INVERT ROLE 第45話 静壁 ― ラウンド16イタリア戦(前編)
7月12日。
ブラジリア国立競技場。
決勝トーナメントラウンド16。
負ければ終わる。
その事実だけで、スタジアムの空気はグループリーグとは別物になっていた。
歓声は大きい。
だが、浮ついていない。
日本の青とイタリアの青が入り混じる客席の熱は、どこか張り詰めていた。
大型ビジョンには、ここまでの日本のゴールシーンが映し出されていた。
歓声が上がる。
だが、ピッチへ入ってきた日本代表の表情は静かだった。
久保は客席を見ない。
山下は右手首のテーピングを指で押さえ、遠藤はゆっくり息を吐く。
井上はベンチ横でスパイクを履き直していた。
今日もスタートではない。
それでも、必要になる試合だという感覚はあった。
ロッカールーム。
〇〇はホワイトボードへ触れないまま口を開いた。
〇〇:多分、今大会で一番止まる
誰も喋らない。
〇〇は続ける。
〇〇:押し込んでも崩れない時間が来る。その時に、先に感情を出した側から相手のペースになる
短い沈黙。
梅澤がゆっくり立ち上がった。
梅澤:行こう
歓声が、通路の奥から流れ込んでくる。
選手たちは一列になり、ピッチへ続く通路を歩き始めた。
決勝トーナメント特有の静けさがある。
誰も無駄な声を出さない。
その中で、与田が隣の列へ目を向ける。
前方を歩くヴィットリアが振り返る。
ヴィットリア:よお、チビ助
与田:うるせーな
ヴィットリアは笑い、そのまま前へ向き直った。
整列位置へ向かう途中、ルチアが梅澤の横へ並ぶ。
ルチア:あなたたちの試合は見た
梅澤:そう
ルチア:面白かった
梅澤:勝つためだから
ルチア:私たちも同じ
二人はそれ以上何も言わなかった。
やがて通路の先に光が見えた。
歓声が一気に大きくなる。
決勝トーナメントが始まる。
大型ビジョンへスタメンが映し出される。

実況:日本はグループリーグ3戦全勝。10得点0失点。圧倒的内容でラウンド16へ進んできました
解説:ただ、イタリアは今までとは全くタイプが違います。完全なカテナチオ。守り切ることを受け入れているチームです
実況:そして注目はヴィットリア・ヴァレンティ。マンチェスター・ユナイテッド所属の怪物ストライカー
ホイッスル。
決勝トーナメントが始まる。
立ち上がり、日本は慌てなかった。
久保が一度ボールを引き取り、田村が後ろで角度を作る。
与田が中盤の空いた場所へ顔を出し、山下は高い位置を取りながら右へ広がる。
見慣れた形だった。
グループリーグを突破してきた日本の循環。
イタリアは出てこない。
無理に奪わない。
中盤の中央だけを閉じながら、自陣で静かに構えている。
日本は自然とボールを握った。
久保から山下。
山下から与田。
再び久保。
ボールは滑らかに動き、スタジアムも少しずつ日本のテンポへ飲まれていく。
池田が左で仕掛ける。
遠藤が中央で潰れる。
そして右では、川﨑が何度も背後を狙っていた。
ボールが出なくても構わない。
一度走るたびにイタリアの最終ラインが下がり、その分だけ久保と山下が前を向く時間が生まれる。
山下が内側へ入り、久保との立ち位置を入れ替えながら前進する。
立ち上がりは完全に日本だった。
実況:まずは日本がボールを握ります
解説:イタリアは無理に取りに行きませんね。まずは守備ブロックを整えています
5分。
この時間帯だけを見れば、先制点が生まれるのは日本の方に見えた。
実際、その形は作れていた。
池田が左でボールを受ける。
縦へ一歩。
寄せてきたDFを置き去りにすると、そのまま内側へ持ち込み右足を振り抜いた。
鋭いシュートだった。
ゴール右隅へ向かう軌道にスタジアムが沸く。
だが、バルディーニが触る。
横へ飛びながら伸ばした右手がわずかにボールを弾き、そのままシュートはゴール前へこぼれた。
遠藤が反応する。
詰める。
しかし、その前へグレコが身体ごと滑り込んだ。
ボールは大きく弾かれる。
日本のチャンスは終わった。
そう見えた。
だが、そのこぼれ球へ最初に反応したのはルチアだった。
自陣深くまで戻っていたルチアは、ボールを収めた瞬間に顔を上げる。
運ばない。
時間も使わない。
次の瞬間には、もう前線へ蹴っていた。
鋭い縦パスだった。
そのボールを受けたのはヴィットリア。
前線で一人残っていた怪物が、背後から来る梅澤の気配を感じながらボールを収める。
梅澤が当たる。
賀喜も絞る。
二対一。
普通なら十分だった。
それでもヴィットリアは止まらなかった。
身体をぶつけられながら無理やり前を向くと、賀喜が足を伸ばすより先にボールを持ち出し、そのまま強引に右足を振り抜く。
低く、速い。
筒井が反応する。
だが、わずかに届かない。
ボールはゴール右隅へ突き刺さった。
実況:決まったぁぁぁ!! イタリア先制!! 日本、大会初失点!!
