INVERT ROLE 第35話 開幕 ― W杯
6月24日。
ブラジル。
2027 FIFA女子ワールドカップが開幕した。
サンパウロの街は、完全に大会の色へ変わっていた。
街には各国のユニフォームが溢れていた。
スペイン。
ブラジル。
アメリカ。
イングランド。
聞こえてくる言語も、一つではない。
駅前広場には巨大スクリーンが設置され、開会式を待つ人々で埋まっていた。
太鼓の音。
歓声。
煙。
熱気。
世界中の熱が、一つの国へ流れ込んできていた。
ホテルロビーでも、選手たちは自然と足を止めていた。
大型スクリーンでは、開幕セレモニーが流れている。
ブラジル国歌。
花火。
観客の大合唱。
スピーカー越しでも、スタジアムの熱が伝わってきた。
川﨑:やば
池田:うるさ……
そう言いながら、池田も画面から目を離さない。
遠藤はソファへ浅く座り、静かに試合前映像を見ていた。
久保は立ったまま腕を組み、山下は少し後ろからスクリーンを眺めている。
一ノ瀬だけが、何度も周囲を見回していた。
一ノ瀬:なんか、まだ現実感ないんだけど
久保が少し笑う。
久保:まだ言ってる
小さく笑いが起きる。
だが、開幕したことで、空気は確実に変わっていた。
ここから先は、もう調整ではない。
勝てば進む。
負ければ終わる。
世界大会が、始まった。
開幕戦が始まる。
ブラジルがボールを持つたび、ロビーでも歓声が起きる。
ホテルスタッフまで足を止めていた。
飛鳥は後方席から静かに画面を見ている。
飛鳥:……熱量すご
与田も頷いた。
与田:日本と全然違う
その横で、井上は試合ではなく観客席を見ていた。
井上:でも、こういう空気のほうが好きかも
その言葉に、遠藤が少しだけ笑う。
遠藤:和はそういうタイプだよね
試合終了後。
ロビーの空気はさらに騒がしくなっていた。
だが、日本代表の選手たちは、そのまま散っていく。
翌日も練習がある。
ここから先は、見る側ではない。
やる側だった。
翌朝。
ホテル前には、すでに報道陣が並んでいた。
日本代表への注目は、日ごとに増えている。
イングランド戦後から、各国メディアは、日本を大きく取り上げ始めていた。
「二重構造」
「スカイロール」
「可変型ムーンロール」
「完成した中盤」
そんな単語が並ぶ。
だが同時に、
「中央過密」
「役割衝突」
「共存問題」
という言葉も消えてはいなかった。
だが同時に、海外メディアが最も繰り返していた言葉もある。
最も読めないチーム。
分析記事は大量に出ていた。
それでも最後だけは、どのメディアも結論が揃わない。
「結局、日本は何をしてくるのか分からない」
それが、今の日本代表だった。
アレーナ・イタケーラでの前日練習へ向かうバス。
選手たちは、それぞれスマホを見ている。
川﨑が画面を見ながら笑った。
川﨑:また海外が勝手に名前つけてる
池田:なんて?
川﨑:デュアルロールジャパン
一ノ瀬が吹き出す。
一ノ瀬:ダサ
その空気に、少しだけ緊張が和らぐ。
だが、久保だけは画面を見ていなかった。
窓の外を見ている。
山下も、それ以上は何も言わない。
バスの中だけが、少し静かになっていた。
高速道路を降りた瞬間、周囲の空気が変わる。
赤い発煙筒。
スペイン国旗。
日本のユニフォーム。
警備線の向こうでは、すでに両国サポーターが集まり始めていた。
ニッポンの声。
ESPAÑAの大合唱。
両方の声が、スタジアム外周へ響いている。
アレーナ・イタケーラは、まだ試合前日とは思えない熱を帯びていた。
選手たちがピッチへ出る。
無人の客席。
散水された芝。
巨大ビジョン。
その中央には、JAPAN vs SPAINの文字だけが浮かんでいた。
公開されるのは冒頭15分だけ。
久保は静かに芝を踏む。
山下は右サイドのスペースを見る。
遠藤はゴールを見上げていた。
井上は一度だけ、スタンド最上段へ視線を向ける。
その横で、梅澤は何も言わずに全体を見渡していた。
公開練習終了後。
スタジアムで、前日公式会見が行われた。
各国メディアが詰めかける。
フラッシュ。
シャッター音。
英語。
スペイン語。
ポルトガル語。
質問は、ほとんど日本のシステムについてだった。
記者:イングランド戦では二つの形を使いました
記者:スペイン戦では、どちらを使うのでしょうか
〇〇は短く答える。
〇〇:必要なものを使います
記者:スペインは中央の攻略をかなり研究していると言われています
〇〇:でしょうね
短いやり取りだった。
その横で、遠藤が静かに座っている。
別の海外記者が視線を向けた。
記者:遠藤選手。スペイン相手に重要なのは何でしょう
遠藤は少しだけ考える。
遠藤:……多分、始まってみないと分からないです
記者たちが顔を見合わせる。
遠藤:でも、やることは変わらないので
フラッシュがまた光る。
だが、会見場の空気はどこか噛み合っていなかった。
システムを聞かれても、〇〇は答えない。
狙いを聞かれても、遠藤は濁す。
記者たちも、途中から苦笑いを浮かべ始めていた。
スペイン戦前日。
日本は、監督とエースを並べながら、最後まで何一つ本音を見せなかった。
ホテルへ戻る。
ミーティングルーム。
大型モニターには、スペインの直前親善試合が流れていた。
