見出し画像

INVERT ROLE 第54話 激圧 ― 準決勝ブラジル戦(中編)

0-0。

日本の選手たちは重い足取りでロッカールームへ向かう。

飛鳥は額の汗を拭いた。
池田は息を整える。

久保は無言だった。
梅澤も同じだった。

互いに言葉を探す余裕すら残っていない。

ロッカールームの空気は重かった。

誰も騒がない。
誰も慌てない。
だが余裕もなかった。

汗の匂いとテーピングの音。
誰かが水を飲む音だけが部屋に残っていた。

久保はベンチへ座ったまま俯いている。
呼吸を整えていた。

梅澤も同じだった。

白石だけが静かに周囲を見ていた。

今大会をほとんど外から見ていた分、冷静だった。

久保の呼吸。
梅澤の表情。

2人とも限界に近い。

それが誰よりよく分かっていた。

〇〇はホワイトボードの前へ立つ。

何も書かない。
ただ選手たちを見渡した。

〇〇:押されてるな

飛鳥が即座に返した。

飛鳥:今さらですか

〇〇:そうだな

少しだけ空気が緩む。

〇〇:でも失点してない

部屋が静かになる。

〇〇:何でだと思う

誰も答えない。
ただ全員が顔を上げていた。

〇〇:全員で壊れてないからだ

選手たちの視線が集まる。

〇〇:耐えてるんじゃない。まだ壊れてないだけだ

短い言葉だった。
それでも十分だった。

〇〇:あと45分、先に折れるな

誰も頷かない。
その必要がなかった。

ブラジルも苦しくなっている。
点が入らない限り、まだ終わらない。

後半が始まる。

スタジアムの熱量は落ちていなかった。
むしろ前半以上だった。

黄色の歓声に押されるように、ブラジルが再び前へ出てくる。

ルアナ。
ガブリエラ。
ベアトリス。

ブラジルの前線は止まらない。

50分。

ルアナが中へ入る。
五百城も付いていく。

ベアトリスへ預けるとベアトリスはワンタッチで落とした。

そこへマリア・フェルナンダが走り込む。
強烈なミドルシュート。

白石が身体を投げ出してコースを変える。

それでも筒井は反応した。
片手で弾き出し、CKへ逃れる。

日本はまた守らされる。

53分。

今度はガブリエラだった。
一ノ瀬を振り切ってクロスを上げる。

中央へ飛び込んだベアトリスが頭で合わせる。
ボールはわずかにバーの上を越えた。

スタジアムが一斉に頭を抱える。

実況:ブラジル決め切れません!

解説:ただ日本も苦しいですね。押し返せない状況が続いています

その通りだった。
押し返せない。

田村は中盤を埋め続けていた。
井上も戻る。

白石も身体を張る。
五百城もルアナへ食らいつく。

それでも前へは出られない。

その象徴が久保だった。

56分。

久保が中央でボールを受ける。
顔を上げる。

井上も動き出していた。

いつもなら何でもないパスだった。
だが、この日は違った。

井上へ通そうとしたボールが、ほんのわずかにずれる。
それだけで十分だった。

ブラジルが引っ掛ける。
一気に前を向かれれば危険な形になる。

久保は迷わなかった。
即座に身体を入れ、プレーを止める。

ホイッスル。

スタジアムが大きく沸いた。

久保はその場に残ったまま、膝へ手を置く。
大きく息を吐いた。

実況:珍しいミスです

解説:今大会ではほとんど見ませんね。久保も相当疲れていると思います

久保は膝へ手を置いたまま息を整える。

視界ははっきりしている。
次の選択肢も見えている。

だが足だけが付いてこない。
それが、何より厄介だった。

ベンチ前。

〇〇は腕を組んだままピッチを見る。

隣には設楽。
反対側には日村。

3人とも同じ選手を見ていた。

久保だった。

日村:限界だな

設楽:頭は動いてるんだけどね

〇〇:分かってる

ピッチでは久保がまだ走っている。

だが走れていることと、いつもの久保であることは別だった。

〇〇は数秒だけ考える。
そして振り返った。

〇〇:菅原を

菅原がすぐに立ち上がる。

〇〇:久保の代わりをやるな。お前の試合をしろ

菅原:はい

菅原は大きく頷いた。

60分。

交代ボードが上がる。

久保→菅原

スタジアムがざわつく。

実況:久保を下げます!!

