本当の悪魔は誰なのか—母なのか、それとも母を騙し続けている僕なのか。

その答えは出なかった。

5-2 年賀状

年賀状離れが進んでいる。年末になると、毎年そんなニュースを聞く。

だが僕の両親は、まだ年賀状を出し続けている側の人間だ。

そしてこの年末は、マンスリーマンションを退去して初めての年末年始を迎える。

親が僕あてに年賀状を出されたら、また転送問題が浮上する。なんとかして阻止できないか。

父にメールした。

「年始にそっちに行こうかと思うんだけど、いつがいいかな?あとさ、どうせ会うんだから、年賀状はわざわざ出さなくていいよ」

返信が来た。

「いつが空いてるか母さんに聞いておくよ。年賀状はついでだから出しておくよ。一通増えても減っても変わらないから」

そういうことじゃないんだよ父さん。

年賀状が転送されなかったら、どうする。
返送されたら、どうする。
あなたの今の平穏な生活も、再び揺らぐことになるんだぞ。

でも、そんなこと言えるわけもない。

それに最近の父は、どこかよくわからなくなっている。子供が生まれたことを知っているはずなのに、その後一切触れてこない。「子供は元気か」の一言もない。一過性全健忘のあの日に、やはり一連の記憶が消えてしまったのだろうか。

親の年賀状を止めることは諦めた。お土産のときと同じで、あまり固執しすぎると、かえって疑惑を深めることになる。

現状を受け入れるしかない。
その上でどう対処するかーだ。

転送届は出してある。年賀状も対象だ。問題なく転送される、はずだ。

ただ、「はずだ」という言葉が、年末が近づくにつれて、どんどん頼りなく思えてきた。

配達される前に郵便局の窓口で回収できないか。先日の荷物のときのように。

そんな対応聞いたことがない。あのときだって、窓口の局員の判断でたまたま渡してもらえただけかもしれない。

でも、行ってみなければわからない。断られたらその時だ。

先日と同じ郵便局の窓口に向かった。

「先日、B区に住んでいる両親が年賀状を送ったそうで、僕が今日からしばらく不在にするので、こちらに届いていれば受け取りたいのですが…」

局員が少し困ったような顔をした。

「申し訳ございません。年賀状を事前にお渡しすることはできかねますので、転送届を出されていれば、転送されるのをお待ちください」

「…そうですよね。わかりました。ご迷惑おかけしました」

(そりゃそうだ。年賀状を年が明ける前にもらえるわけないよな)

もう術がなかった。転送されるのを待つしかない。


元旦。

妻が子供の着替えに手を取られている隙に、郵便ポストを確認しにいく。

数枚の年賀状が入っていた。一枚ずつ確認する。

ない。
親からの年賀状がない。

転送には時間がかかるのかもしれない。それだけのことだ。そう自分に言い聞かせた。

1月2日は配達がないから、3日に届くのだろう。

1月3日。午前11時。

この日は朝から、妻と子供と近所のショッピングセンターへ買い出しに行っていた。家に車を停めると、妻は子供を抱えたまま玄関に入る。郵便ポストには目もくれない。

僕はポストを開けた。

数枚年賀状が入っていた。

だが、ない。
今日も、ない。

おかしい。転送にこれほど時間がかかるものか。あるいは、年賀状を出すのをやめたのか。出そうと思っていたけど、やっぱりやめた、とか。

いや、でも父は「出しておくよ」と言っていた。

1月4日。

妻は実家に行った。夜は妻の実家での集まりがあるが、昼は久しぶりの一人の時間だった。

午前11時。ポストを開けた。

やはり、ない。
三日連続で、ない。

本当に転送されているのか?そもそも、出したのか?

そんな考えが頭をぐるぐると回り始めたとき、スマホが震えた。

父からのメールだった。

「年賀状が住所不定で帰ってきたけど…俺が住所間違えてたかな?」

な!?

全身から血の気が引いた。

転送されずに、返送されただと?

4日間待ち続けた年賀状は、転送されるのではなく、差出人のもとへ戻っていたのだ。

僕はすぐに郵便局へ電話した。

「転送届を出しているのに年賀状が転送されなかったんですが、どういうことですか!?」

「詳細はわかりかねますが、転送がされなかったことについては申し訳ございません」

怒りが込み上げてきた。でも電話口の局員は悪くない。声のトーンを抑えながら、丁寧な言葉を選んだ。それだけで精一杯だった。

電話を切って、父にメールした。

「郵便局に電話したよ。手違いで転送されなかったみたい。なんで返送されたのかはわからないけど、そういうことみたい」

とにかく弁明だ。原因を郵便局の不手際に見せるしかない。

しばらくして、父から返信が来た。

「いや、俺の書いた住所が違ってないか?という確認なんだけど…」

住所?