保持率。
中盤制圧。
プレッシャー回避。
完成度が高い。
ボールを失わない。
一人剥がしても、また次が出てくる。
設楽が小さく息を吐いた。
設楽:……やっぱり上手いね
誰も否定しない。
スペインは、今大会最大級の優勝候補だった。
アルノが映像を止める。
アルノ:スペインは前回王者ですけど、実際はここが本体です
モニターに、中盤三人が映る。
アイタナ・ロドリゲス。
ルシア・ベルナール。
マルタ・カサス。
バルセロナの中盤が、そのまま代表の核になっていた。
設楽が腕を組む。
設楽:前線じゃなく、中盤で試合を支配するチームか
アルノも頷く。
映像が動く。
ワンタッチ。
立ち位置交換。
狭い場所でも止まらない。
田村が小さく息を吐いた。
田村:……捕まえきれないね
その時、池田がモニターを見たまま口を開いた。
池田:アイタナが動いた瞬間です
部屋が少し静かになる。
モニターでは、アイタナが半歩だけ位置を変えていた。
池田:あそこから全部変わる
設楽が視線を向ける。
設楽:そこが、全部の合図になるのか
池田は頷く。
池田:バルサって、一人止めても終わらないんです
映像が動く。
ルシアが落ちる。
マルタが浮く。
また別の選手が空く。
池田:でも、逆にあそこ止まると、全部止まる時あるので
設楽が視線を向ける。
設楽:CLは、そこ突いたのか
池田は小さく頷いた。
池田:……アイタナ消した時間だけ、バルサ少し止まったので
モニターでは、中盤の循環が一瞬だけ途切れていた。
池田:あそこ崩れると、前線も孤立する時あります
モニターが切り替わる。
今度は前線。
ソフィア・ルイス。
アトレティコのエースFWだった。
前線で収める。
落とす。
流れを繋ぐ。
ポストプレーは上手い。
だが、個で無理やり試合を壊すタイプではない。
設楽:自分で壊すより、流れ繋ぐタイプか
菅原が少しだけ頷いた。
菅原:ソフィアは別にそこまで怖くないっすよ
設楽が視線を向ける。
設楽:そうなのか?
菅原:マジで中盤の選手のほうが嫌なんで
アルノが次の映像へ切り替える。
今度は、スペインの守備ブロック。
レアルとアトレティコ所属選手たちが並ぶ。
アルノ:後ろは逆に、かなり実戦型です
モニターに、カルラ・メンデスが映る。
レアルマドリードのCBだった。
井上が小さく口を開いた。
井上:カルラは、間を消すのが上手いです
映像が切り替わる。
今度はGK。
エレナ・ソレール。
レアル・マドリーの守護神だった。
足元まで出てくるタイプだった。
井上:エレナは、多分かなり高い位置取ってきます
アルノも頷く。
アルノ:実際、スペインのビルドアップ参加率かなり高いですね
井上:あの人、止めるより先に繋ぐの考えてるので
今度は左SB。
アトレティコのナタリア・ヒメネス。
菅原が少し苦笑する。
菅原:この人は考える前に潰してきます
川﨑が笑った。
川﨑:嫌なタイプじゃん
菅原:実際かなり嫌になるよ
少しだけ空気が和らぐ。
だが、〇〇だけは後方席で黙ったままモニターを見ていた。
ボールが動く。
アイタナが浮く。
ルシアが落ちる。
マルタが内側へ入る。
その瞬間、〇〇がリモコンを止めた。
〇〇:……そこ
短い言葉だった。
全員の視線が集まる。
〇〇は画面を指さす。
〇〇:そこは追うな。流れごと持ってかれる
だが、池田だけが小さく視線を動かした。
山下も静かに画面を見る。
井上は腕を組んだまま、何も言わなかった。
その日の練習は、最後まで非公開だった。
内容も重くない。
強度を上げることもしない。
距離感。
立ち位置。
ボールを離す速度。
確認するのは、それだけだった。
〇〇の声だけが短く飛ぶ。
〇〇:急がなくていい
〇〇:一回外せ
〇〇:見るだけでいい
設楽も、アルノも、もう止めない。
ここまで来れば、細かな説明はいらなかった。
選手たちも、ただ静かに感覚を揃えていく。
最後まで、〇〇だけは表情を変えなかった。
夜。
ホテル上階。
食堂スペースの照明だけが残っている。
窓の外では、まだサポーターの声が響いていた。
テレビでは、別会場の試合ハイライトが流れている。
アメリカ。
フランス。
ブラジル。
優勝候補たちが、それぞれ結果を出し始めていた。
そのテーブル中央に、ケーキが置かれている。
日付が変わる直前だった。
川﨑:はい、主役
小川が困ったように笑う。
小川:普通に恥ずかしいんだけど
一ノ瀬はスマホを向けたまま笑っていた。
一ノ瀬:いいから撮らせて
飛鳥は少し離れた椅子から、その様子を眺めている。
遠藤も小さく笑う。
山下がケーキ箱を押しながら口を開いた。
山下:勝って、最高の誕生日にしようか
小川は少しだけ目を止める。
それから、小さく頷いた。
小川:……はい
0時。
拍手が起きる。
小川彩、20歳の誕生日だった。
だが、騒がしさは長く続かない。
翌日がある。
少しずつ席が空いていく。
深夜。
ホテルの灯りが少しずつ落ちていく。
廊下からも、人の気配が消えていた。
翌日。
日本代表は、スペインと戦う。
窓の向こう。
ライトアップされたアレーナ・イタケーラが見えた。
誰も喋らない。
久保も。
山下も。
井上も。
遠藤も。
ただ、その光を見ていた。
