INVERT ROLE 第52話 備戦 ― サンパウロ帰還
7月17日。
サルヴァドールの朝は静かだった。
前夜の熱狂だけが、まだ街のどこかに残っている。
フランス戦。
0-3。
そこからの4-3。
勝った。
だが、それは喜びより先に疲労を残す試合だった。
ホテル前には朝から人が集まっていた。
日本代表のバスが動き出すたび歓声が上がる。
それでも選手たちの表情は落ち着いていた。
誰も騒がない。
久保は窓側の席へ座り、何も見ていなかった。
遠藤は目を閉じている。
梅澤も腕を組んだまま黙っていた。
機内も静かだった。
眠る者。
映像を見る者。
外を眺める者。
会話はほとんどない。
前方のモニターでは、昨夜のハイライトが繰り返し流れていた。
海外メディアは「サルヴァドールの奇跡」と呼んでいた。
だが選手たちは誰も見ない。
イタリア戦。
フランス戦。
二試合連続の死闘だった。
今は喜ぶより先に、身体を戻さなければならない。
サンパウロへ到着する。
空港には日本代表を待つ人だかりができていた。
それでも選手たちは軽く手を振るだけだった。
バスがホテルへ入る。
見慣れたロビー。
見慣れたスタッフ。
食堂。
ラウンジ。
開幕から長く過ごした場所だった。
スタッフたちが拍手で迎える。
その光景に、一ノ瀬が少しだけ笑った。
一ノ瀬:帰ってきたって感じ
川﨑:なんか家みたい
小さな笑いが起きる。
だが、その空気も長くは続かない。
午後はすぐにリカバリーへ入った。
出場組は軽いジョグとストレッチ。
身体を動かしながら疲労を抜いていく。
日村はタブレットを見ながら眉を寄せていた。
梅澤。
久保。
遠藤。
数字は正直だった。
鉄人と呼ばれる彼女たちも2試合連続延長120分フル出場。
ここまで積み重なった疲労が、隠しきれなくなっている。
設楽が画面を覗き込む。
設楽:どう?
日村:よくここまで保ってる
設楽:誰が一番重い?
日村は少しだけ息を吐いた。
日村:遠藤だね
言葉は短かった。
だが意味は十分だった。
遠藤はここまで全試合先発。
前線で潰れ役を続けてきた。
数字にもそれが出ている。
少し離れた場所では、遠藤がジョグを続けていた。
走れていないわけではない。
だが重い。
切り返しの一歩。
減速から加速。
いつもなら自然に出る動きが、わずかに遅れる。
日村はその様子を見ながら口を開いた。
日村:無理はさせられる
設楽:嫌な言い方だな
日村:でも万全じゃない
設楽:久保は
日村:良くない
設楽:梅は
日村:良くない
設楽:おいおい
日村:普通なら二人も休ませたいところ
設楽:出られるの?
日村:明日また見るよ
設楽:まだ決められない?
日村:決められない
遠藤はジョグを終える。
ベンチ脇に腰を下ろし、水を口へ運んだ。
その横へ〇〇が立つ。
〇〇:どうだ
遠藤は少しだけ考えた。
遠藤:正直、重いです
正直な返事だった。
〇〇:そうだろうな
遠藤:でも出ろって言われたら出ます
〇〇:まだ決めてない
遠藤は笑う。
遠藤:そうですよね
夜。
ミーティングルームの照明が落ちる。
スクリーンに映し出されたのはブラジルだった。
最初に映ったのは右サイドだった。
ルアナ・ヴェローゾ。
バルセロナ所属。
ブラジル代表の10番。
22歳。
井上と同じ世代でありながら、すでに世界最高峰の一角として名前を挙げられる存在。
SYNCカップ準決勝。
日本を最も苦しめた選手だった。
映像の中でも変わらない。
縦へ行く。
中へ入る。
止まらない。
一度前を向けば、守備側の判断を置き去りにする。
その姿を見ながら、井上は何も言わない。
五百城も黙ったまま画面を見ていた。
二人とも知っている。
世界基準。
あの日、自分たちが突きつけられた相手だった。
映像が切り替わる。
今度は左。
ガブリエラ・コスタ。
圧倒的なスピードを武器にするウインガーだった。
一対一を恐れない。
縦へ行く。
止められても、また縦へ行く。
さらに大型CF。
ベアトリス・ソウザ。
高さ。
強さ。
そして足元もある。
映像の中では二人に囲まれても倒れない。
競る。
残す。
落とす。
ブラジルの最前線だった。
梅澤が小さく視線を上げる。
アルノ:この三人だけで、攻撃力はたぶん今大会で一番です
部屋が静かになる。
アルノ:個々の能力だけなら、フランスより上かもしれません
誰も否定しなかった。
筒井は何も言わずに、ただ、三人のプレーを最後まで見ていた。
次は右SB。
アナ・クララ。
フィジカルを前面に押し出すタイプだった。
攻撃参加も躊躇がない。
ブラジルの右サイドはルアナだけじゃなくて連携して仕掛けてくる。
最後にアンカー。
マリア・フェルナンダ。
派手な映像は少ない。
だが危険な場面には必ずいる。
カウンターの入口。
縦パスの起点。
その多くを潰していた。
ブラジルの心臓。
攻撃を作る選手ではない。
攻撃を終わらせない選手だった。
久保が初めて視線を止めた。
アルノが映像を止めた。
アルノ:たぶん今大会で一番騒がしい相手です
設楽が苦笑する。
設楽:分析としてどうなんだそれ
アルノ:でも一番近いです
〇〇がモニターを見たまま口を開いた。
〇〇:イタリアは規律、フランスは構造、ブラジルは熱狂だ
部屋が静かになる。
誰も否定しない。
それが一番分かりやすい説明だった。
7月18日。
調整日だった。
午前中は主力組は別メニュー。
控え組はボールを使ったトレーニングを続けている。
その横で五百城はタブレットを見ていた。
画面にはルアナのプレーが映っている。
アルノが後ろから覗き込んだ。
アルノ:まだ見てるの?
