INVERT ROLE 第43話 熱圧 ― GL第3節ナイジェリア戦(後編)
タイドロジックへ入ってから、日本は完全に試合の主導権を握っていた。
それでも、まだ終わらせ切らない。
後半35分を過ぎた頃、ベンチが再び動く。
川﨑 → 生田
川﨑はかなり走っていた。
裏への飛び出しで、ナイジェリアの最終ラインを最後まで押し下げ続けていた。
生田が肩を軽く叩いた。
生田:後は流れ変える
川﨑:頼みます
川﨑は肩で大きく息をしながら、ベンチへ戻ってくる。
〇〇が、戻ってきた川﨑へ声を掛ける。
〇〇:お前のスピードで、最後までライン下げさせたな
川﨑は肩で息をしながら、小さく笑った。
川﨑:思ったより、最後まで付いてこれなかったですね

生田が入ったことで、日本の右側の空気が少し変わる。
縦へ速く刺すだけではない。
一度持てる。
潰れない。
時間を作れる。
その変化が、さらにナイジェリアを苦しくしていった。
生田が右で受ける。
相手SBが寄せる。
だが簡単には失わない。
身体を入れ替え、半歩だけ時間を作る。
その間に、井上が中央へ顔を出していた。
生田は無理に仕掛けない。
短く預ける。
井上も急がない。
一度久保へ戻す。
久保が反転し、今度は左へ展開した。
蘭世が高い位置で受ける。
ナイジェリアの最終ラインが、また大きく横へ動かされる。
戻す。
回す。
走らせる。
その循環に、ナイジェリアの足がもう追いつかない。
再び中央へ入ったボールを、今度は遠藤が受けた。
CBを背負ったまま収める。
潰されない。
そのまま身体を捻りながら、狭い隙間へヒール気味にボールを落とした。
そこへ井上が走り込む。
ナイジェリアのCBが遅れる。
ほんの一瞬。
だが、井上には十分だった。
井上:……見えた
右足が振り抜かれる。
鋭い弾道が、そのままゴール右上へ突き刺さった。
実況:決まったぁぁぁ!! 井上和だぁぁぁ!!!
解説:止まりません!! タイドロジックに入ってから、ナイジェリアがまったく捕まえられない!!
スタジアムが揺れる。
だが、そのどよめきにはもう焦りが混ざっていた。
ナイジェリアへの熱狂ではない。
日本が強い。
その現実を、観客たちが受け入れ始めていた。
井上は派手に走らない。
小さく息を吐きながら、ゆっくり拳を握る。
その周囲へ、久保、山下、生田が集まってくる。
久保:戻ってきたね
井上:……遅くなりました
生田:十分すぎるって
スコアは4-0。
それでも日本は緩めない。
無理に攻め急ぎもしない。
保持し動かす。
相手だけを走らせる。
その落ち着きが、逆にスタジアムのざわめきを大きくしていた。
ナイジェリアもまだ諦めてはいない。
一発で流れを変えようと、前線から強引に圧力を掛けてくる。
だが、日本の循環は崩れなかった。
久保が低い位置で受ける。
相手が寄せる。
その瞬間には、もうボールは次へ逃げている。
山下が高い位置で受ける。
蘭世が幅を取る。
井上が中央で半身になる。
生田が右で時間を作る。
誰か一人を捕まえても、次の出口がすぐ現れる。
ナイジェリアの守備は、完全に後手へ回り始めていた。
そして後半40分。
ベンチが最後に動く。
池田 → 白石
遠藤 → 西野
スタジアムが少しざわつく。
ここでベテラン2人を入れる。
その意味を、誰もが理解していた。
試合を終わらせに来ている。
ピッチ際で、遠藤と西野が短く手を合わせる。
西野:後は落ち着かせるよ
遠藤:お願いします
隣では、池田と白石が入れ替わる。
白石:最後、締めてくるね
池田:お願いします
ベンチへ戻ってきた2人へ、〇〇が声を掛ける。
〇〇:2点目もそうだが、前で潰れ続けたのがデカかった
遠藤は肩で息をしながら、小さく笑った。
遠藤:まあ、きつかったですけどね
〇〇が池田へ視線を向ける。