父からのメールを読み返した。確かに父は、息子がそこに住んでいないのでは?という疑惑を持ったわけではなく、ただ自分が住所を書き間違えたのではないか?を確認しようとしていた。

「住所は……A市A区東山一丁目1の1…」

マンスリーマンションの住所を、恐る恐る返信した。

「あ、やっぱり住所間違えてたわ。A市A区東谷1-1にしてた。そりゃ返送されるわ。ごめん」

は?

住所を、間違えていた?

郵便局の問題ではなかった。転送届の不備でもなかった。

父が、住所の町名を書き間違えていただけだった。

僕の4日間の心配は。郵便局への問い合わせは。新年早々の胸騒ぎは。

なんだったのか。

「なんて迷惑な」

思わず声が出た。

でも次の瞬間、力が抜けた。

しかし、よかった。

本当によかった。

スマホを置いて、天井を見上げた。

父は記憶をなくしたのだ。一過性全健忘を起こしたあの日。僕の住所も。僕の子供のことも忘れたのかもしれないな。

もうその方がいいのかもしれない。
父母、両親の前では、「独身」という仮面を被って演じ続けてやるのだ。どちらかが果てるまで続くことを覚悟してー。

5-3 祖母の葬儀

さらに時は過ぎ、半年後。

母方の祖母が亡くなった。92歳。老衰だった。

母からのメールで知った。最近は会えていなかったが、中学生の頃まではよく世話になった。葬儀には出なければならない。親戚一同が集まるリスクを背負ってでも、だ。

頭の中で、状況を整理した。

母は世間体を気にして、僕が離婚したことを親戚には話していない。実際にはもちろん離婚などしていないのだが。

つまり、両親と妹の前では、僕は独身。親戚の前では、僕は既婚者。

本当の僕は既婚者だけど、両親と妹には独身の仮面を被り、親戚には既婚者として話を合わせる。

このねじ曲がった構造で、当日行われるであろう会話を考えるだけでも気が重い。

でも、葬儀を欠席する方がよほどおかしい。何かの火種になりかねない。

再び、正念場だ。

出発前に、いつもの準備をした。

まず、結婚指輪を外す。僕は普段、指輪をつけている。妻と約束したわけではないが、自然とそうなっていた。だから両親に会うときは必ず外さなければならない。

次に、マンスリーマンションの住所を頭に入れ直す。郵便番号から、町名、番地まで。自分が住んでいない住所を空で言えるようにする、という奇妙な作業だ。葬儀では住所と名前を記帳しなければならない。スマホを見ながら書いていては不自然極まりない。

財布をカバンではなくポケットに入れる。免許証には本当の住所が記載されている。万が一、誰かに盗み見られたら終わりだ。

鏡を見た。深呼吸をした。

よし。僕は独身だ。

仮面を、静かに被る。

「行ってくるよ」と陽菜に一言残して家を出た。
左手の薬指を、心なしか隠しながら。

妻はもちろん葬儀には参列しない。僕の両親には一切関わらないとしているからだ。それでいいと僕は思っているし、両親は離婚していることになっているのだからなおさらだ。親族の中には、妻が参列してないことに不思議に思うかもしれないが、体調不良で…と言っておけばよい。

車を走らせる。

この車は結婚する前から乗っているSUVだ。もう十年以上になる。陽菜からもそろそろ買い替えようと言われている。子供もできたし、ファミリーカーがいいだろう。

しかし問題が一つある。
ナンバープレートだ。

実家もマンスリーマンションも、A県A市だ。でも今の家はB県B市になる。車を買い替えれば、ナンバーの地域名が変わる。A県に住んでいるはずの独身の僕が、なぜB県ナンバーの車に乗っているのか、という話になる。

