INVERT ROLE 第55話 激圧 ― 準決勝ブラジル戦(後編)
スコアボードには日本1-0ブラジル。
残された時間は、もうわずかだった。
だが、ここからが本当の勝負だった。
スタジアムが揺れていた。
ブラジルは信じていない。
負けていることを。
ここはサンパウロだった。
ここはブラジルだった。
歓声がさらに大きくなる。
前へ出ろ。
取り返せ。
押し潰せ。
そんな声が四方から降ってくる。
だが日本は慌てない。
まだ終わっていなかった。
〇〇がすぐに動く。
交代ボード。
飛鳥→蘭世。
一ノ瀬→林。
実況:日本、守りに入ります!
解説:いや、これは整理ですね。押し込まれる時間を前提にした交代です
飛鳥はピッチを出ながら息を吐く。
蘭世と手を合わせる。
飛鳥:やっと本職来た
蘭世:お疲れ様
飛鳥:今日の私ほぼSBだったから
蘭世が笑う。
飛鳥も苦笑した。
身体は重かった。
それでも仕事はやり切った。
一ノ瀬も下がる。
W杯初スタメン。
準決勝。
苦しい相手だった。
ガブリエラに何度も仕掛けられた。
抜かれた場面もあった。
それでも最後まで壊れなかった。
林と手を合わせる。
一ノ瀬:後お願いします
林:任せて
林がピッチへ入る。
2人がベンチへ戻る。
〇〇:助かった
飛鳥:次は前で使ってください
〇〇:考えとく
飛鳥は鼻で笑った。
〇〇:よくやった
一ノ瀬は少しだけ驚いた顔をする。
そして小さく頷いた。
一ノ瀬:ありがとうございます
最終ラインが並ぶ。
五百城。
梅澤。
白石。
林。

日本は逃げない。
だが無理もしない。
守るべき時間を理解していた。
88分。
ブラジルが猛攻を仕掛ける。
マリア・フェルナンダが中央へ差し込み、ベアトリスがワンタッチで落とす。
そこへ走り込んだのは、またルアナだった。
右で受ける。
目の前には五百城。
スタジアムが総立ちになる。
ルアナが仕掛けた。
一度縦へ見せ切り返す。
さらにもう一度縦へ加速する。
今までで一番速かった。
五百城も食らいつく。
それでもルアナは止まらない。
ほんの半歩だけ前へ出る。
スタジアムが爆発した。
ルアナはそのままペナルティエリアへ侵入し、左足を振り抜く。
その瞬間だった。
五百城が身体を投げ出す。
脚も身体も全部使う。
執念のようなブロックだった。
ボールに触れコースが変わる。
シュートはゴールの外へ逸れた。
スタジアムが何度目かの悲鳴を上げる。
ルアナは立ち止まったまま空を見上げる。
五百城は倒れたまま起き上がらない。
荒い呼吸を繰り返す。
本当に最後の力だった。
実況:五百城、止めたぁぁぁ!!
解説:今日ずっとルアナと戦い続けてきました!!
ルアナが近付く。
倒れた五百城へ手を差し出す。
五百城が掴む。
引き上げられる。
ルアナ:まだ止めるんだ
五百城:負けない
ルアナは笑った。
悔しそうだった。
だがどこか楽しそうでもあった。
90分。
アディショナルタイムは5分。
その5分が永遠みたいだった。
ブラジルは何度もクロスを入れる。
日本は何度も跳ね返す。
またクロス。
今度は梅澤だった。
ベアトリスと激しく競り合いながらも頭で弾き返す。
だが終わらない。
セカンドボールへ蘭世が飛び込む。
先に触る。
大きく外へ蹴り出した。
スタジアムからため息が漏れる。
その後の猛攻が続く。
梅澤がはじき返す。
こぼれ球を白石が回収する。
五百城と林も突破を許さない。
田村が危険な場所を潰す。
菅原も最後まで追い続ける。
蘭世と生田も深い位置まで戻り、空いた外側を埋める。
遠藤も自陣まで下がって競り合う。
井上も中央へ絞り、次のパスコースを消していた。
日本は全員で守っていた。
93分。
ブラジルに最後の決定機が訪れる。
ガブリエラが左から仕掛ける。
林が付く。
一度は外へ追い出した。
それでもガブリエラは止まらない。
強引に中へ切り込み、右足へ持ち替える。
林も最後まで食らいつく。
完全には自由に打たせない。
それでもシュートは鋭かった。
ゴール右下へ向かう。
だが筒井が飛ぶ。
今日何本目か分からないセーブだった。
右手一本で弾き出す。
スタジアムが静まり返った。
解説:また筒井です……
実況:今日は本当に止め続けています……
筒井はすぐに立ち上がる。
叫ばず喜ばない。
ただ前を見る。
まだ終わっていなかった。
ブラジルも最後まで諦めない。
95分。
マリア・フェルナンダが前へ送る。
ベアトリスが競る。
梅澤も競る。
ボールは高く上がった。
落下点へ白石が入る。
大きく蹴り出す。
ボールがハーフウェーラインを越える。
その瞬間だった。
主審のホイッスルが鳴る。
試合終了。
日本の選手たちがその場へ崩れ落ちた。
座り込む。
倒れ込む。
立ったまま動けない者もいる。
歓喜より先に疲労が来る。
それほどの試合だった。
筒井はその場で膝をつく。
田村は大の字になって倒れ込む。
五百城もその場へ座り込んだ。
井上だけが立ったまま息を整えている。
誰もすぐには動けなかった。
実況:試合終了ぉぉぉぉぉ!!日本!! 決勝進出です!!開催国ブラジルを破ったぁぁぁ!!