〇〇:ナイスゴール。あの1点で、空気変わった
池田はタオルで汗を拭きながら、少しだけ笑う。
池田:あれで、前来れなくなってましたね

白石はそのまま最終ラインへ入る。
日本はここで5バックへ変わった。
左から、蘭世、白石、梅澤、賀喜、山下。
その前に久保と田村が並ぶ。
さらに前には井上。
前線には、西野と生田が残った。
守るだけではない。
保持しながら、試合を終わらせるための形だった。
最終ラインを下げ過ぎない。
ボールを持つ。
ナイジェリアへ追わせる。
その姿は、逃げ切りではなかった。
支配したまま、試合を終わらせにいっていた。
白石:ライン下げないよ
田村:中央閉じてる
久保:急がなくていい
ボールが静かに回る。
ナイジェリアの選手たちは、もう追い切れない。
それでも前へ出る。
だが、届かない。
日本の循環は最後まで止まらなかった。
そして、後半アディショナルタイム。
久保が中央で受ける。
無理に前へ入れない。
一度止める。
西野へ預ける。
西野は身体を使いながら、ゆっくり後ろへ落とした。
ナイジェリアが、触れない。
追っているのに、奪えない。
その光景が、スタジアム全体へ静かに広がっていく。
笛が鳴る。
試合終了。
日本 4-0 ナイジェリア。
スタジアムには、歓声より先にどよめきが広がっていた。
ピッチの中央で、久保はゆっくり息を吐いた。
まだ終わっていない。
それでも、世界の視線が変わったことだけは、はっきり分かっていた。
そして誰も、このスタジアムを今日だけで終わらせるつもりはなかった。
決勝でもう一度、ここへ戻ってくる。
その感覚だけが、チームの中で静かに共有されていた。
試合終了後も、マラカナンのざわめきはしばらく消えなかった。
赤く染まっていたスタンドの空気が、今はどこか静かだった。
ナイジェリアのサポーターたちも、ただ呆然とピッチを見つめている。
実況:日本、グループリーグを完全制覇です!!
解説:しかも内容が落ちないんですよね……。試合ごとに違う勝ち方をしている
実況:スペインには保持。デンマークには構造。ナイジェリアには局面対応……
解説:弱点が見当たらないです
ピッチ上では、選手たちが静かに抱き合っていた。
大騒ぎする選手はいない。
まだ終わっていない。
その空気を、全員が共有している。
それでも、井上だけは少し長く空を見上げていた。
怪我明け。
ベンチスタート。
そこから1ゴール2アシスト。
戻ってこられた。
その実感が、ようやく身体へ追いつき始めていた。
ロッカールームへ戻る通路。
歓声はまだ遠くで続いている。
池田は汗で濡れた髪をタオルで押さえながら、ゆっくり歩いていた。
生田が井上の肩へ腕を回していた。
生田:復帰戦でやりすぎ
井上:ちょっとだけです
山下:ちょっとで済む数字じゃないから
ようやく、少しだけ笑いが漏れる。
重かった空気が、そこで初めて緩んだ。
会見場。
フラッシュが止まらない。
各国メディアが、日本へ一斉に視線を向けていた。
3試合連続完勝。
10得点0失点。
警告、退場は一枚もない。
しかも、相手ごとに勝ち方が違う。
保持。
守備。
可変。
個。
セットプレー。
試合ごとに違う形で相手を壊しながら、それでもチーム全体は崩れない。
まさに、完璧なグループリーグだった。
各国メディアが、このチームを測り切れなくなり始めていた。
記者:スペイン、デンマーク、ナイジェリア。全て違う相手に完勝しました。日本は完成したと言えますか?
〇〇は少しだけ考え、静かに水を飲んだ。
〇〇:完成したチームは、伸びなくなるので
会見場が少しざわつく。
〇〇:まだ途中です。ただ、選手たちが試合の中で答えを見つけられるようにはなってきた
別の記者が、すぐに続ける。
記者:井上和の復帰については?
