INVERT ROLE 第46話 静壁 ― ラウンド16イタリア戦(中編)
ハーフタイム。
ロッカールームへ戻ってきても、前半の空気はまだ身体に残っていた。
日本は押している。
保持率も高い。
シュート数も上回っている。
それでも、0-1。
しかも失点は、たった一本のロングボールからだった。
賀喜は椅子へ腰を下ろしたまま、右足首へアイシングを当てている。
スパイクはまだ脱いでいなかった。
日村がしゃがみ込み、腫れ始めた箇所を静かに押していく。
賀喜は表情を変えない。
だが、触れられるたびに呼吸だけがわずかに乱れた。
日村:……強く捻ってる。無理はさせない方がいい
賀喜はすぐに顔を上げた。
賀喜:まだ行けます
日村は返事をしない。
その沈黙だけで、賀喜も理解していた。
悔しさが、ゆっくり表情へ滲んでいく。
最初の失点。
あの一本だけが残っていた。
賀喜は俯いたまま、小さく唇を噛んだ。
その少し離れた場所で、山下はまだ立ったままだった。
タオルを肩へ掛けたまま、ロッカールームの床を見ている。
さっきの乱闘。
胸ぐらを掴んだ瞬間の熱が、まだ身体から抜けていなかった。
完全に感情が出た。
それが、自分でも一番嫌だった。
久保:山
山下は視線を上げない。
久保はペットボトルの水を一口飲み、それから静かに続けた。
久保:まだ崩れてないから
山下:……分かってる
返事は短い。
だが、その声には熱が残っていた。
久保はそれ以上言わなかった。
分かっている。
だからこそ、抑え切れていない。
イタリアはそれを待っていた。
〇〇がホワイトボードの前へ立つ。
部屋の空気が静かになる。
賀喜の磁石が外され、五百城がCBへ。代わりに蘭世が左SBへ置かれた。
〇〇はボードを見たまま口を開く。
〇〇:後半、向こうは完全に閉じる
誰も否定しない。
10人になったイタリアは、もう前へ出てこない。
全員で守る。
延長も含めて、耐え切るつもりだ。
〇〇はそのまま続けた。
〇〇:だから焦れたら終わる。急いだ瞬間に、向こうの試合になる
山下の指先がわずかに止まる。
〇〇は視線を全員へ向けた。
〇〇:一点でいい。崩れれば流れは変わる
短い沈黙のあと、遠藤がゆっくり息を吐いた。
遠藤:……絶対来る。続ければ崩れる
池田も小さく頷く。
抜けている感覚はある。
剥がせてもいる。
それでも最後だけが遠い。
イタリアのゴール前だけ、まるで別の壁みたいに閉じていた。
梅澤:まだ一点差だよ
その声で、少しだけ空気が戻る。
〇〇は最後に短く言った。
〇〇:止まるな。でも熱くなるな。崩れるのは向こうだ
後半開始。
賀喜→蘭世。

そして予想通り、イタリアは完全に引いた。
ヴィットリアが消えた前線には誰も残らず、中盤と最終ラインだけが異様な密度でゴール前を埋めている。
日本へボールを持たせる。
その代わり、中央だけは絶対に開けない。
日本は押し込む。
左では蘭世が大きく幅を取る。
ボールを受ける前から走って相手を広げる。
イタリアは飛び込まない。
寄せる。
閉じる。
戻る。
それだけで前進を削っていた。
山下が右で受けた。
前半よりさらに高い位置。
ボールを持った瞬間、イタリアがすぐ身体を寄せてくる。
山下はボールを受けた瞬間、そのまま縦へ運んだ。
クロスは跳ね返される。
だが、与田がすぐにこぼれ球へ滑り込み、久保へ戻す。
その間にも山下はもう前へ走り直していた。
久保は一度テンポを落とそうとする。
それでも、山下だけは止まらない。
再び右で受けると、今度は強引に中へ切り込んだ。
二人に挟まれながらも無理やり身体をこじ開け、そのまま右足を振り抜く。
だが、そのシュートにもイタリアの身体が飛ぶ。
ブロック。
跳ね返される。
それでも山下はすぐ前を向き直した。
止まりたくなかった。
ここで止まれば、そのまま試合ごとイタリアに飲み込まれる気がしていた。
ボールは外へ逃げ、スタジアムから重いどよめきが漏れた。
実況:日本、押し込んではいますが……少し強引になっていますかね
解説:イタリアがそうさせています。急がせて、熱くさせている
山下は小さく舌打ちを飲み込んだ。
急いでいる。
それは分かっていた。
それでも止まれば、試合ごとイタリアに持っていかれる気がした。
50分。
池田が左で受ける。
蘭世が外へ開く。
イタリアSBが一瞬だけそちらを見る。
その隙を池田が逃さない。
一歩目で剥がした。
さらに二人目の前へボールを流し、そのまま一気に中へ入る。
池田が振り抜く。
完璧だった。
だが、バルディーニがまた止める。
横へ飛びながら、片手一本で外へ弾き出した。
実況:また止めたぁぁぁ!! バルディーニ、スーパーセーブ!!
