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INVERT ROLE 第56話 到達 ― 決勝へ

7月21日。

サンパウロの朝は、静かだった。

前日の夜、黄色に染まったスタジアムで鳴り続けていた歓声は、もうどこにも残っていない。

午前はリカバリーだった。

出場時間の長かった選手たちは、プールとストレッチを中心に身体を戻す。

それでも、誰の表情も緩んでいなかった。

身体は休める。
だが、気持ちはすでに次へ向かっている。

午後。

分析室。

スクリーンにはブラジル戦の映像が映っていた。

設楽:ここだな

映像が止まる。

五百城が前へ出る直前だった。

部屋には、設楽、アルノ、〇〇、そして五百城だけがいる。

アルノ:左の前進距離が一気に増えてます

設楽:今までは止める側だったからな

五百城は黙って画面を見る。

〇〇は椅子へ軽く背を預けた。

〇〇:五百城が前へ出られるなら、タイドロジックは最初から使える

五百城が顔を上げる。

アルノ:左の交代を待たなくて済みます

〇〇:そういうことだ

設楽:相手は読みにくくなるな

五百城は再び画面を見る。

そこに映っているのはルアナではなかった。
前へ出ていく自分だった。

〇〇:明日、確認しよう

設楽:どこまで組み込めるかだな

アルノ:保持とネガトラも合わせて見ます

五百城:はい

返事は短かった。
だが、その目はもう画面ではなく、次の試合を見ていた。

7月22日。

午前のリカバリーを終えたあと、日本は軽めの調整へ入った。

負荷は高くない。だが、確認事項は多かった。

ピッチの左には五百城と池田。
反対側には山下。そして中央には久保が立つ。

ボールが動く。

久保が最終ラインまで降りた瞬間、五百城が前へ出る。
大外へ開き、その内側へ池田が入る。

一度形を止める。

〇〇:もう一回

選手たちは位置を戻した。
今度は逆だった。

五百城が内側へ絞る。
田村の横へ入り、池田が外へ開く。
ボールが流れ、久保が受ける。
その前に五百城が顔を出し、池田も動く。

〇〇は腕を組んだまま見ていた。

設楽:どうだ?

〇〇:悪くない

アルノもタブレットへ視線を落としたまま頷く。

アルノ:保持は問題ありません

〇〇:ネガトラは?