〇〇:予定より早かった
その言葉に、会見場で小さく笑いが起きた。
〇〇:でも、本人が一番落ち着いていた
さらに別の記者が口を開く。
記者:山下選手の3点目は、かなり特殊なセットプレーに見えました
〇〇は少しだけ笑う。
〇〇:うちには優秀なデータ分析官がいるので
また小さく笑いが起きる。
会見場の空気が、少しだけ変わる。
日本は、流れの中だけではない。
準備してきた形まで、試合の中で正確に使ってくる。
その印象だけは、確実に各国メディアへ残り始めていた。
■試合記録
結果:
日本 4-0 ナイジェリア(GL第3節)
得点:
45+1分 池田瑛紗(アシスト:久保史緒里)
65分 遠藤さくら(アシスト:井上和)
75分 山下美月(アシスト:井上和)
83分 井上和(アシスト:遠藤さくら)
交代:
60分 与田祐希 → 井上和
60分 五百城茉央 → 寺田蘭世
80分 川﨑桜 → 生田絵梨花
85分 賀喜遥香 → 白石麻衣
85分 遠藤さくら → 西野七瀬
統計:
シュート数:日本18(枠内10)/ナイジェリア11(枠内4)
支配率:
日本57%/ナイジェリア43%
試合後の海外メディア見出し。
「日本、グループリーグで10得点0失点」
「完成された可変型フットボール」
「ムーンロールとタイドロジック、日本独自の戦術体系」
「池田瑛紗、3戦4発世界的スター誕生」
「井上和、怪我明けで試合を変える」
「日本は優勝候補ではない。基準になり始めている」
SNSでも、試合映像が止まらない。
池田のドリブル。
井上のスルーパス。
山下のセットプレー。
久保の低位置支配。
何度も切り抜かれていた。
「日本、強すぎる」
「どうやって止めるんだ?」
「ポゼッションなのに速い」
「井上、復帰戦で1G2Aはバケモン」
「池田のゴール芸術点高すぎる」
「久保史緒里、試合の呼吸そのもの」
「女子サッカーの未来を見てる気分」
「山下のゴール、何回見ても意味わからん」
「田村気付いたら危ない場所全部消してるやん」
「遠藤、前で潰れてゴールまで決めるの反則」
「筒井はずっと顔色変わらんの怖い」
「全員IQ高すぎる」
マラカナンを離れ、リオ市内のホテルへ向かうバスの中は、珍しく静かだった。
疲労もある。
だがそれ以上に、全員どこか現実感が薄かった。
窓の外へ、リオの夜景が流れていく。
遠藤が小さく息を吐いた。
遠藤:……ほんとに世界変わってるね
田村:まだ途中だけどね
久保は窓へ頬杖をついたまま、外を見続けている。
久保:でも、もう隠せなくなった
その言葉に、誰も否定しなかった。
ホテルへ到着すると、ロビーにはまだスタッフが残っていた。
拍手が起こる。
それでも選手たちは、大騒ぎせず静かに頭を下げて通り過ぎていく。
ロビーの大型スクリーンでは、まだ他グループの試合が続いていた。
ラウンド16の対戦表が、少しずつ埋まっていく。
ブラジル。
フランス。
アメリカ。
その中で、最後の枠へイタリアの名前が入った。
一瞬だけ、ロビーの空気が静かになる。
一ノ瀬:……イタリアか
遠藤が小さく息を吐く。
遠藤:……嫌なとこ来たね
久保はモニターを見たまま、小さく目を細めた。
久保:……っぽいね
エレベーター前。
池田がスマホを見ながら、少し困った顔をした。
池田:……フォロワー、増えすぎてる
生田:もう世界スターだよ
池田:やめてください……
その横で、井上がようやく大きく伸びをした。
井上:……戻れてよかった
山下はその言葉を聞きながら、静かに笑う。
山下:次から、もっと走ってもらうけどね
井上:それは聞いてないです
小さな笑いが漏れる。
重かった大会序盤の空気は、もうそこにはなかった。
誰も浮ついてはいなかった。
この先の方が、もっと苦しいことを、全員理解していた。
その中で、久保だけが最後までスマホを見なかった。
窓の外の夜景を眺めながら、小さく息を吐く。
久保:……まだ、ここからだよ
誰へ向けた言葉でもなかった。
それでも、その声だけは、深夜のホテルロビーへ長く残っていた。