黄色に染まったスタジアムの中心で、日本だけが立っていた。
シュート数では負けた。
内容でも押し込まれた。
耐えた。
壊れなかった。
そして一度だけ、自分たちの時間を作った。
日本らしい試合ではなかった。
それでも最後に残ったのは、日本だった。
ブラジルの選手たちはその場へ立ち尽くす。
ルアナは両手を腰へ当てたまま動かない。
ガブリエラは顔を覆う。
ベアトリスは芝を見つめていた。
マリア・フェルナンダだけがしばらくピッチを見渡していた。
支配した。
押し込んだ。
何度も決定機を作った。
それでも勝てなかった。
開催国だった。
優勝候補だった。
その夢が終わる。
久保はようやく立ち上がった。
ピッチへ向かう。
遠藤を抱きしめる。
五百城の頭を軽く叩く。
その顔には、どこか安堵も混じっていた。
梅澤はその場へ座り込んでいた。
主将はしばらく立てない。
その横へ白石が歩いてくる。
白石:立てる?
梅澤:無理です
白石:でしょうね
梅澤が笑う。
その光景を見ながら〇〇は息を吐いた。
ルアナは歩き出す。
その途中で五百城を見つけた。
ルアナ:次は負けない
五百城:私も
ルアナ:いや、次は私が勝つ
五百城:じゃあまた止める
ルアナは笑った。
そして今度は井上へ視線を向ける。
ルアナ:決勝、勝ちなよ
井上:もちろん
ルアナ:負けたら許さない
ルアナは最後に小さく手を振った。
イタリア。
フランス。
そしてブラジル。
3試合連続の死闘だった。
それでも。
まだ終わらない。
決勝が残っている。
決勝の舞台はリオデジャネイロ、マラカナン。
日本はとうとう、そこまで辿り着いた。
試合後の会見
会見場。
フラッシュが弾ける。
今大会で最も内容で押し込まれた試合。
それでも勝った。
だからこそ、記者たちの質問も今までと少し違っていた。
記者:最も苦しい試合だったのでは?
〇〇:そうですね
即答だった。
記者:シュート数では大きく押し込まれました
〇〇:ブラジルが良かったので
記者:特にルアナ・ヴェローゾについては
〇〇:世界最高クラスでした
記者席が静かになる。
〇〇:だから五百城もよく耐えた
記者:前半はほとんど自分たちの形を作れませんでした
〇〇:作らせてもらえなかった
記者:ハーフタイムでは何を?
〇〇:失点してないなら壊れてない、と
少しだけざわめきが起きる。
記者:それだけですか
〇〇:それだけです
記者:後半、久保選手を下げた判断について
少しだけ間が空く。
〇〇:限界だったので
記者席が静かになる。
〇〇:ここまで彼女が運んできたので、今日は、彼女を守る方を選びました
記者:その後、遠藤選手と生田選手を投入しました
〇〇:前で時間を作りたかったので
記者:五百城選手の持ち上がりから決勝点が生まれました
〇〇:普段はやらせてないだけです
会場が少し笑う。
記者:日本らしくない試合でした
〇〇:そうかもしれない
短い沈黙。
〇〇:でも、こういう試合も必要だった
記者:なぜですか
〇〇:押し込まれた時に勝てるかどうかは別の能力なので
記者:決勝進出です
〇〇は一度だけ前を向く。
〇〇:まだ後、1試合あります
■試合記録
結果:
日本 1-0 ブラジル
得点:
85分 遠藤さくら(アシスト:五百城茉央)
交代:
60分 久保史緒里 → 菅原咲月
70分 池田瑛紗 → 遠藤さくら
70分 川﨑桜 → 生田絵梨花
87分 齋藤飛鳥 → 寺田蘭世
87分 一ノ瀬美空 → 林瑠奈
統計:
シュート数:日本 6(枠内3)/ブラジル 22(枠内11)
支配率:日本 38%/ブラジル 62%
各メディアが見出しを打つ
「日本、開催国ブラジル撃破」
「耐えて勝った日本」
「筒井あやめ、準決勝の壁」
「五百城茉央、90分ルアナ封殺」
「白石麻衣、静かなMVP」
「遠藤さくら、決勝へ導く一撃」
「日本W杯決勝進出」
SNSの声もとまらない
「今大会で一番苦しかった」
「筒井止めすぎだろ」
「白石のカバー範囲おかしい」
「五百城VSルアナ熱すぎた」
「ルアナ本当に化け物だった」
「五百城の持ち上がりは震えた」
「遠藤決め切るのかっこよすぎ」
「久保の疲労が見えた試合」
「飛鳥ずっと守備してて笑った」
「遠藤と生田入って流れ変わったな」
「ブラジル相手に耐え切った」
「日本、勝ち方増えてる」
「これ優勝あるぞ」
「とうとう決勝」
ホテルへ戻るバスの中。
今までで一番静かだった。
喜ぶより先に、疲労が来ていた。
梅澤は窓へ頭を預けている。
久保は目を閉じていた。
遠藤も何も話さない。
五百城だけが窓の外を見ていた。
ルアナとの90分。
身体の至る所が痛かった。
五百城は小さく笑った。
次は負けない。
ルアナの言葉を思い出す。
だったら自分も負けない。
そう思った。
その少し前。
メディアでは、もう決勝の告知映像が流れていた。
決勝の相手はアメリカだった。
準々決勝。
準決勝。
その映像が短く流れる。
速い。
強い。
そして隙がない。
今大会ここまで無敗。
世界ランキング一位。
誰もが優勝候補に挙げるチームだった。
残るのは、あと一試合。
そして最後の相手。
誰も言葉にはしない。
それでも全員の視線は、もうマラカナンへ向いていた。
