見出し画像

INVERT ROLE 第50話 転潮 ― 準々決勝フランス戦(中編) 

久保は顔を上げた。
ロッカールームへ向かうモローの背中が見える。

前半を動かしていた背中だった。

山下が隣へ来る。
何かを言おうとして、やめた。

井上も無言だった。

遠藤だけが、ゴールの方を一度見てから、小さく息を吐いた。

遠藤:……まだ、45分ある

誰も返さない。
だが、その言葉だけが、青いユニフォームの間に残った。

梅澤が手を叩く。

梅澤:戻るよ

声は揺れていなかった。
だから、選手たちは歩き出した。

0-3。

世界が、日本の終わりを見始めていた。

だが、ロッカールームへ向かう久保の目だけは、まだ完全には消えていなかった。

ロッカールームへ戻る通路は、異様なほど静かだった。

歓声は背中の向こうでまだ鳴っている。

フランスのサポーターが歌い、スタンドの揺れが壁越しに伝わってくる。

前半だけで3失点。

押し込まれ続けたわけではない。
それでも、スコアだけが完全に離れていた。

その事実が、選手たちの身体から言葉を奪っていた。

ロッカールームへ入ると、誰もすぐには座らなかった。

久保はタオルを手にしたまま、しばらく床を見ていた。
山下は椅子の背に両手を置き、呼吸を整えようとしている。
井上はスパイクの先を見つめたまま動かない。
与田は汗を拭きながら、何度も小さく息を吐いていた。