つまり、新車で両親の前に現れることができなくなる。

ふぅ。…やれやれだ。
悩みの種はつきない。

今日はまだA県ナンバーだから、堂々と乗っていける。それも近いうちに終わりになるな、と思いながら、アクセルを踏んだ。

葬儀場に着くと、中国からこの日のために帰国した妹がすでにいた。

母とも入口で合流し、中へ入る。

最初の関門の受付だ。

最近は記帳もデジタル化されており、電子端末に入力する形になっていた。僕は暗記したマンスリーマンションの住所を、画面に打ち込んだ。

背後に、気配を感じた。

母だ。

さりげなく、僕の入力画面を覗き込んでいる。確認している。まだ疑っているのか。

まぁ、いい。これで、やはりあそこに住んでいると改めて納得してもらえればいい。僕は表情を変えず、淡々と入力を終えた。

そして、葬儀は滞りなく執り行われた。

親族が集まっての雑談では、取り立てて問題になるような会話はなかった。強いていえば、叔父に「子供はまだか、親に孫の顔を早く見せてやれ」と言われたくらいだ。

もうとっくにいますよ、心の中だけでつぶやく。

愛想笑いをして、その場をやり過ごした。

火葬も終わり、解散となった。

その帰り際。

母が僕に近づいてきて、言った。

「いとこの奥さんが泣いてたでしょう。おばあちゃんのために涙を流してくれて、ありがたかったわ」

何が言いたいー。

言葉の裏を、すぐに読んだ。匠の妻だった、あの人はそれに値しない、ひどい女だった、そう言いたいのか。

カタカタ……。

心の奥底で、何かが揺れる音がした。蓋が、浮き上がりかけている。

母が続けた。

「あなたも、早く良い人を見つけなさいよ」

ガタッ。

抑えられない。研ぎ澄ましてきた刃が、母に向かおうとする。
(自分の孫を殺した殺人者がよくも、のうのうとそんなことを言えるな!!??)

こらえろ。深呼吸だ。

ここで母を罵倒したところで、自分には何の得にもならない。陽菜のことを、この場で叫んだところで何も変わらない。僕が守るべきものは、この場をしのぐことだ。

息を、ゆっくりと吐いた。

そのとき、妹が近づいてきた。

「明日にはまた中国に帰るから、いま言うんだけど…」

妹が、少し改まった顔をしていた。

「子供が出来た」

「「な!?」」

僕と母が、同時に絶句した。

顔を見合わせた。それから、お互いに妹を見た。妹はまっすぐ立っていた。覚悟を決めた顔をしていた。

明日には中国に帰る。そのタイミングで告げる。ずるいな、と思った。でも同時に、そうするしかなかっただろうな、とも思った。

1年以上前、カフェで「毒親」という言葉を教えたあの日の妹の顔が、頭をよぎった。

あいつなりに戦い方を見つけたのかもしれない。

母が動揺している姿を見て、僕の蓋の揺れが少し静まった。

5-4 孫の誕生

妹は、旦那さんの会社の本社がある近くにアパートを借り、日本で子供を産んだ。中国で産むことに不安があったらしい。

旦那さんは中国勤務を続けながらも、会社が事情を組んでくれたようで、本社出張という名目で日本に度々帰国していた。

そして驚いたのは、子供が双子だったことだ。

両親からすれば、いきなり2人の孫ができたことになる。

ずっと、心の中で願っていたことだった。僕の子供を両親に見せることは叶わない。このままでは、両親は孫には一生会えない。だから、妹に子供ができれば、正式に両親に孫ができる。それでいい。それがいいと、ずっと思っていた。

とうとう、その日が来た。

妹もしばらくは実家で母の助けを得ながら暮らすのだろう。

これで、僕の存在は親の頭から薄れていく。平穏な日々がようやくやってくる。両親からの連絡も、しばらくはなくなるだろう。


平穏な時間というのはあっという間に過ぎ、妹の子供が生まれて1年が経った。

暖かくなり、春の訪れを感じ始めていた頃、父から連絡があった。

父方の祖母が亡くなった。
2年前は母方で今年は父方か。

2年ぶりに家族が集まった。こういうときくらいしか家族全員がそろわないのも悲しいものだ。妹の子供は今日は旦那さんに見てもらっているという。1歳になったとはいえ、双子の世話は想像以上に大変で、葬儀が終わったらすぐ帰るつもりだそうだ。