解説:苦しい決断ですが、今日の久保を見れば日本も無理はさせられません

久保はゆっくり歩く。
菅原とすれ違う。

菅原:任せてください

久保:頼むね

会話はそれだけだった。

久保はベンチへ座る。
悔しさはあった。

だが、それ以上に身体が動かなかった。

ここまで日本を運んできたのは久保だった。
ただ今日は限界だった。


菅原は走れる。
動ける。

実際にプレーも悪くない。

ボールを失えば戻る。
危険な場所にも顔を出す。

それでも違った。
久保のように試合の呼吸までは整えられない。

日本のリズムそのものが少し変わっていた。

ブラジルもそれを感じていた。

久保がいない。
だから再び前へ出る。

ルアナ。
ガブリエラ。
ベアトリス。

攻撃の波は止まらない。

それでも決定機までは届かない。

田村が危険な場所を埋める。
菅原も走る。

白石が先に読み、梅澤が跳ね返す。
五百城が身体を当てる。

そして最後は筒井が触る。

気付けばまた日本の守備が揃っていた。

ブラジルは押し込む。
だが押し切れない。

63分。

田村がマリア・フェルナンダとの競り合いを制し、こぼれ球へ菅原が先に入る。
井上へ預けると、井上はすぐに前を向いて池田へ差し込んだ。

池田は二人に囲まれながらも強引に前を向くと、そのままドリブルで仕掛ける。
さらに一人を抜こうとしたところで足を引っ掛けられ、ファウルを獲得した。

久しぶりに日本が敵陣で息をついた。

井上のFK。

一度短く菅原へ預ける。
菅原はダイレクトで返す。

井上が角度を変えてクロスを入れる。
ボールは誰にも合わない。

それでも日本は時間を使うことができた。

65分。

飛鳥がまた自陣まで戻る。

アナ・クララを追う。
ボールを奪いクリアする。

飛鳥:だからさぁ……私FWなんだけど

そう言いながら、誰より先に戻っていく。

井上が思わず笑った。

井上:聞こえてますよ

飛鳥:聞かせてるの

苦しい。
だが少しだけ空気が軽くなる。

67分。

今度は一ノ瀬がガブリエラへの縦パスを先に読んで奪う。
菅原へ繋ぐと、菅原は迷わず右へ展開した。

川﨑が一気に加速する。

ブラジルDFも全力で戻り、結局クロスまでは持ち込めない。

それでも日本は相手最終ラインを押し下げることに成功した。

日本も少しずつ押し返し始めていた。
前半のような一方的な展開ではない。

それを〇〇も感じていた。

ブラジルは押している。
だが前半ほどの勢いはない。

日本もまだ壊れていない。

〇〇は時計を見る。
そろそろだった。

ピッチから目を離さないまま、スタッフへ声を掛ける。

〇〇:遠藤と生田を

スタッフが頷く。

遠藤と生田が呼ばれる。
二人はすぐに立ち上がった。

ビブスを脱ぎ、タッチラインへ向かう。

試合を動かす時間が近づいていた。

70分。

交代ボードが上がる。

池田→遠藤。
川﨑→生田。

実況:日本、2枚替えです!