アルノ:一回確認したいです

再びボールが動く。

今度は意図的に攻撃を切らせた。
ボールを失う。

その瞬間、五百城が戻る。池田も戻る。久保も切り替える。
全員が素早く元の形へ収束していった。

設楽:思ったより速いな

〇〇:元々守備の選手だからな

短い確認だった。
だが十分だった。

久保が降りる。
五百城が上がる。

外にも出る。
内にも入る。

そして失った瞬間には戻れる。

〇〇:相手は基準を作れなくなるな

五百城は小さく頷いた。

決勝へ向けた最後の確認は、静かに進んでいた。

軽めの調整を終えたあと、全体ミーティングが始まった。

照明が落ちる。
スクリーンにはアメリカ代表の映像が映し出されていた。

アルノがリモコンを操作する。

最初に映ったのは中盤だった。

ボールを受ける。前を向く。慌てない。無理をしない。
それでもアメリカは前へ進んでいく。

映像が止まった。

アルノ:オリヴィア・モーガンです

バイエルン所属。
アメリカ代表主将。

今大会の中枢だった。

映像が再び動く。
派手なプレーはない。

ワンタッチ。ツータッチ。
ボールを失わない。

無理に崩そうともしない。
だが気付けばアメリカが押し上げている。

試合開始から終了まで、そのテンポが落ちない。

アルノ:90分ずっと同じ強度で試合を回します

部屋が静かになる。

設楽:一番嫌だな

アルノ:はい

小さな笑いが起きた。

〇〇は画面を見たまま口を開く。

〇〇:自由にすると、試合そのものを持っていかれる

久保は何も言わない。
ただ映像を見続けていた。

対戦相手として見るには、自分と少し似ていて。
そして、決定的に違う選手だった。

映像が切り替わる。
今度は左サイドだった。

ブルック・リード。

バルセロナ所属。

ルアナ・ヴェローゾと両翼を組むウイングだった。

ボールを受ける。
縦へ行く。

止められる。
また縦へ行く。

山下が静かに画面を見る。

アルノ:ルアナは見てから刺します。でもリードは先に刺します

設楽:脳筋か

アルノ:たぶん近いです

〇〇:止めても来るぞ

山下:はい

短い返事だった。

映像が切り替わる。
次はゴール前だった。

アレクシス・カーター。

オーランド所属。
アメリカの9番。

映像の中で、カーターは派手なプレーをしない。
それでもゴール前にいる。

気付けばネットが揺れていた。

部屋が静かになる。

アルノ:この人は決めるためだけにいます

設楽:こいつも嫌だな

アルノ:はい

〇〇:最後まで離すな

梅澤が頷く。
賀喜も画面を見たままだった。

最後の映像が流れる。

サマンサ・ウォーカー。

サンディエゴの守備リーダーだった。

映像の中で、ウォーカーは何度も前へ出る。

潰す。奪う。
それだけではない。

ウォーカーが一歩出る。
その瞬間、最終ライン全体が押し上がる。

また一歩出る。
今度は中盤まで連動する。

アルノ:この人が動くと、後ろ4人が一緒に動きます

映像が止まる。

アルノ:たぶん前半、日本が苦しむならここです

映像が消える。
部屋に明かりが戻った。

〇〇は選手たちを見渡した。

〇〇:今大会で一番強い

誰も否定しなかった。

〇〇:でも、90分同じ形で戦うチームだ

短い沈黙。

〇〇:俺たちは違う。試合の中で形を変えられる

短い沈黙。

〇〇:だから勝てる

部屋は静かなままだった。
だが、その言葉だけは誰も疑わなかった。

7月23日。

調整練習。

ブラジル戦から3日。
決勝まで残り2日となっていた。

ピッチには穏やかな空気が流れている。

だが、その中で選手たちの動きは確実に軽くなっていた。

イタリア戦、フランス戦、ブラジル戦。
日本は3試合続けて消耗の激しい試合を戦ってきた。

特に久保と梅澤はその中心だった。
それでも、この日の二人に疲労の色はほとんど見えない。

久保はいつも通りボールを受け、テンポを作る。
梅澤は変わらず最終ラインを動かしていた。

設楽:毎回思うけど、あいつら本当に人間か?

アルノ:また始まりました

設楽:いや、普通あそこまでやったら一回死ぬだろ

〇〇:死なないからここまで来てる

久保は聞こえていないふりをした。
梅澤も反応しない。

ただ当たり前のように次のメニューへ入っていく。

アルノ:コンディション数値も戻ってます

設楽:鉄人だな

〇〇:今さらだろ

聞き慣れた会話だった。

日本代表には、一つだけ足りないものがあった。

賀喜遥香。

イタリア戦で負傷交代して以降、その名前はスタメン表から消えていた。

フランス戦。ブラジル戦。
2試合続けて欠場。

勝ってはいた。
だが、本来の形ではなかった。

そして、最後のピースが戻ってきた。

賀喜は何事もなかったようにピッチへ立っていた。

賀喜は下がらない。正面から受け止め、半歩だけ前へ出る。
ボールへ先に足を伸ばし、最後は身体を入れて奪い切る。

梅澤:いいよ、かっきー。

賀喜:はい

設楽は小さく頷いた。

設楽:やっと揃ったな

〇〇は最終ラインを見る。

五百城。梅澤。賀喜。山下。
イタリア戦以降、一度も並ばなかった4人だった。

〇〇:ああ

その一言で十分だった。
決勝を戦う最終ラインが、ようやく揃っていた。

配置確認が続いている。

田村が中央で角度を作る。
久保が降りる。
井上が前を向く。

山下が高い位置を取る。
そして五百城が前へ出る。

タイドロジック。

ただし、今までの形ではない。
左の交代を待たない。

五百城自身が前へ出る。

久保:茉央、もう一歩前

五百城:はい

山下:そこ絞るなら、私は外張るよ

五百城:お願いします

ボールが流れ、五百城が受ける。
池田が内側へ入る。

久保が最終ラインまで降りる。
山下が位置を調整する。

誰も迷わない。

昨日まで確認していた形が、もう自然に回り始めていた。

設楽:馴染むの早いな

アルノ:想定より早いです

〇〇は腕を組んだままピッチを見る。
ブラジル戦で生まれたものが、すでに日本の構造へ組み込まれていた。

〇〇:これで基準が一つ増えたな

練習が終わり、選手たちが引き上げていく。
その中で、池田だけがピッチに残ってシュート練習を続けていた。

グループリーグでは4得点。
だが決勝トーナメントに入ってから、その名前はスコアシートにない。

走った。守備もした。役割も果たした。
それでも最後に残るのはゴールだった。

池田はボールを置く。

その時だった。
後ろからボールが転がってくる。

井上だった。

井上:もう一回

池田は何も言わず走る。

井上が縦へ出す。

池田が受け持ち出す。
右足を振り抜く。

ネットが揺れた。

井上:それ、最近ずっとやってる

池田:見てたの?

井上:見える

池田はボールを拾う。

井上:点決めてなくても、瑛紗がいると楽なんだけどね

池田は少しだけ笑った。

池田:でも、そういう話じゃない

井上は頷く。

井上:知ってる

短い沈黙。

井上:じゃあ決めよう

池田:簡単に言うなよ

井上:パスは出すから

池田:お願い

池田は転がったボールを拾う。
もう一度、井上へ視線を向けた。

井上:もう一回?