五百城:うん
アルノ:どう?
五百城は少しだけ考えた。
五百城:止まらないね
アルノは苦笑した。
アルノ:それで?
五百城:だから止まるまで行く
その返事だけは迷わなかった。
午後。
トレーニングは戦術確認へ移った。
組み合わせが何度も変わる。
前線。
中盤。
最終ライン。
一つの形に固定されることはない。
遠藤は別メニューを挟みながら調整を続けていた。
久保も。
梅澤も。
誰が出るのか。
誰が出られるのか。
この日の時点で、まだ何も決まっていなかった。
不出場が確定しているのは三人だけだった。
山下。
与田。
累積警告による出場停止。
そして賀喜。
負傷からの回復は間に合わなかった。
それ以外は、まだ決め切れない。
会議室の一角では、設楽と日村、そしてスタッフ陣がデータと向き合っていた。
久保。
梅澤。
遠藤。
数字だけを見れば、全員が万全ではない。
だが数字だけでは決められない。
設楽は腕を組んだまま資料へ視線を落とす。
日村もモニターを見つめている。
出られるのか。
ではない。
どこまで出せるのか。
その判断だった。
別のピッチでは賀喜が一人でボールを蹴っていた。
走れる。
蹴れる。
だが足りない。
全体練習へ戻る許可は出ていなかった。
遠くではチームメイトたちが戦術確認を続けている。
賀喜は視線を落とした。
悔しくないはずがなかった。
一方でピッチでは控え組が最後まで調整を続けていた。
白石。
林。
蘭世。
一ノ瀬。
菅原。
小川。
生田。
西野。
飛鳥。
そしてイタリア戦に出場できなかった。
川﨑。
田村。
与田はボール拾いを続けている。
山下はタブレットを持ったまま練習を見ていた。
出られない。
それでも二人はチームから離れなかった。
誰も手を抜かない。
ここまで来れば、全員に可能性がある。
誰が出るのか。
誰が出られるのか。
まだ誰にも分からなかった。
7月19日。
アレーナ・イタケーラ。
スタジアムでの前日練習。
開幕戦の場所だった。
選手たちが静かにピッチへ出ていく。
久保はセンターサークルを見る。
五百城は左サイドを見る。
井上はゆっくりと周囲を見渡した。
誰も言わない。
それでも全員が同じことを思っていた。
帰ってきた。
公開練習終了後。
会見場。
〇〇の隣には井上が座っていた。
質問はすぐに飛んでくる。
記者:怪我人や出場停止もいます。メンバーは決まりましたか?
〇〇は少しだけ笑った。
〇〇:明日になれば分かる
会場に小さな笑いが起きる。
記者:ブラジルの印象は
〇〇:強い
即答だった。
記者:守る展開も増えそうですか?
〇〇:そうかもしれない
一拍置く。
記者:それでも前へ出る?
〇〇:もちろん
会場の空気が少し締まった。
記者:ルアナ・ヴェローゾ選手については
〇〇:世界最高クラスの選手です
記者:最大の警戒対象ですか
〇〇は首を横に振った。
〇〇:ブラジルです
それ以上は言わなかった。
だが、意味は十分に伝わった。
続いて井上に質問が飛ぶ。
記者:ルアナ・ヴェローゾ選手との比較についてどう思いますか
井上は少しだけ笑った。
井上:すごい選手だと思います
記者:同世代最高とも言われています
井上:そうですね
一拍。
井上:でも私は私なんで
会場が少しだけ静かになる。
その返事だけで十分だった。
夜。
ホテル。
スタメンが発表される。
部屋の空気がわずかに動く。
驚く者はいない。
だが誰も口にはしなかった。
3日前から続いていた悩みは終わった。
明日戦う11人と、ベンチメンバーが決まった。
最後のミーティング。
〇〇はホワイトボードの前に立つ。
そして短く言った。
〇〇:明日勝てば決勝だ
部屋は静かなままだった。
山下はいない。
与田もいない。
賀喜も戻れない。
万全な選手の方が少ない。
それでも、準決勝は来る。
〇〇はゆっくりと視線を巡らせた。
〇〇:ここまで来たら、コンディションも戦術も言い訳にならない
誰も目を逸らさない。
〇〇は選手たちを見渡す。
そして最後に言った。
〇〇:あとはピッチで証明しろ
全員の視線だけが上がった。
ミーティングが終わる。
選手たちは静かに部屋を出ていく。
夜のサンパウロ。
久保は窓の外を見ている。
その隣で、梅澤が小さく口を開いた。
梅澤:あと2つ
久保:うん
梅澤:まずはブラジルだ
久保は少しだけ笑った。
久保:そうだね
窓の外では、サンパウロの灯りが流れていく。
開幕の街。
帰ってきた街。
そして、次はブラジル。
誰も浮かれていない。
誰も諦めてもいない。
静かなまま、準決勝が近づいていた。