池田は思わず天を仰いだ。
それでも、バルディーニだけが残っていた。
CK。
山下が入れる。
梅澤が競り勝つ。
落ちたボールへ遠藤が飛び込んだ。
だが、その瞬間、グレコが身体を投げ出す。
シュートコースへ滑り込み、そのまま足へ当てて外へ逃がした。
一点が遠かった。
57分。
イタリアのクリアボールをルチアが拾う。
珍しく前へ運ぶ。
日本の重心が前へ出た瞬間を狙ったプレーだった。
山下が追う。
奪い返したい。
その思いが先に出た。
背後から強引に身体を当てる。
笛。
ファウル。
スタジアムがざわつく。
ルチアは何も言わずにボールを置く。
山下だけが両手を広げた。
山下:いや、今のは……
だが主審は首を振る。
イタリアは時間を使う。
その全てが山下には長く感じられた。
再開後も同じだった。
イタリアは急がない。
日本だけが急いでいた。
数分後。
今度はルチアが自陣でボールを持った。
前へ行かない。
横へ逃がす。
また戻す。
観客席からブーイングが飛ぶ。
それでもイタリアは気にしない。
その前へ与田が飛び出した。
一歩遅かった。
ボールではなく身体へ当たる。
笛。
与田は顔をしかめた。
与田:あっ……
主審は迷わない。
ポケットからカードが出る。
実況:与田にも警告です!!
解説:日本、少し熱くなっていますね。普段ならやらないプレーです
山下も。
与田も。
普段の二人なら飛び込まない場面だった。
ピッチでは山下がまだ何かを言っている。
主審へではない。
自分自身へ言い聞かせるように。
だが、その視線はもうボールではなく相手へ向いていた。
〇〇は腕を組んだまま見ている。
隣で設楽が小さく口を開いた。
設楽:山下、まだ引きずってますね
〇〇:ああ
設楽:与田も釣られてる
少しの沈黙。
山下が手を叩く。
与田が前から追う。
だが、いつもの二人ではなかった。
〇〇は短く頷いた。
〇〇:今日はもう駄目だな
設楽も否定しなかった。
〇〇:熱くなり過ぎてる
設楽:そうですね
〇〇:流れを変える
〇〇はスタッフへ振り返る。
〇〇:一ノ瀬と井上
スタッフがすぐに動く。
ジャージを脱ぎながら、一ノ瀬と井上がベンチ前へ集まった。
〇〇は二人を見る。
〇〇:テンポを握り直せ
一ノ瀬:はい
〇〇:急ぐな。相手を動かせ
続いて井上へ視線を向ける。
〇〇:真ん中で解決しろ
井上:はい
〇〇:もう崩れる。崩し切れ
60分。
山下→一ノ瀬。
与田→井上。
日本は流れを変えにいく。
そして同時に、熱を持ち始めた試合を冷やしにいった。
一ノ瀬はスパイクの紐を締め直す。
今大会初出場。
それでも落ち着いていた。
交代ボードが上がる。
山下がピッチを出る。
入れ替わる直前、一ノ瀬と目が合った。
山下は何か言おうとした。
だが言葉が出ない。
悔しさの方が先に残っていた。
結局、小さく頷くだけだった。
一ノ瀬も頷き返す。
それだけで十分だった。
隣では与田が戻ってくる。
井上が前へ出る。
二人の距離が交差する。
与田:頼むね
井上:うん
短かった。
それ以上はいらない。
今の与田に出来ることは、それだけだった。
ベンチへ戻る山下はまだ呼吸が荒い。
与田も隣へ腰を下ろす。
〇〇は二人を見た。
〇〇:頭冷やせ
山下は顔を上げない。
与田も何も言わない。
〇〇:相手じゃなくて試合見ろ
短い沈黙。
〇〇:次の準備しとけ
山下は唇を噛む。
与田はタオルで顔を拭った。
悔しさは消えない。
それでも試合は続いている。
ピッチでは一ノ瀬と井上が、それぞれの場所へ走っていった。
実況:日本、ここで二枚替え!!形を変えます
解説:ムーンロールで押し込む形から、一ノ瀬と井上を入れてスカイロールへ移行します。一ノ瀬でテンポを握り直し、井上を起点に中央から崩しにいく狙いでしょう

再開直後、日本の空気が変わる。