スタジアムが揺れる。
ほんの数秒前まで日本の流れだった。
それなのに、スコアだけはイタリアが動かしていた。
ルチアは自陣へ戻りながら一度も喜ばない。
ヴィットリアはその場で拳を握る。
一度。
それだけだった。
だが次の瞬間、スタジアム中へ向かって吠えた。
獣みたいな咆哮が響く。
梅澤も。
賀喜も。
その姿から目を離さない。
たった一度のチャンス。
イタリアは、その一度で試合を壊した。
日本が失点した。
その事実だけで、空気が変わる。
実況席も一瞬言葉を失っていた。
解説:……今のは止められません。完全に個で壊しました
賀喜:……ごめん
梅澤:まだいい。次から修正しよ
久保が静かに前を向く。
久保:まだ崩れてない
再開後も、日本がボールを握る。
だがイタリアは出てこない。
中央を閉じ、身体を寄せ、それでも飛び込まないまま、日本にボールだけを持たせ続ける。
押し込めている。
それでも最後だけが見つからない。
15分。
左で受けた池田が縦へ出た。
右足でひとつ外し、そのまま中へ切り込む。
イタリアDFが寄せても止まらず、シュートモーションへ入った瞬間、スタジアムが一気に立ち上がった。
完璧なコースだった。
ゴール右隅へ吸い込まれる――そう見えたボールへ、バルディーニが横っ飛びで触る。
伸ばした指先だけで軌道を変え、そのまま外へ弾き出した。
実況:止めたぁぁぁ!! バルディーニ、スーパーセーブ!!
スタジアムがどよめく。
池田は思わず顔を上げた。
それでも、バルディーニは残っていた。
CK。
山下のボールへ梅澤が飛び込む。
競り勝つ。
だが、グレコが身体ごと滑り込んで弾き返した。
こぼれ球へ遠藤。
振り抜く。
また止める。
イタリアのゴール前には、常に誰かの身体があった。
実況:イタリア、耐えます!!
解説:崩されてはいるんです。ただ最後だけ、全員で止めている
だが、イタリアも何も出来ていないわけではなかった。
20分。
押し込まれ続けていたイタリアが、珍しく五百城の背後を狙った。
だが五百城は慌てない。
外へ追い込み、最後は身体を当ててボールごとタッチラインへ押し出した。
実況:五百城、落ち着いています!!
解説:今大会ずっとそうですが、一対一でほとんど負けませんね
五百城は奪ったボールを久保へ預ける。
日本は再び押し込む。
だが、その流れの中でイタリアは再び牙を剥いた。
23分。
ルチアが再びボールを奪う。
今度も狙いは同じだった。
前線のヴィットリア。
失点シーンと同じ形。
スタジアムがどよめく。
だが、先に動いたのは賀喜だった。
競りに行かない。
身体をぶつけない。
半歩だけ先へ入る。
前を向かせない。
ヴィットリアは強引に反転しようとする。
賀喜は離れない。
進路だけを消す。
それでもヴィットリアは止まらなかった。
身体をこじ開けるようにして半身を作り、そのまま右足を振り抜く。
だが、失点の時とは違う。
賀喜が最後まで身体を寄せ続けたことで、十分に力が伝わらない。
シュートは勢いを欠き、そのまま筒井の正面へ飛んだ。
筒井は落ち着いてボールを抱え込む。
ヴィットリアが初めて舌打ちした。
失点以降、初めて日本が正面から対応した場面だった。
日本は押し込む。
28分。
久保が中央で受ける。
寄せてきた相手を引きつけながら右へ流す。
山下がワンタッチ。
その瞬間だった。
川﨑が背後へ飛び出す。
完全に抜けた。
イタリアDFが追う。
だが追いつかない。
スタジアムが立ち上がる。
川﨑はそのまま右足を振り抜いた。
低く早いシュート。
だが、バルディーニ。
距離を一気に潰しながら飛び出し、足先で外へ弾き出す。
解説:日本、
それでも一点だけが遠い。
32分。
イタリアは相変わらずヴィットリアを使う。
中盤を飛ばしたロングボールが前線へ送られた。
梅澤が競る。
だがヴィットリアは収める。
半身を作る。
次の瞬間、ヴィットリアが右足を振り抜いた。
強烈なミドルがゴール右隅を襲う。
だが今度は違った。
筒井が飛ぶ。
限界まで伸ばした手が、わずかにボールへ触れる。
乾いた音。
ボールはポストの外側を掠めながらゴールラインの外へ逃げていった。
スタジアムが大きく沸く。
実況:筒井ぃぃぃ!! 止めたぁぁぁ!!