梅澤だけが、ゆっくりと部屋の中央へ歩いた。

梅澤:顔上げて

その声は大きくない。

だが、部屋の中で一番強かった。

梅澤:まだ終わってない

筒井はグローブを外さないまま、静かにベンチへ腰を下ろしている。
3点を奪われても、表情は崩れていなかった。

林は唇を結んだまま、膝の上で拳を握っている。
蘭世は首元の汗を拭いながら、悔しさを隠そうともしなかった。

与田は何かを言いかけて、やめた。

この前半、誰か一人が悪かったわけではない。
だから余計に、重かった。

〇〇が部屋へ入ってくる。

扉が閉まる。
外の歓声が、少しだけ遠くなる。

〇〇はホワイトボードの前へ立った。
しばらく何も言わない。

ロッカールームには、水を飲む音と、呼吸だけが残った。

やがて、〇〇が口を開いた。

〇〇:綺麗にやるな

その一言に、全員の視線が上がる。

〇〇:前半、向こうは全部見えていた。俺たちが整えようとする場所も、逃がそうとする場所も、次に出したい場所も

久保は小さく息を吐いた。
その通りだった。

〇〇:だから、もう整えるな。壊してから繋げ

〇〇はそこで初めて、ホワイトボードへ手を伸ばした。

磁石が動く。

林の名前が外れる。
蘭世も外れる。
与田も外れる。

その音だけが部屋に響いた。

〇〇:勘違いするな。前半を残したのはお前たちだ

3人が顔を上げる。

〇〇:だから次をやる

代わりに置かれたのは、生田、一ノ瀬、小川。

ホワイトボードの形が変わる。

〇〇は最後に久保を見る。

〇〇:全部使うぞ

久保:はい

〇〇は最後に全員を見た。

〇〇:3点ある。だが慌てる必要はない

その言葉に、部屋の空気が一瞬止まった。

〇〇:1点ずつ返せばいい。最初の1点で空気は変わる。2点目で向こうが疑う。3点目で飲み込める

部屋の底に沈んでいたものが、少しだけ動いた。

久保はタオルを置き、立ち上がった。
梅澤が全員を見る。

梅澤:行こう。まだ半分残ってる

遠藤が静かに頷く。

遠藤:1点ずつです

井上も顔を上げた。

井上:向こうに、終わったと思わせたままにはしません

小川がビブスを脱ぐ。
その横で、生田が軽く肩を回した。

生田:じゃあ、面倒な試合にしようか

一ノ瀬は静かにスパイクの紐を締め直し、立ち上がる。

一ノ瀬:止めません

扉が開く。

フランスの歓声が、再び流れ込んでくる。

だが、ロッカールームを出る日本の背中は、前半終了時とは違っていた。

スコアは0-3。

それでも、誰も終わった顔はしていなかった。

後半開始。

日本は3枚を同時に替えた。

林→生田。
蘭世→一ノ瀬。
与田→小川。

スタジアムがざわつく。

3点を追うチームが、試合を取り返すために形を変えた。

実況:日本、後半頭から3枚替えです

解説:思い切りましたね。前半のままでは届かない。その判断でしょう


フランスはすぐには慌てなかった。

3点差。
時間はある。

日本が前へ出てくることも分かっている。

モローは中央で立ち位置を確認しながら、周囲へ短く指示を出した。
ベルナールが一歩前へ出る。
デュボワも右で構える。
ガルニエは前線で、次のカウンターを待っていた。