ムーンロールで押し込み続けていた流れを、一度整理する。
一ノ瀬がテンポを握り、井上が中央で基準になる。
スカイロール。
日本は別の角度からイタリアを揺さぶり始めた。
右で受けた一ノ瀬はボールを止めない。
ワンタッチで流す。
その瞬間、川﨑が背後へ飛び出した。
イタリアDFが慌てて下がる。
山下は構えて崩す。
だが一ノ瀬は、触った瞬間にボールを動かしていた。
その速さがイタリアを狂わせ始める。
中央では井上が顔を出す。
相手を背負いながらボールを収めると、そのまま反転しようとはしない。
寄せてきた二人を引きつけて外へ逃がす。
そこへ一ノ瀬が走り込み、ダイレクトで川﨑へ繋いだ。
今まで閉じ切っていたイタリアの右が、初めて後ろ向きになる。
川﨑は迷わない。
そのまま縦を破ると、低く速いクロスをゴール前へ送り込んだ。
遠藤が飛び込む。
完璧に合わせた。
だが、それでもバルディーニがいる。
至近距離からのシュートへ身体ごと反応し、信じられない速度で弾き出した。
実況:止める!! バルディーニ、止め続けます!!
それでも、日本の流れは止まらなかった。
一ノ瀬が止めずに流す。
井上が中央で引きつける。
川﨑が裏へ走る。
押し込むたび、イタリアのラインが少しずつ後ろ向きになる。
66分。
今度は中央だった。
久保から井上。
井上はワンタッチで前を向く。
イタリアの中盤が寄る。
その瞬間、一ノ瀬が内側へ入り込んだ。
井上は迷わない。
足元へ差し込まれたボールを、一ノ瀬は止めずにそのまま遠藤へ落とした。
遠藤は背後の気配を感じながら反転する。
振り抜いた右足の感触は完璧だった。
ボールはゴール左隅へ吸い込まれていく。
入った。
スタジアムの誰もがそう思った。
だが、またバルディーニだった。
横っ飛びで伸ばした左手が、あと僅かのところでボールへ触れる。
ボールはポストを叩き、そのまま外へ逃げた。
遠藤は思わず笑う。
遠藤:……まだ止めるの
スタジアムも半ば呆れたようなどよめきに包まれる。
70分。
〇〇がさらに動く。
五百城→生田。
五百城がタッチラインへ向かう。
入れ替わりで入る生田へ、小さく声を掛けた。
五百城:頼みます
生田:うん
五百城がベンチへ戻る。
〇〇は肩を叩いた。
〇〇:よくやった
五百城は短く頷く。
その間にも、生田は前線へ走り出していた。
実況:日本、完全攻撃です!!

最終ラインには梅澤だけが残る。
ファイヤーフォーメーション。
イタリアはさらに深く引いた。
ただ、弾き返す。
それでも日本は押し込み続ける。
生田が前線で時間を作り、一ノ瀬へ落とす。
一ノ瀬は止めずに川﨑へ流した。
川﨑が再び縦へ仕掛けると、イタリアDFを引き連れたまま低いクロスを送り込んだ。
だが、ボールはゴール前で跳ね返される。
それでも終わらない。
こぼれ球へ井上が飛び込み、そのまま右足を振り抜いた。
完璧に捉えた。
だが、そのシュートにも身体が飛ぶ。
弾かれる。
それでも久保が拾う。
再び右へ展開する。
一ノ瀬。
川﨑。
何度も同じ場所を突く。
イタリアは耐えていた。
だが、もう押し返せない。
イタリアのラインは揺れている。
それでも最後だけが届かない。
イタリアの選手たちは、クリアのたびに叫ぶ。
ラインを押し上げる余裕はない。
それでも身体だけは必死にゴール前へ戻していた。
その執念が、試合をまだ終わらせない。
78分。
右で生田が受け背負う。
一度止めイタリアのSBを引きつけ、一ノ瀬へ落とした。
一ノ瀬はまた止めず、ダイレクトで川﨑へ流す。
川﨑が縦へ出る。
イタリアDFが遅れる。
川﨑はそのまま右足を振り抜いた。
低い弾道。
だが、またバルディーニ。
横へ飛びながら片手で触り、ゴールの外へ弾き出す。
実況:また止める!! バルディーニ、止まりません!!