そうか、そりゃそうだよな。子育ては一人でも大変だ。それが二人分なら、毎日が大戦争だろう。

「実家には何ヶ月いたの?」

興味本位で、妹に聞いた。

「一日もいないよ」

「え?」

「子供が生まれたら一ヶ月程度は実家にいるんじゃないの?普通は」

「普通はね」

その「普通はね」という言葉が、妙に心に引っかかった。

「普通じゃないことは知っているが…まさか」

「家に来られても迷惑だから、来ないでってお母さんに言われた」

唖然とした。そんなことがあるのか。

妹は、初めての子育てが、しかも双子で、親の手を借りることもできずに一人で乗り切ったということだ。事情があって一人で育てないといけない人は世の中にはいるだろう。でも母は、妹のアパートの割と近くにいて、病気をしているわけでもない。特別な事情があるわけではない。

ただ「迷惑だから」という理由で、それを拒んだ。

妹は元保育士だ。その経験があったから乗り越えられたのかもしれない。でも、相当に壮絶だったようだ。旦那さんの協力をなんとか得ながらも、ノイローゼになりかけたという。

母の考えていることが、わからなくなった。どの顔が、本当の顔なのか。

僕はもしかすると、仮面をつけた母しか知らず、素顔をいまだ見たことがないのかもしれない。

素顔はきっと、想像を絶する悪魔だ。素顔を見通せるメガネでも売ってないだろうか。僕はそう思った。

第六章 仮面

6-1 安定

あれから、5年が経った。

「あれ」とは、「子供を堕ろせ。離婚しろ」と言われた、あの一連の騒動だ。あのときは心が不安定で、毎日生きた心地がしなかった。仕事も手につかなかった。

『安定』

僕はいつしか、何よりもこの言葉を重視するようになっていた。仕事に打ち込めるのは、心の安定があるからだ。親との関係、妻との関係、子供との関係。全てが良好であることが、安定につながる。不倫なんて、もってのほかだ。これ以上、仮面を増やしたくない。バレたときのことを考えるだけで身震いする。全ての嘘やごまかしが見破られないとは限らない。常にリスクと背中合わせの生活だ。

問題というのは、どこで勃発するかわからない。親の介護問題が起きるかもしれない。子供が学校で何かを起こすかもしれない。自分以外の要素で生じることが多いのに、わざわざ自分から火種を作るなんて考えられない。不倫は、自分の意思次第で完全に避けられるリスクだ。

そんな自分の考えが、5年かけて形成されていった。傍から見れば、いい夫なのかもしれない。でも僕は、自分が仮面生活を送っているという意識を、頭のどこかに常に抱えている。両親には独身の仮面を。妻と子供にはパパという仮面を。

たまに思うことがある。

我が子にとって、僕の両親、つまりおじいちゃん、おばあちゃんを知らないまま育っていくのは、どうなのだろうか。

5歳になった娘は、小学校に上がれば、いずれ疑問を持つだろう。

「パパのおじいちゃん、おばあちゃんはいないの?」

娘には、僕の両親の存在を全く話していない。知っているのは、陽菜の両親だけだ。この不自然さに、娘がいつか気づく日が来るだろう。いや、すでに気づいていて、ただ口に出していないだけかもしれない。

自分の両親に、我が子を、孫を会わせないでいいのか。そう、ふと思うこともある。どこかのタイミングで、全てをカミングアウトしてもいいのではないか。

どこかのタイミング、とは、どこのタイミングだ?

答えは出ない。いつも出ない。

離婚騒動から5年が経ち、両親は穏やかに暮らしている。もう、僕がマンスリーマンションで独身生活をしていることに疑いを持たなくなった。僕がボロを出さなければバレることはないだろう。

誰かが死ぬまで、この生活は続くのか。

続ける自信はある。

ただ、それでいいのだろうか、と思う時がある。

あと5年。騒動から10年経てば、様々なことが思い出として語られるようになるだろう。10年はあっという間のようでもあり、振り返れば遠い昔のようでもある。

少なくとも、あと5年は、この仮面生活を続けよう。

親が子供に望むことは何か。それは人それぞれだろうが、たいていの親は「子供が健康に生活していること」を望んでいる。

裏を返せば、両親にそれを感じさせることが重要だ。

離れて暮らしていれば、親はふと思うだろう。我が子は風邪をひいていないか。ご飯をちゃんと食べているか。子供がいくつになっても親子関係は変わらないのだ。だから定期的に連絡する必要がある。