だが、日本の最初のビルドアップで、フランスの表情がわずかに変わった。

筒井から梅澤へ。
梅澤は中央で受け、右の山下へは出さない。

一度、久保へ入れる。

タイドロジック。
久保はすでに最終ラインまで降りていた。

五百城と梅澤の間。

フランスの一列目が出れば、その背後を使う。
出なければ、自分が前へ運ぶ。

その位置が、フランスの前線を迷わせた。

久保が受けるとガルニエが寄せる。

その瞬間、久保は半歩だけ下がって角度を変えた。
受ける線だけを変える。

梅澤からの戻しを受け直し、今度は左へ流した。

一ノ瀬が受ける。

スカイロール。
左SBの位置から外へ張らず、内側へ半歩入った。

池田が外へ残る。

小川が中央から少し左へ寄る。
井上は右のハーフスペースに立つ。

一ノ瀬が小川へ入れる。

小川は止めない。
ワンタッチで久保へ戻す。

フランスの中盤が一歩寄る。

久保はその寄せを引きつけて、今度は右へ通した。

山下が高い受ける。
一度だけ前を見て、すぐに内側へ運ぶ。

ムーンロール。
前半とは違い、山下は孤立しない。
山下の背後を、梅澤が広く見る。

生田は開きすぎず、山下の斜め前で受ける。
相手を背負い倒れない。

半歩だけ時間を作り、井上へ落とす。
井上はすぐに久保へ戻す。

フランスの中盤が横へ揺れる。

右から山下。
左から一ノ瀬。
中央で久保。

さらに小川が固定されないまま、相手の視線の間へ入り込む。

それぞれの役割は残したまま、立ち位置だけが波のように入れ替わる。

前半は出口を消されていた。
だが今は、一つ消えても別の出口が生まれる。

モローが、首を振る回数を増やした。

実況:フランス、少し捕まえきれなくなっています

解説:前半はモローが一人で整理できていました。でも今は違う。久保だけ見ても山下が空く。山下を見れば一ノ瀬が空く。日本が形ごと揺らしています

後半5分。

日本は右から押し込む。

山下が受け生田が近づく。

井上が一列前で待つ。
小川が半歩前へ消える。

フランスの中盤がつられた。

山下はそのズレを見逃さない。
生田へ縦を入れる。

生田は右で相手を背負い、時間を作る。

その間に、山下が内側へ入り直す。

久保が中央から受け口を作る。

生田は久保へ落とした。
久保は前を向く。

フランスの一枚が寄せてくる。

久保は一度止め、寄せを引きつけた。

その瞬間、左へ振った。
一ノ瀬が内側で受ける。

池田が外で待つ。
一ノ瀬は池田へ預け、すぐ内側を走る。

フランスの基準を左で動かすための動きだった。

池田が一ノ瀬を見る。

フランスの右サイドが下がる。
その瞬間、中央の小川が空いた。

池田から小川へ。
小川は足裏で止め、相手の重心を止めた。

すぐに井上へ流し、井上がシュートモーションへ入る。
ベルナールが出る。

井上は打たず、右へ流す。

山下がクロス。
遠藤がニアへ飛び込む。

ベルナールが先に触る。

CK。

スタジアムが初めてざわついた。

前半の終わりとは違う音だった。
フランスの余裕が、ほんの少しだけ揺れた音だった。

山下がボールをセットする。

ゴール前には梅澤、五百城、遠藤。
久保はペナルティエリアの外で待っていた。

山下のキック。
鋭いボールがニアへ入る。

ベルナールが跳ね返す。
だが、ラインは整わない。

こぼれ球を小川が拾った。
すぐに右へ流す。

もう一度山下へ。

フランスの守備が戻り切る前だった。

山下は迷わない。
今度はライナー性のボールをゴール前へ叩き込む。

梅澤が飛び込む。
遠藤も入る。

その動きにフランスの最終ラインが引っ張られた。

その隙へ、久保が走り込んでいた。

ボールが落ちる。
久保が触る。

至近距離。

GKが反応する前に、ボールはネットへ吸い込まれた。

一瞬、スタジアムの音が止まる。

次の瞬間、日本側の歓声が爆発した。

実況:入ったぁぁぁ!! 久保史緒里!! 日本、一点を返した!!

久保は喜ばなかった。
ネットを揺らしたボールをすぐに拾い上げセンターサークルへ走る。

久保:まだ終わってない!!

歓声に飲まれる。

久保はそのまま日本側のゴール裏へ向く。
ボールを抱えたまま、右腕を大きく振った。

もっと来い。
そう言わんばかりに。

最初に立ち上がったのは、ゴール裏だった。

止まりかけていたチャントが戻る。

青い旗が揺れる。

一つだった。
だが、その一つが二つになる。
二つが三つになる。

気づけば、日本側のスタンド全体が立ち上がっていた。

まだ終わっていない。
その空気が、久保の背中から広がっていく。

久保は頷き、そして振り返った。
センターサークルへ向かう足だけが速かった。

0-3になった時に消えかけていた熱が、再び日本の側へ戻り始めていた。

日本 1―3 フランス。

まだ2点差。

それでも、もう誰も終わった試合だとは思っていなかった。

フランスの選手たちは、すぐに再開位置へ戻る。
モローが手を叩く。

モロー:落ち着いて

その声は冷静だった。
フランスが、初めて試合を落ち着かせようとしていた。

再開後、フランスは一度ボールを持とうとする。

モローが受ける。
久保が寄る。

前半なら、モローはその一歩を外して次へ繋いでいた。

だが今度は違った。

久保が前から出る。
その背後では、小川がモローの受け直しを消していた。

前半まで残っていた逃げ道が、一つなくなっている。

モローは無理せず後ろへ戻す。

フランスは保持を選んだ。
だが、そこへ日本が行く。

遠藤がコースを切る。
生田が右から寄せる。

池田が戻り、一ノ瀬が左で内側を締める。
山下は前へ出過ぎず、最終ラインの位置を保つ。

一気には行かない。
触らせる場所だけを狭めていく。

前半のフランスが日本へやっていたことを、今度は日本がやり返し始めていた。

後半10分。

フランスのクロスを梅澤が跳ね返す。

五百城が拾い、久保へ渡す。
久保は最終ラインの位置で受けた。

フランスの中盤が前へ出る。

その瞬間、小川が中央で顔を出す。
パスコースに入るのではない。

相手の視線だけを引きつける。

小川が一度降りたことで、モローの隣にいた選手が半歩つられる。

そこに井上が入った。
久保の縦パスが通る。

井上は背中に圧力を受けながら、身体を半分だけ開いた。

シュートはまだ遠い。
それでも、井上は前を向いた。

フランスのCBが出る。

モローも戻る。

その瞬間、井上は右足を振り抜いた。

距離があった。
だが、迷いはなかった。

ボールは低く始まり、途中からわずかに浮き上がる。

ベルナールの足を越え、GKの伸ばした手の先へ向かう。
ネット左上に突き刺さった。

実況:井上和ぁぁぁ!! 日本、2点目!! なんというミドル!!

スタジアムが揺れた。

今度は日本側だけではなかった。
全体が揺れていた。

フランスのサポーターも声を失い、どよめきが大きく広がる。

日本 2―3 フランス。

2点差が、1点差に変わった。

井上は走り出さなかった。
その場で拳を握る。

遠藤がゴールの中へ飛び込む。
ネットを揺らしたボールを拾い上げる。

遠藤:あと一つ!!

