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INVERT ROLE 第48話 空隙 ― ベスト8の先へ

7月13日。

ブラジリアの朝は、まだ少しだけ静かだった。
前夜の熱狂は残っている。

PK戦の末にイタリアを破った日本代表。

ホテル周辺には朝から多くの人が集まり、選手たちがロビーへ姿を見せるたびに歓声が上がっていた。

それでも、その中心にいる選手たちの表情は思ったより落ち着いている。
誰も浮かれていなかった。

決勝トーナメントは続く。

そして次の相手はフランスだった。

ホテルを出たバスはブラジリア空港へ向かう。
窓の外を流れる街並みを眺めながら、選手たちはそれぞれの時間を過ごしていた。

遠藤は後方席へ座ると、そのまま目を閉じた。

久保もスマホを見ることはない。
窓の外へ視線を向けたまま、小さく息を吐いている。

川﨑は脚を投げ出すように座っていた。
普段なら誰かと話している時間だった。

それでも今日は違う。

120分。
イタリア戦で走った距離は、誰より長かった。

田村も静かだった。

DOGSO。
退場。

勝利のために必要だったプレー。
後悔はない。

だが、その代償も理解していた。

搭乗後の機内も静かだった。

眠る者もいる。
映像を見る者もいる。

ただ、会話は少ない。
疲労だけではない。

全員が次の試合を考えていた。

フランス。

大会前から優勝候補と呼ばれていたチーム。

日本が優勝候補なら、向こうもまた同じだった。

サルヴァドールへ到着すると、そのままホテルへ向かう。

海の近い街だった。
湿った空気が肌へまとわりつく。

ホテルへ入ると、すぐにリカバリーが始まった。

出場組はジョグとストレッチ。
身体をほぐし、蓄積した疲労を少しでも抜いていく。

その横では控え組がボールを使ったトレーニングを続けていた。

林が声を出す。
菅原がテンポを作る。
小川が狭いスペースへ顔を出す。
西野は前線でボールを収め続けていた。

そして白石は最後尾から全体を見渡しながら、静かに声を飛ばしている。

ここまで出番は違う。
役割も違う。

それでも、ここから先は誰が必要になるか分からない。

リカバリーを終えた午後。

賀喜はメディカルルームに呼ばれていた。

○○と日村、メディカルスタッフが並んでいる。

診断結果そのものは重くない。
だが問題はタイミングだった。

日村:準々決勝は無理だ

賀喜は黙って聞いている。

日村:重傷じゃない。ただ、この試合のために無理をする怪我でもない。準決勝以降を考えるなら休ませる

悔しくないわけがない。
それでも反論はしない。

賀喜は小さく息を吐いた。

ここまで全試合先発だった。

山下の裏を消し続けた。
広い範囲をカバーし続けた。

その役割を理解しているからこそ、なおさらだった。

それでも最後には頷く。

賀喜:分かりました

日村は小さく頷いた。

〇〇:焦るな。仲間を信じろ

賀喜:はい

その返事だけは迷わなかった。

賀喜の欠場が正式に決まる。
ここまで続けてきた形を、そのまま使えなくなる。

日本は、大きな修正を迫られていた。

夜。

ミーティングルームの照明が落ちる。

スクリーンにフランスの映像が映し出された。

イタリア戦の振り返りはない。
もう終わった試合だった。

今見るべき相手は一つしかない。

アルノがリモコンを操作する。

最初の映像は中盤だった。

相手に囲まれる。
それでも慌てない。

ボールを失わない。
視線だけが動く。

次の瞬間、守備ラインの裏へ一本のパスが通った。

映像が止まる。

アルノ:まずルイーズ・モローです

リヨン所属。
フランス代表主将。

池田のチームメイト。

設楽:キャプテンか

アルノ:はい。このチームの中枢です

映像が再び流れる。

一度左へ展開する。
守備が寄った瞬間、今度は逆サイドへ大きく振る。

さらに中央へ縦パスが入る。
次の瞬間には裏へのスルーパス。

フランスの決定機が生まれる。

また別の映像でも同じだった。
気付けば最後のパスの一つ手前には、必ずモローがいる。

アルノ:得点よりも厄介なのはこっちです。全部ここから始まります

池田が少しだけ前へ身を乗り出した。

池田:一番厄介ですね。あの人に前向かれるとフランスの攻撃が始まるので

設楽:そんなにか

池田:そんなにです。私は敵にするならあの人が一番嫌です

映像が切り替わる。
今度はゴールシーンだった。

裏へ抜け出した瞬間だった。
追っていたDFとの距離が一気に開く。

そのままGKとの一対一を沈める。

また別の映像。
今度はカウンターだった。

中央を独走する。
誰も追いつけない。

最後は冷静に流し込んだ。

アメリー・ガルニエ

レアル・マドリー所属。
フランス代表エース。

井上のチームメイト。

設楽:分かりやすいな

アルノ:はい。一番分かりやすく危険です

井上が苦笑する。

井上:ガルニエは嫌になるくらい決めます