自分から両親に連絡することにはストレスを感じる。それでも安定な生活を守るために、定期的に連絡を入れた。

母の日。父の日。母の誕生日。父の誕生日。記念日のたびに連絡をし、場合によっては一緒に食事をする。

さらに1年が経過し、騒動から6年経った年。
母の日と父の日を合わせて、両親と中華料理のコースをご馳走した。

会話は基本的に世間話だった。仕事の様子、テレビの話題、近所のスーパーが改装したこと。

ただ、たまに母の一言が、僕の胸をざわつかせた。

「良い人はいないの?」

良い人。つきあっている人、結婚を考えている人はいないのか、ということだ。

「いないよ」

僕は冷静に返した。でも、心の中は穏やかではなかった。

(どの口がそれを言う)

(自分が言ってきたこと、してきたことを、わかっているのか)

(子供を堕ろせと言った。つまり、殺人者なんだぞ)

(その罪を、ちゃんと背負っているのか)

そのたびに、深呼吸をした。蓋が外れないように。誰もが心の奥に飼っているものを呼び起こさないように。

誰しも殺人鬼になる可能性を秘めている。
母は、あの夜、確かに殺人鬼だった。

でも、もういい。

この穏やかな時間が、ずっと続くなら、これでいい。

中華料理のランチコース。三人で2万4千円。

レジで支払いながら、僕は心の中でつぶやいた。

「このお金は、安定を買っているんだ」

6年前のあの日、お金で安定が買えるなら、何だって買いたかった。今は、お金でそれを買えている。そう思えば、決して高くはない。

店を出て、両親と駐車場で別れた。母が手を振った。父が、軽く頭を下げた。

車に乗り込み、シートベルトを締めた。

エンジンをかけながら、ふと思った。

この生活は、本当にあと4年で終わるのだろうか。

それとも、終わりなど、やはり存在しないのだろうか。

6-2 車

僕に2人目の娘が生まれた。

もちろん親は知らない。妹も知らない。
長女が生まれてから6年経った。不妊治療を経てようやく授かった2人目だ。

そしていよいよ車をファミリーカーに買い替えた。つまり、これからは車で親の前に行くことができなくなる。車ではなく電車で行くしかない。実家のあるA県A市は公共交通機関が充実していて、電車でも不自由はない。

ただ、急に電車で行くようになると不自然さは否めない。

会社の帰りだから…、どこかへ寄った帰りだから…。そんな理由をつけて、実家に行くようにした。

離婚騒動から8年経った年。
大阪・関西万博が開催された。

僕も興味があって、陽菜と娘たちを連れて行きたいと思っていた。そんな矢先、両親も行きたいと言い出した。

両親も68歳になった。足腰がそれほど強くなく、軽い気持ちで出かけるのは難しくなっている。1970年の大阪万博には子供の頃に行ったらしい。だからこそ、もう一度大阪の万博を見ておきたい。その気持ちは、わからないわけでもなかった。

僕にはもう車がない。車が故障していると言い訳をし、親の車で行くことになった。運転は僕が引き受けた。会場まで車で3時間ほど。

ここで気をつけなければならないことがある。

絶対に事故を起こしてはいけない。違反をしてはいけない。
当たり前といえばそうなのだが、僕の場合はもちろん違う事情だ。

なぜなら、もし事故や違反をすれば、親の前で免許証を出すことになる。本当の住所がバレてしまう。警察に、もう住んでもいないマンスリーマンションの住所を言うわけにはいかないからだ。

家を出る前に、いつもの儀式をした。結婚指輪を外す。マンスリーマンションの住所を頭に入れ直す(親にいつ聞かれても即答できるようにだ)。免許証の入った財布をポケットに入れる。最後に鏡の前で、深呼吸。