池田:うん

夕方のピッチに、再びボールが転がった。

7月24日。

午前。
日本代表はサンパウロを離れた。

開幕から過ごした街が、少しずつ遠ざかっていく。
この街から始まったW杯は、もう最後の場所へ向かっている。

午後。

リオデジャネイロ。
マラカナン。

前日のスタジアム練習。

巨大なスタジアムへ入った瞬間、空気が変わった。

まだ観客はいない。
歓声もない。

それでも、そこには決勝の重さがあった。

筒井はゴール前へ立つ。
遠藤はペナルティエリアを見つめる。
池田は左サイドを歩く。
川﨑は右のスペースを確認する。
久保は中央からピッチ全体を見渡していた。

前日練習は短かった。

冒頭15分だけが公開され、あとは非公開。

ボールを回す。
距離を確認する。

最後にセットプレーを合わせる。
それだけだった。

もう新しく積み上げるものはない。
ここまで積み上げてきたものを、確かめるだけだった。

練習の終わり際。

白石は一人でスタンドを見上げていた。

2011年。
優勝を知るのは、このチームで自分だけだった。

白石:あと1つか

会見場。

決勝前日の最後の記者会見だった。

フラッシュが白く弾ける。

〇〇の隣には久保が座っていた。

世界中のメディアが集まっている。

記者:アメリカ代表をどう見ていますか?

〇〇は少しだけ頷いた。

〇〇:強いです

短い返事だった。

記者:今大会最強という声もあります

〇〇:そうでしょうね

会場が静かになる。

〇〇:実際に完成度は高いし、決勝まで来るだけの理由もある

その言葉に異論はなかった。

記者:それでも勝てると?

〇〇は少しだけ笑った。

〇〇:勝つために来たので

続いて質問は久保へ向かった。

記者:アメリカと日本の違いは何だと思いますか?

久保は少し考えた。
会場も静かになる。

久保:向こうは完成されたチームだと思います

ペンが走る音だけが響く。

久保:でも、私たちは違う

久保は前を見たまま続けた。

久保:試合の中で変われるのが、このチームの強さだと思ってます

その言葉に、何人かの記者が顔を上げた。

ムーンロール。
スカイロール。
タイドロジック。

ここまで日本は一つの形だけで勝ち上がってきたわけではない。

記者:その強さが決勝でも出ると?

久保:出なかったら、ここまで来てないので

その表情は変わらなかった。

記者:大会MVP候補とも言われています

久保:興味ないです

今度は会場全体に笑いが広がった。

〇〇も隣で少しだけ目を細める。

記者:決勝で最も大事なことは何でしょう?

最後の質問だった。

〇〇は少しだけ考える。
そして静かに答えた。

〇〇:決勝だからって別のチームにならないこと

会場が静かになる。

〇〇:ここまで積み上げてきたものを出すだけだ

それ以上は言わなかった。

だが、それはこのチームそのものだった。

夜。

ホテルのラウンジ。

人の気配はほとんどなかった。
窓の外には、リオの夜景が広がっている。

最初に来ていたのは久保だった。

テーブルの上には水の入ったグラスが一つだけ置かれている。

しばらくして山下が来た。

山下:起きてたの?

久保:うん

山下は向かいへ座る。

少し遅れて梅澤が来た。

梅澤:二人とも、寝なよ

山下:梅もね

梅澤:私はキャプテンだから見回り

山下:便利な言葉

梅澤は小さく笑って、久保の隣へ座った。

最初は噛み合わなかった。

久保と山下はぶつかった。
梅澤はその間に立った。

それでも今、三人は決勝前夜の同じテーブルにいる。

山下が窓の外を見ながら言った。

山下:明日勝ったら、終わりだね

梅澤:終わるね

久保はグラスを見つめたまま黙っていた。

山下:寂しい?

久保はすぐには答えなかった。
少しだけ間が空く。

久保:少し

山下は何も言わない。
梅澤も黙っていた。

久保:ずっと、次の試合があったから

その言葉が、静かに落ちる。

アジアカップから、ずっと次の試合があった。

勝っても、次があった。
苦しくても、次があった。

考えるべき相手がいて、整えるべき形があり、戻るべき基準があった。

でも明日は違う。
勝っても負けても、終わる。

梅澤:でも、終わらせるために来たんでしょ

久保は小さく頷く。

久保:うん。勝って終わらそう

山下:久保がそう言うなら、大丈夫だね

久保:何それ

山下:なんとなく

梅澤が少しだけ笑う。
その笑いはすぐに消えた。

梅澤:明日も、後ろは任せて

山下:じゃあ私は動かす

久保:私は流れを作る

言葉にすると、あまりにも当たり前だった。
だが、その当たり前をここまで積み上げるのに、ずいぶん時間がかかった。

山下が立ち上がる。

山下:じゃあ、寝よ

梅澤も立つ。

梅澤:明日、いつも通りね

久保:うん

3人:おやすみ

誰も握手しない。
拳も合わせない。

ただ、それぞれの部屋へ戻っていく。

ラウンジに、久保だけが一瞬残った。

窓の外に、リオの夜が広がっている。

明日。
マラカナン。

決勝アメリカ戦。

世界一を決める試合。

久保は小さく息を吐き、グラスを空にした。

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