解説:勝負に出ましたね

池田は息を整えながらタッチラインへ向かう。
遠藤と手を合わせる。

池田:収まんないです

遠藤:分かってる

遠藤は短く答えた。

隣では川﨑も戻ってくる。
生田と短く手を合わせる。

川﨑:結構走らされますよ

生田:見てた

川﨑は小さく笑う。
生田も笑い返した。

二人がピッチへ入る。
日本は形を変える。

池田は息を整えながらベンチへ戻る。

最後まで孤独な試合だった。
それでも前線で戦い続けた。

〇〇が肩を叩く。

〇〇:十分だ

池田は短く頷いた。

川﨑もベンチへ戻る。

何度も裏へ走った。
ボールが来なくても走った。

ブラジルの最終ラインを押し下げるためだった。

水を受け取ろうとしたところで○○の声が飛ぶ。

〇〇:助かった

川﨑は振り返る。

川﨑:走らせ過ぎですよ

池田も川﨑も、そのままベンチへ腰を下ろす。

後は任せた。
そんな思いを託すように。

遠藤は一度だけ前線を見渡した。

今大会ずっと先発だったエース。
初めて途中出場でピッチへ入る。


そして試合が再開する。

違いはすぐに現れた。

遠藤は目立たない。

派手に剥がすわけでもない。
強引に突破するわけでもない。

それでも気付けば、そこにいる。
日本が苦しい時に、一番欲しい場所へ。

ボールが収まり繋がる。

それだけで、日本に呼吸する時間が生まれた。

72分。

白石から田村へ繋ぐ。

田村はすぐに井上へ預けた。

井上が縦を付ける。

遠藤だった。

二人を背負う。

それでも倒れない。

身体を当てられてもボールを失わず、生田へ落とす。

日本はようやく敵陣へ出る。

スタジアムの熱狂も、ほんの少しだけ静かになった。

実況:日本、持てました

解説:遠藤があそこに収まるだけで全然違う

生田も効いていた。

無理に前を向かない。
急がない。

苦しくなれば一度戻す。

その落ち着きが、日本に時間を与えていた。

もう一度受ける。

ブラジルが追い切れない。
それだけで呼吸が変わる。

75分。

日本が再びボールを握る。

菅原、田村、井上が短く繋ぐ。

ブラジルの前線も追ってくる。
だが前半ほどの勢いはない。

日本を押し込み続けた代償だった。

スタジアムの歓声も少しだけ落ちる。

この試合で初めて、ブラジルが日本を追いかける時間が生まれていた。

ベンチの久保が息を吐く。
ようやく試合が動き始めた。

白石も気付いていた。
梅澤も。五百城も。

日本は少しずつ前へ出られるようになっていた。

78分。

ルアナがボールを受ける。
目の前には五百城。

今日何度目か分からない勝負だった。

ルアナは縦へ仕掛ける。

五百城も付いていく。
今度は中へ切る。

それでも離れない。

もう一度縦へ加速する。
五百城はまだ付いていた。

ルアナが思わず舌打ちする。

五百城は何も言わない。
派手なプレーはない。

ただ立ち続ける。
ただ止め続ける。

82分。

ブラジルに決定機が訪れる。

ガブリエラが中央へ侵入し、ベアトリスへ差し込む。
ベアトリスはワンタッチで落とした。

そこへ走り込んだのはルアナだった。

迷わず左足を振り抜く。

白石が必死に寄せる。
コースは削った。

それでもシュートは鋭い。
ボールはゴール左隅へ向かう。

筒井が飛ぶ。
目一杯身体を伸ばす。

指先が触れた。
ボールはゴールの外へ逸れる。

スタジアムが悲鳴を上げた。

実況:また止めた!!

解説:筒井あやめ、今日は本当に素晴らしいパフォーマンスです!!

85分。

ブラジルが前へ出る。
アナ・クララも高い位置まで上がっていた。

飛鳥が必死に食らいつく。

それでもアナ・クララは中央へ通した。
狙いはルアナ。

ブラジルが何度も使ってきた形だった。
だが、その瞬間だった。

五百城が前へ出る。

ルアナより先にコースへ入り込み、そのままボールを奪い切った。

スタジアムがざわつく。

五百城は止まらない。
奪った勢いのまま前へ運ぶ。

ルアナも慌てて追い掛ける。

だが五百城はさらに加速した。
中央へ入る。

井上が顔を出す。

誰もが一度預けると思った。
ブラジルもそう考えていた。

五百城は井上へパスを出す。
その瞬間、井上が叫んだ。

井上:茉央、行け!

ダイレクトだった。
ワンタッチで返される。

五百城は止まらない。
そのまま空いたスペースへ飛び出した。

ブラジルの守備が揺れる。
ルアナも追う。

それでも届かない。

今大会ずっと左SBで日本を支えてきた五百城が、この準決勝の終盤で試合を動かしに行く。

実況:五百城持ち上がる!!

スタジアムがどよめいた。

五百城は顔を上げた。

遠藤がいた。
迷わない。

完璧なタイミングでパスを通す。

遠藤がペナルティエリア内で受ける。
焦りはない。

一度だけGKを見る。

そして右足を振り抜き、流し込む。

ネットが揺れた。

本当に一瞬だけ、スタジアムから音が消えた。

実況:決まったぁぁぁぁぁぁぁ!!!日本先制ぃぃぃぃぃ!!!遠藤さくら!!!日本が先にこじ開けた!!!

遠藤はゴールを確認した瞬間に振り返る。
真っ先に見たのは五百城だった。

五百城も笑う。

遠藤はそのまま駆け寄った。
強く抱き付く。

五百城も抱き返した。

2人のところに井上が飛び込んでくる。
そのまま全員が集まる。

気付けば日本の選手たちが一つの塊になっていた。

スタンドでは山下、与田、賀喜も立ち上がり、大きく喜んでいた。

スタジアムのどよめきが広がる中、五百城と遠藤だけは一瞬だけ顔を見合わせる。

遠藤:ナイス

五百城:うん

短い言葉だった。
それでも十分だった。

ブラジルを相手に日本は先制した。

最も苦しい試合で。
最も日本らしくない試合で。

それでも最後に先に届いたのは、日本の一撃だった。

いいなと思ったら応援しよう!