叫ぶように言うと、そのままセンターサークルへ走った。

スタジアムだけが揺れている。

ベンチ前で、設楽が声を漏らす。

設楽:飲んでる……

〇〇は腕を組んだまま、まだ表情を変えない。

〇〇:まだだ

だが、その声の奥にも、確かな熱が混じっていた。

フランスはすぐに動揺を消そうとした。

モローが中央で受ける。
ガルニエが裏へ走る。
デュボワも右から上がる。

前半に日本を壊した流れを、もう一度作ろうとしていた。

だが、日本はもう同じ形では受けなかった。

久保がアンカーの位置から一歩下がり、パスコースを切る。

梅澤がガルニエへ先に身体を寄せる。
五百城が中央で距離を保つ。

一ノ瀬は内側へ絞る。
池田も深く戻り、デュボワへ出る準備をしていた。

前半なら空いていた場所に、今は青いユニフォームがいる。

モローが初めて、ボールを持つ時間を長くした。

その一拍に、スタジアムが反応する。

フランスが迷っている。
そう見えた。

後半15分。

小川が中央で受ける。
すぐに二人が寄ってくる。

普通なら戻す場面だった。
だが、小川は戻さない。

一度だけボールを止める。
その一拍で、一人の足が止まった。

井上へ預ける。
井上はワンタッチで返す。

小川はもうそこにいない。
次の場所へ動いている。

フランスの中盤が揺れる。

井上を捕まえようとすれば小川が空き、小川へ寄せれば井上が離れる。
その一瞬だった。

遠藤が背後へ走る。

井上は迷わない。
右足で通す。

実況:抜けた!!

GKが出る。

一歩だけ先に身体を入れる。

GKが飛び込む。
ベルナールも戻る。

だが、遠藤は止まらない。
ボールごと押し込むように右足を伸ばした。

ボールが転がる。
GKと遠藤がもつれたままゴールへ流れ込む。

ネットが揺れた。

実況:同点!! 遠藤さくら!! 日本、3点差を追いついたぁぁぁ!!

音が壊れた。

スタジアム全体が、何が起きているのか分からないまま爆発した。

日本 3―3 フランス。

わずか15分で、試合は振り出しへ戻った。

遠藤はゴールの中へ転がったまま、両手で顔を覆った。

すぐに井上が駆け寄る。
小川も走ってくる。

久保がその輪へ入り、山下と一ノ瀬、生田、池田も次々に飛び込んだ。
青い輪が、フランスゴール前で膨れ上がる。

梅澤は自陣から大きく拳を握った。
筒井もゴール前で静かに頷く。

ベンチは総立ちだった。

蘭世も与田も、林も立ち上がる。
川﨑は誰よりも大きく手を叩いていた。

スタンドの田村と賀喜も、大きく拍手を送る。

その熱まで背負うように、日本は同点へ辿り着いていた。

ベルナールはゴール前で両手を腰に当てる。
デュボワは膝に手をつき、荒く息を吐いている。
ガルニエはセンターサークルへ向かいながら、何度も首を振った。

モローは静かに手を叩く。
もう一度、落ち着かせようとしている。

だが、スタジアムはもう落ち着かなかった。

フランスが支配していたはずの空気は、日本の3つのゴールで完全に引き裂かれていた。

久保は仲間たちの輪から離れると、深く息を吸った。

まだ同点。
まだ勝っていない。

それでも。
前半、見えなくなっていた景色が、今ははっきり戻っていた。

久保:ここから

山下が頷く。

山下:うん。ここから勝つ

井上も息を整えながら前を見る。

井上:向こう、もう迷ってます

小川は静かに笑った。

小川:まだ、もっとズレます

遠藤はゆっくり立ち上がり、センターサークルへ戻る。

遠藤:次も取ろう

フランスボールで再開される。

だが、試合はもう前半とは別物だった。

日本は一度完全に壊れた。
そこから、自分たちの全部を出して戻ってきた。

世界中が、その瞬間を見ていた。
そして、フランスも理解していた。

この試合は、もう3-0の試合ではない。

ここから先は、どちらが最後に立っているかの勝負だった。

いいなと思ったら応援しよう!