レアルで何度も見てきた。
だからこそ分かる。

一瞬の隙で試合を終わらせる選手だった。

今度は右サイドの映像へ変わる。

全力で駆け上がりクロスを入れる。
だが攻撃が終わる頃には、もう自陣へ戻っている。

そして次の場面では、また前線へ顔を出していた。

クレール・デュボワ

PSG所属。
右サイドバック。

蘭世と両サイドバックのコンビ。

映像を見た蘭世が苦笑する。

蘭世:相変わらずだな

飛鳥:まだ走ってる

蘭世:走ってる

池田も頷いた。

池田:リーグで一番嫌でした。抜いても戻ってくるんです

蘭世:戻ってきたと思ったらまた上がる

飛鳥:いつも邪魔なとこにいるんだよな

最後の映像が流れる。

セットプレーだった。

ゴール前へ上がったクロスに飛び込む。
競り勝つ。

また別の映像。

今度は守備側だった。
同じように跳ね返す。

さらに別の映像でも結果は変わらない。
空中戦だけは誰にも譲らなかった。

設楽:壁だな

アルノ:壁です

画面にはマノン・ベルナールの名前が表示される。

マルセイユ所属。
フランス代表CB。

アルノ:空中戦勝率は大会トップです

設楽:面倒だな

アルノ:セットプレーの中心でもありますし、この人だけはクロスを上げたくないです

今大会ここまでで最も強い相手。

それが全員の共通認識だった。

設楽:面倒なのが揃ってるな

アルノ:今大会で一番です

短い沈黙が落ちる。

その中で〇〇だけが少し笑った。

〇〇:だから面白い

視線が集まる。

〇〇:ここまで来て楽な相手なんか残ってない。勝てば四強だ

その言葉に部屋の空気が少しだけ締まる。

〇〇は立ち上がった。

〇〇:やることは変わらない

そう言ってホワイトボードへ向かった。
〇〇は迷わずマグネットを動かす。

4バックだった最終ラインが3バックへ変わる。

部屋の空気が少しだけ変わった。

田村と賀喜がいない。

ここまでの日本は、動きながら整えるチームだった。
だが、その中心にいた二人がいない。

さらに120分の消耗もある。
積み上げた可変を、そのまま再現するには条件が足りなかった。

だからこその選択だった。

〇〇:まずは試合を残せ。最後に一点多く取ればいい

誰も答えない。

だが全員が頷いていた。

フランス。
世界最強候補。

そして日本最大の試練。

その輪郭が、初めてはっきり見え始めていた。

7月14日。

サルヴァドールの朝は穏やかだった。

主力組は軽めの調整から始まる。
強度は上げない。

身体を動かしながら感覚を整える。
ここまで来ると積み上げる練習はほとんどない。

大事なのは失わないことだった。

それでも一つだけ例外がある。
フランス戦で採用する3バックだった。

まだ細かな距離感は揃い切っていない。
それでも全員が集中していた。

林は何度も立ち位置を確認する。

梅澤が横から声を飛ばす。

梅澤:あと半歩中

林:はい

その繰り返しだった。

賀喜がいない。
その事実は消えない。

だからこそ全員が普段以上に細かい。

〇〇も練習を止める回数が増えていた。

距離。
角度。
立ち位置。

普段なら流す部分まで確認する。

設楽:やっぱり簡単じゃないな

〇〇:当たり前だ

設楽:田村もいないしな

その言葉で少しだけ空気が変わる。

賀喜の不在は見える。
だが田村の不在は見えない。

見えないからこそ厄介だった。

久保がボールを受ける。
与田が動き、井上が降りる。

形はできる。
ボールも回る。

だが、それでもどこか少し違った。

今までなら自然に埋まっていた隙間が残る。
誰かが半歩ずれれば、誰かが一歩多く動く。

その違和感を全員が感じていた。

午後。
スタッフルーム。

日村がモニターへデータを映し出す。

イタリア戦は120分。
次は中三日で迎える準々決勝だった。

だからこそ、主力組の状態確認は普段以上に慎重になる。
特に120分フル出場組。

梅澤。久保。遠藤。

日村:この三人は問題なし

設楽:お前ら本当に人間か?

梅澤が苦笑する。
久保も肩を竦めた。
遠藤だけは何も言わない。

日村:ただし

画面が切り替わる。

川﨑だった。

日村:川﨑は消耗が大きい

川﨑は黙って数字を見る。
誰よりも理解していた。

イタリア戦で走ったのは自分だった。
守備で追い、点も取り、延長まで戦った。

日村:フランス戦は無理だ

川﨑:出られます

だが日村は首を振る。

日村:今のお前じゃ走れない

川﨑は言い返さない。

自分でも分かっていた。
イタリア戦で使い切った体が、まだ少し重いことを。

夜。

夕食を終えた食堂に、少しだけ拍手が起きた。

7月14日。
久保の26歳の誕生日だった。

テーブルの中央にはケーキ。
久保は苦笑しながら周囲を見回す。

生田:26歳、おめでとう

再び拍手が起きる。
久保は少しだけ肩を竦めた。

久保:ありがとうございます

山下:なんかもっと前から26歳みたいな顔してる

久保:どういう意味?