よし。今日は安全運転だ。
そんな当たり前なことを誓う。

陽菜に行ってくると告げ、電車で実家に向かった。

そして父の車に乗り込み、両親を乗せて万博会場へ向かう。とにかく安全運転。それが今日の全てだ。

車内では、いつものくだらない世間話が続いた。

「今日はごみの日だけど、出してきたの?」

A市のごみの日など忘れていた。それでも咄嗟に話を合わせた。

「あぁ、出してきたよ」

つまらないアドリブ力が、この数年で随分と上達したものだ、と自分でも思う。

自炊してるの?掃除はしてるの?親が子を心配する、いつもの会話が続く。そして最後はいつも同じ場所に落ち着く。

「良い人はいないの?」

落ち着け。今日は安全運転だ。心を取り乱すな。
僕は気づかれないように深呼吸した。

会話は、いつしか妹の双子の話になった。

双子は3歳になったそうだ。たまに実家に遊びに来るらしいが、ばあちゃんには全くなつかないという。母が近づくと、二人とも泣き喚くらしい。

「なかなか人見知りが強いみたい」

母は、少し寂しそうにそう言った。

本当に人見知りなのか。

僕はずっと欲しかった「親の素顔を覗き見るメガネ」を、双子が持っているのではないか、とふと思った。

笑顔の裏に隠された、もう一つの顔。誰も見えない母の顔を3歳児が見えている。あるいは理屈では説明できないものを、肌で感じ取っている。

人見知りではなく、防衛本能なのかもしれない。
悪魔からの防衛本能だ。

そんなことを考えているうちに、車は万博会場の「パークアンドライド」専用駐車場に着いた。

会場では、足の悪い両親のために歩行補助具を借りた。乳母車の少し格好いいタイプといったらイメージしやすいだろうか。母は「車椅子に乗るほどではない」と言い張り、歩行補助具に落ち着いた。

万博は、控えめにいって最高だった。スタッフのホスピタリティに溢れた空間で、両親と一緒でも十分に楽しめた。妻と子供たちと来ていたら、もっと違う楽しみ方ができただろう。それでも、悪くない一日だった。

帰りの車も、安全運転を貫いた。何事もなく実家まで戻った。違反をして免許証を見せることもなかった。

今日いちばんのミッションは、無事に達成されたわけだ。

両親はよほど楽しかったのか、半年経っても万博の思い出を繰り返し話した。最高に楽しかった、と。

連れて行ってくれて、ありがとう。そう言われる。

あの離婚騒動から、もう8年が経つ。両親にとっては、すでに遠い記憶になっているのかもしれない。

僕も年を取った。40代も中盤だ。両親としては早く結婚してほしいと思っているだろう。

—もしかしたら。

子供を堕ろさせたこと、離婚させたこと。

母は、後悔しているのかもしれない。

そうだとしたら真実をカミングアウトしても大丈夫なのではないか。

そんな思いに、ふと駆られる。

でも、すぐに打ち消した。

ーそんな賭けはできない。

僕の希望的観測における幻想だ。両親は後悔などしていないのだ。あの夜の出来事を僕は一生忘れない。あの目を一生忘れない。

僕はなんて親不孝な息子なんだろう、と思う。僕もきっと、そのうち報いを受けるのだろう。

でも、それでいい。

それで、みんなが平穏に暮らしているなら、それでいいんだ。

人生って、そういうものだろう。

6-3 終活

離婚騒動から、9年が経った。

僕は2人の子育てに追われ毎日忙しく過ごしていた。そして、たまに届く父や母からのメールに返信する、という日々が続いていた。

数年前は、両親からメールが来るだけで心臓を鷲掴みにされるような感覚があった。でも今は、そこまでのストレスは感じなくなっている。

母の日が終わった、5月の下旬。母からメールが届いた。

「タンスを処分したいんだけど、いい方法ない?」

タンスとは、僕が生まれたときから実家にあった、着物を入れる昔ながらの和タンスのことだった。もう使っていないし、捨てたいという。母の嫁入り道具だったらしい。どうして昔のものは、こうも図体が大きくて重いのか。だから長持ちしているのかもしれないが。

とにかく、気軽に運べるものではない。

「業者に処分してもらったら?」と返した。

「処分されるのを最後まで見届けたい」

「どういうこと?」

「地域の環境事業所に届け出をして、指定の破砕工場へ持っていきたい」

お好きにどうぞ。心からそう思った。それに僕を巻き込まないでくれよ。

とはいえ、父はもうかなり認知症が進んでいて、フットワーク軽く動いてはくれない。結局、息子に頼るしかないという話になる。

タンスを運ぶ軽トラックはレンタカーできるとしても、家から運び出して荷台に乗せる作業をどうするか。男手は、僕と父しかいない。僕も40代中盤、腰が痛い年頃だ。無茶はできない。父はもう69歳だ。

「妹の旦那さんに手伝ってもらえないのか?」

「そこに協力を頼むのは嫌だ」

なんだそれは。妙なところにこだわりがあって話が進まない。

結局、運搬だけを頼める便利屋を探し、なんとか母を説得した。

「じゃあ、来週の月曜日の朝にお願いしたいわ」

いや、今日は金曜日だぞ。3日後だ。

便利屋が都合よく空いているかわからない。母は昔から日柄を気にする。大安のような六曜だけでなく、もっと細かい運勢も見ているらしい。僕には理屈がわからないが、とにかく面倒だった。