ヴィットリアが小さく眉を上げる。
筒井は立ち上がる。
ただ、ヴィットリアだけを見た。
筒井:もう二本目はないよ
ヴィットリアは何も言わない。
ただ口元だけが少し歪んだ。
それでも主導権は日本にある。
35分。
田村が回収したボールを久保へ預ける。
久保はワンタッチで右へ流した。
山下からさらに川﨑へ。
川﨑は縦へ運ぶと、そのまま鋭いクロスをゴール前へ送り込む。
遠藤が飛び込む。
だが、その前へグレコが身体ごと滑り込んだ。
ボールはCKへ逃げる。
実況:イタリア、最後のところで耐えます!!
日本が押し込む中、ルチアが再びボールを引っ掛けた。
狙いはヴィットリアだった。
鋭い縦パスが入る。
今度は梅澤が先に身体を当てた。
失点した時と同じ形にはさせない。
だが、それでもヴィットリアは収める。
背負ったまま半身を作り、強引に前を向こうとした。
そこへ賀喜が戻る。
さらに田村も降りてくる。
一人では止まらない。
二人でも止まらない。
最後は三人で囲み切り、ようやくボールを外へ逃がした。
ヴィットリアは笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
38分。
池田がまた左で剥がす。
今度は二人抜いた。
深い位置まで入り込み、中央へ速いボールを入れる。
遠藤が飛び込む。
合わせた。
だが、その瞬間、グレコが身体を投げ出してコースを消した。
ボールはわずかに逸れてCK。
遠藤は額の汗を拭いながら、小さく息を吐く。
遠藤:……入んないか
山下は右でボールを受けながら、いつもより早く縦へ入れようとしていた。
急いでいる。
それは自分でも分かっていた。
止まればイタリアの時間になる。
その焦りがプレーへ滲み始めていた。
40分。
イタリアは下がる。
中央も閉じる。
前へ差し込む場所がない。
それでも久保は焦らなかった。
遠藤へ入れると見せかけて、自ら右足を振り抜く。
低い弾道がゴール左隅を襲う。
バルディーニも動けない。
だが、ボールはわずかに外れた。
実況:惜しい!! 久保のミドル!!
43分。
再びルチアからヴィットリア。
前半だけで何度も見た形だった。
だが今度は違う。
ボールを収める前に賀喜が身体を寄せる。
前を向かせない。
無理やり突破しようとしたヴィットリアの足元へ、最後は賀喜が足を差し込んだ。
ヴィットリアは立ち止まる。
舌打ち。
両手を広げ、何かを吐き捨てるように叫んだ。
賀喜は何も言わない。
ただ前を向いたまま、自陣へ戻っていった。
前半アディショナルタイム。
イタリアCK。
ゴール前へ全員が集まる。
ルチアが時間を使う。
ヴィットリアがまた賀喜へぶつかる。
だが、今度は賀喜が負けない。
先に身体を入れる。
競り勝つ。
額で大きく外へ弾き返した。
その瞬間、前半終了の笛が鳴る。
スタジアムがどよめく。
日本の選手たちが引き上げようとした、その時だった。
ヴィットリアが遅れて賀喜へ突っ込んだ。
完全な報復だった。
賀喜の身体が吹き飛ぶ。
実況:あっ……!!
一瞬、空気が止まる。
プレーは終わっている。
誰の目にも明らかだった。
それでもヴィットリアは止まらなかった。
賀喜が倒れる。
次の瞬間だった。
山下が真っ先に走る。
ヴィットリアの胸ぐらを掴み、そのまま強引に引き寄せた。
山下:てめぇ何やってんだよ!!
完全に感情だった。
今にも殴りかかりそうな勢いだった。
だが、その前に梅澤が割って入る。
ヴィットリアと山下の間へ身体をねじ込み、無理やり距離を作った。
同時に久保と与田も飛び込む。
久保:山!!
与田:やめて!!
二人が後ろから抱きつくようにして止める。
それでも山下は視線を外さない。
ヴィットリアも睨み返していた。
イタリアの選手たちが割って入り、日本ベンチも飛び出す。
主審の笛が激しく鳴った。
その一方で、五百城と遠藤は真っ先に賀喜の元へ駆け寄っていた。
五百城:大丈夫ですか!?
遠藤:立てる?
賀喜は返事をしようとする。
だが上手く立てない。
筒井も駆け寄る。
賀喜の様子を確認すると、そのままヴィットリアへ視線を向けた。
何も言わない。
ただ、その目だけは鋭かった。
田村がベンチへ向かって大きく手を振った。
田村:メディカル!!
池田と川﨑は数歩離れた場所で立ち尽くしている。
何が起きたのか理解していても、身体が追いつかない。
主審がカードを掲げる。
ヴィットリアへレッドカード。
スタジアムがどよめく。
だが、その直後、山下へもイエローカードが提示された。
実況:イタリア、退場です!! しかし山下にも警告!!
山下はまだ呼吸が荒い。
賀喜が立ち上がろうとする。
だが、右足へ体重を掛けた瞬間、表情が歪んだ。
賀喜:っ……
空気が変わる。
日本は一点を追いながら、感情まで熱を持ち始めていた。