川﨑は思わず立ち止まった。
入ったと思った。
一ノ瀬がすぐ横まで来る。
一ノ瀬:まだ来るから
川﨑は短く息を吐き、前を向き直した。
川﨑:……絶対決める
イタリアはもう前へ出られない。
それでも一点だけが遠い。
時間だけが減っていく。
ベンチ前で、山下はタオルを握ったまま試合を見ていた。
さっきまで自分が立っていた右サイド。
一ノ瀬が流し、川﨑が走るたび、イタリアのラインが下がる。
今なら分かる。
急ぎすぎていた。
85分。
井上が中央で受ける。
背中へ二人を背負ったまま反転し、そのまま強引に前を向いた。
イタリアの中盤が完全に食い付く。
その瞬間、左で池田が空く。
井上は迷わず通した。
池田が右足で中へ持ち出す。
シュート。
完璧なコース。
だが、またバルディーニ。
指先一本で触り、ボールはクロスバーへ弾かれる。
スタジアム全体が悲鳴みたいなどよめきを漏らした。
実況:うわぁぁぁ!! まだ入らない!!
時計は90分へ近づく。
イタリアは足を攣りながらでも戻る。
それでも一点だけが遠かった。
アディショナルタイムに入っても、日本の波は止まらなかった。
跳ね返されても久保が拾う。
中央の井上へ預け、生田が右で受ける頃には、イタリアのラインはもう完全に自陣へ沈み切っていた。
左では蘭世が何度もオーバーラップを繰り返している。
疲労で足は重い。
それでも止まらない。
イタリアのWBが一瞬だけそちらへ引っ張られる。
生田はそのズレを見逃さなかった。
一度だけ止めて相手SBを引きつけると、そのまま外へ一ノ瀬を使う。
その瞬間だった。
一ノ瀬がワンタッチで縦へ流す。
川﨑が反応した。
今までで一番速い飛び出しに、イタリアDFが半歩遅れる。
そのズレだけで十分だった。
川﨑はそのまま右足を振り抜く。
低く速いボールはバルディーニの手を掠め、そのままゴール右へ突き刺さる。
実況:決まったぁぁぁぁぁ!! 川﨑桜!! 日本、土壇場で同点!!
スタジアムが爆発した。
川﨑は叫びながら走る。
そのままコーナーフラッグ付近で膝から滑り込んだ。
真っ先に飛びついたのは一ノ瀬だった。
一ノ瀬:桜ー!!
川﨑:美空ー!!
二人は勢いのまま抱き合う。
その輪へ井上が飛び込み、久保も遠藤も生田も続いた。
気付けば日本の選手たちが一つの塊になっている。
スタジアムが揺れる。
ゴールを決めたのは川﨑。
今大会ずっと先発で走り続けながら、あと一歩だけ届かなかった選手だった。
そして最後のパスを出したのは一ノ瀬。
グループリーグでは出番すらなかった。
それでも腐らず準備を続け、初めて立ったワールドカップのピッチで流れを変えた。
誰よりも苦しかった二人が。
誰よりも欲しかった一点を。
二人でこじ開けた。
ベンチの山下も、思わず立ち上がっていた。
与田が拳を握る。
賀喜も前へ身を乗り出す。
控え選手たちが一斉に飛び跳ねる。
ベンチ全体が歓声に包まれていた。
だが、その中で〇〇だけは動かない。
腕を組んだまま、小さく息を吐く。
その視線は喜びより先に、もうピッチへ向いていた。
まだ同点。
試合は終わっていない。
実況:日本、追いつきました!! ついにイタリアの壁を破った!!
解説:一ノ瀬と川﨑、この右のスピードが最後に崩しました!!
試合は延長へ入る。