それでも、なんとか業者を見つけ、日程を調整し、タンスを無事に処分した。

全てが終わって実家のリビングで休んでいると母が言った。

「ホント、助かったわ」

それから、少し改まった声になった。

「私はね、終活しているの」

「終活…」

「そう。子供たちに迷惑がかからないように、処分できるものは処分しているのよ」

迷惑、ねぇ。

すでに十分迷惑をかけられたんだけどな、と思った。でも口には出さなかった。

母には姉と弟がいて、三姉弟だった。祖母が亡くなったあと、相続でかなり揉めたらしい。それ以来、会っていないし、もう会うこともないという。仮に誰かが亡くなっても、葬儀には行かないつもりだ、と母は言った。

きょうだいの関係も、もう処分したというわけか。

それも終活の一部なのだろうか。

しばらく、母の横顔を見ていた。
母は1人だ。ふとそんな風に思った。

人は死ぬとき、何を思うのだろう。

自分が積み上げた仕事の成果だろうか。
稼いだお金や、残した貯金額だろうか。

僕は死の間際に立ったことがないから、本当のところはわからない。

でも、たぶん、自分が一緒に過ごしてくれた人たちの顔を思い浮かべるのではないか、と思っている。妻、子供、親友、仕事仲間、世話になった人。思い浮かべる人の数だけ、自分は幸せだったと言えるのではないか。

関係を断ち切っていくことが、終活なのか。それはわからない。もしかしたら、母の生き方が正解なのかもしれない。

でも、僕はやはり、多くの人に感謝を伝えて、できればおこがましくも感謝を言ってもらって死んでいきたい。

自分が病に倒れて、歩けなくなったとしても誰かが会いに来てくれる。それほど幸せなことはないと思う。それだけで感謝しかない。

そんな人生を歩んでいきたい。

帰り道、駅まで歩きながら僕はずっとそのことを考えていた。

母にとっての「処分」と、僕の中にある「いつか終わらせたいもの」は、似ているようで、まるで違う。母は関係を断つことで身軽になろうとしている。僕は、断ち切られた関係を、本当の形に戻したいと思っている。

いつかこの仮面生活を、終わらせたい。

来年は、離婚騒動から10年になる。

どこで終わるかはわからない。父が本当にすべてを忘れてしまう日が来るのかもしれない。母がこの世を去る日が、先に来るのかもしれない。あるいは、僕自身が、ある日突然、全てを話してしまうのかもしれない。

終わるべきときに、終わるのだろう。

そう、自分に言い聞かせた。

家に着いて、玄関を開けた。長女が僕に駆け寄ってくる気配がした。陽菜の声が、キッチンから聞こえてくる。

僕は静かに、仮面を壁にかけた。

「ただいま」

エピローグ


「ただいま」

玄関のドアが閉まり、匠の声がする。彼がゆっくりと息を吐き出し、「仮面」を壁にかける気配がした。

わたしはキッチンから顔を出し、いつものように微笑む。
「おかえりなさい。お疲れ様」

匠は、本当に不器用で、愛おしい人だ。

しかし、彼はずっと勘違いをしている。そのことに気づいていない。

毎月6万円の自腹を切ってマンスリーマンションを借り、わたしの見ていないところでこっそり結婚指輪を外し、両親に独身男性を演じることで、毒親という「怪物」からわたしたち家族を守り抜いていると、匠は信じている。

でも、少し考えればわかるはずだ。実の息子に包丁を向け、「子供を堕ろせ」と狂気を剥き出しにしたあの執念深い母親が、役所に出すことのなかった偽装離婚届とすぐ解約したアパートの存在だけで8年間もおとなしく引き下がるわけがないということに。

あの怪物を止めたのは、匠の「仮面演技」のおかげではない。

マンスリーマンションの契約書、出されることのなかった離婚届、パソコンの中には準備された中絶証明書、偽装住民票の作りかけのデータ。それらを匠の部屋で偶然発見したわたしは、いま何が起きているか全て悟った。

わたしの愛する匠が、このままでは一生苦しむことになる。わたしが助けなければならない。どうするか。わたしの心の奥にある蓋がガタガタと鳴った。あの夜の出来事が昨日のように脳裏に浮かぶ。わたしの前でテーブルを叩き、憤るお義母さん、いきなり詰め寄ってきた妹。何も言わないお義父さん。