生田:落ち着いてるってことじゃない?

久保:今のフォローですか?

生田:たぶん

小さな笑いが起きる。

大会中だった。
騒ぐほどではない。

それでも、その数分だけは少し空気が柔らかかった。

梅澤:で、26歳の抱負は?

答えは最初から決まっていた。

久保:W杯優勝

今度は誰も笑わない。
部屋の空気が少しだけ静かになる。

梅澤:あと三つ

久保:まだ遠いけどね

そう言いながらも表情は暗くない。

ベスト8。
あと3勝。

その距離だけは、もう誰にも見えていた。

山下:じゃあ、そのためにまず一つ

山下がそう言うと、自然と何人かが頷く。

梅澤:次はフランスだな

久保も頷いた。

久保:うん

それ以上の言葉はない。
もう全員が同じ方向を見ていた。

窓の外では、サルヴァドールの夜景が静かに広がっていた。

7月15日。

準々決勝前日。

サルヴァドールの空は朝から晴れていた。

ホテルを出たバスがスタジアムへ向かう。

窓の外にはすでに多くの人が集まっていた。
大会が進むたびに、日本代表へ向けられる視線も変わっている。

グループリーグを突破したチームではない。
ベスト8まで勝ち上がったチームを見る目だった。

スタジアムへ到着する。
巨大な客席はまだ静かだった。

歓声もない。
フラッシュもない。

ただ、その静けさが逆に試合の近さを感じさせていた。

選手たちはゆっくりとピッチへ出る。

久保は芝を踏みながら周囲を見渡す。
遠藤はゴールを見上げた。
山下は右サイドのスペースを確認している。

そして林は一度だけ深呼吸した。

3バック。

賀喜、田村の不在。
その穴を埋める役割が自分に回ってきている。

公開練習は穏やかだった。

ランニング。
パス交換。
ボール回し。

報道陣が撮影できるのはそこまで。

公開時間が終わると空気が変わる。

〇〇が手を叩く。
選手たちが集まる。

そこから先は非公開だった。

守備確認。
立ち位置。
セットプレー。

そして3バック。

何度も止め、何度も修正する。
特に確認が多かったのは守備への移行だった。

ボールを失った瞬間。

誰が出るのか。
誰が残るのか。
どこを閉じるのか。

フランス相手に曖昧は許されない。

梅澤が声を飛ばす。
山下が位置を修正する。
五百城も何度も首を振りながら距離感を確認していた。

その中で林も少しずつ馴染んでいく。

最初は遅れていた一歩が揃う。

声も増える。
プレーも自然になる。

設楽がその様子を見ながら呟いた。

設楽:だいぶ形になってるね

〇〇:まだ足りない

設楽:そりゃそうだけど

〇〇:明日までに足りればいい

短い会話だった。
だが、それで十分だった。

練習終了後。
選手たちはスタンドを見上げる。

明日にはここが埋まる。

フランス。
準々決勝。

勝てばベスト4。
負ければ終わり。

誰も言葉にはしない。
だが全員が理解していた。

午後。

記者会見場。

フラッシュが光る。
シャッター音が響く。

各国メディアが集まっていた。

〇〇の隣には池田が座っている。

今大会ここまでの活躍。
そしてフランスでのプレー経験。

同伴するなら自然な選択だった。

記者:フランス戦をどう見ていますか

〇〇:簡単な試合にならないから準々決勝なんでしょう

記者:日本は不利だと思いますか

〇〇:ベスト8です

記者が少し首を傾げる。

〇〇:ここまで来たチームに有利も不利もないでしょう

会場に小さな笑いが起きた。

記者:賀喜選手と田村選手がいません。フランス戦はどう戦いますか?

〇〇:出る選手で勝つだけです

続いて池田へ質問が飛ぶ。

記者:フランスでプレーしている立場から見て、この試合は特別ですか?

池田は少しだけ笑った。

池田:楽しみです

記者:優勝候補が相手ですが

池田:だからです

会場に小さな笑いが起きる。

池田:こういう試合のためにフランスへ行ったので

続いて別の記者が手を挙げた。

記者:ルイーズ・モローについてどう思いますか

池田は少し考えた。

池田:普段はチームメイトですけど、試合になったら別です。気付いたら全部あの人から始まってるので、一番嫌なタイプですね

〇〇は何も言わない。
ただ横で小さく頷いていた。

会見終了後。

ホテルへ戻る。

夜。

自由時間になってもホテルは静かだった。

誰も騒がない。
誰も無理に盛り上げない。

緊張とも違う。
恐怖とも違う。

ただ、全員が明日を見ていた。

窓の外では海風が街の灯りを揺らしていた。

明日はいよいよフランス戦だった。

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