全て!全員殺してやる!わたしの殺人鬼が顔を出した。

そう思っていた矢先の出来事だった。

あれは8年前。匠が暗い家の中で息を潜めていた、あの日。忘れ物を取りに、実家に子供を預けて家に戻ろうとしたわたしは、土砂降りの雨の中、わたしたちの新居のドアを狂ったように叩くお義母さんの背中を見つけた。

わたしの中の、殺人鬼が動き出す。

わたしは足音を忍ばせて後ろから近づき、彼女の耳元でこう囁いた。

『次、わたしたちの生活を脅かしたら、まずお義父さんを殺す。そしてあなたを生きたまま解体して、あなたの家にある古い和タンスの中に、少しずつ詰め込んであげる』

お義母さんが振り返ったときの、あの真っ青な顔。恐怖で声も出せず、雨の中でガタガタと震えるだけの老婆。わたしの仮面の中の殺人鬼でも見えたのかしら。

車で待っているお義父さんはぐったりしている。
『大丈夫。さきほど、とりあえず意識を飛ばしただけ。死んではいない』

わたしはお義母さんの顔に果物ナイフを近づけた。
『今日のところは帰りなさい』

あの日以来、わたしは彼女を脅し続けた。

わたしがどれほど本気だったか。それを証明するため、わたしは数日後にお義父さんに接触し、わたしの中にいる「殺人鬼」の狂気と、お義母さんをどう支配していくかという計画の全貌を告げた。お義父さんは、その強烈なストレスと恐怖に耐えきれず、数か月後コンビニの駐車場で一時的記憶を飛ばしていたと匠から聞いた。一過性全健忘だとか。脳が限界を超え、自己防衛のためにわたしをシャットダウンしたのだ。

その後、お義母さんが送ってきた茶封筒と安っぽいポテトスナックは笑えた。厄除けのお守りまで入っていたという。あれはわたしへの当てつけか?息子に、気をつけろというメッセージか。いずれにしても、あの行為はわたしの怒りをさらに買った。

妹の芽依ちゃんが出産したとき、お義母さんが「迷惑だから来ないで」と頑なに可愛い孫を拒絶したのも当然だ。わたしがそう命令したからだ。

『あなたは匠の子供を殺した。祖母になる資格はない。もし芽依の子供を抱いたら、あなたたちを終わらせる』と。

そうすれば自然と妹も葬ることが出来ると考えていたのだが、妹はノイローゼにならなかった。意外にタフだったのは、わたしの計算外だった。

きょうだいとの縁を切る「終活」も、すべてわたしの指示通り。お義母さんはただ、孤独と恐怖の下で生かされている。

そして先日、お義母さんがついにあの和タンスを処分したいと言い始めたと、匠から聞いた。業者の破砕工場まで自ら出向き、タンスが粉々に砕かれるのを最後まで見届けたいそうだ。

わたしから逃げようとしたのだ。そして先ほどお義母さんに連絡した。
『これで終わったと思うな。あのタンスの次は、お前だ』と。

彼女はこの8年間、毎日怯えていたのだ。いつか自分が肉塊にされ、あのタンスに詰め込まれる悪夢に。タンスを完全にこの世からなくしたかったのだろう。完全に破砕したくなったのだろう。夜も眠れなかったに違いない。だが、今度はあのタンスのように彼女を粉砕してやる。

「今日のご飯、何?」

着替えを終えた匠が、無邪気な顔でリビングに入ってくる。

「今日は匠と子供たちが好きなハンバーグよ」

わたしはとびきりの笑顔を向ける。

愛情という大義名分を振りかざした怪物は、もういない。誰もが心に殺人鬼を飼っている。匠は一生懸命その蓋を閉めようとしているけれど、わたしは違う。わたしはわたしの殺人鬼を解き放ち、あの怪物を事実上、喰い殺した。

この世で一番恐ろしいのは、幽霊でも悪魔でもない。何食わぬ顔でハンバーグをこねている、わたしのような人間だ。匠、あなたは一生気づかなくていい。わたしが被っているこの「完璧な妻」という仮面の裏側に、本物の殺人鬼が微笑んでいることになんて。

ほら、後ろ。あなたにも殺人鬼が迫っている―。

ー完ー

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