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INVERT ROLE 第37話 潮の理 ― GL第1節スペイン戦(中編)

ロッカールーム。

前半の息苦しさだけが、まだ部屋の中に残っていた。
誰もすぐには話さなかった。

水を飲む音。
テープを巻き直す音。
遠くから聞こえるスタジアムの残響。

久保がタオルで顔を拭い、ゆっくり口を開いた。

久保:……閉じられてる

山下:私が中に入るタイミング、全部見られてる

井上:前向いた瞬間、潰される

田村:でも、向こうも嫌がってる。桜の裏と瑛紗の一対一。そこは効いてる

梅澤が頷く。

梅澤:守備は大丈夫。最後は通されてない

筒井はグローブを外さないまま、静かに言った。

筒井:シュートは打たせていいです。今のままなら、コースは見えてます

短い沈黙。

〇〇がホワイトボードの前へ立つ。

前半の配置図。

中央へ重なった三つの磁石を見つめたまま、〇〇はしばらく動かない。

それから、〇〇はホワイトボードへ静かに手を伸ばした。

磁石が動く音だけが、小さく部屋に響く。

誰も口を開かない。

蘭世だけが一度視線を上げ、久保は小さく息を吐いた。

〇〇はボードを見たまま、短く言う。

〇〇:後半15分、蘭世の投入を合図にする

それだけだった。

蘭世が小さく頷く。

久保はボードを見たまま、静かに息を吐いた。

山下も何も言わない。

全員、何を変えるのかは分かっていた。
まだ、出していないだけだった。

後半開始。

スペインのテンポが上がる。

前半よりも、明らかに速い。
中央の三枚が立ち位置を入れ替え、日本の中盤の背中を取りにくる。

田村が一度外へ引き出される。
その空いた内側を、スペインは迷わず使ってきた。

山下が戻り、賀喜が外へ出る。
梅澤が中央を締め、なんとか一度クリアする。

だが、ボールはまた戻ってくる。

スペインの保持が止まらない
押し返しても、また押し込まれる。

日本は徐々に、自陣から出られなくなっていた。

観客席の声が低くなる。
期待ではなく、不安が混じる。

実況:後半、スペインがかなりギアを上げてきました

解説:日本、ここは苦しい時間ですね

52分。

スペインが右から崩しに来る。

ワンタッチが三つ続き、五百城が外へ引き出された。
梅澤がスライドする。

その隙間を使われ、低いクロスが入る。
ソフィア・ルイスが飛び込む。

だが、賀喜が半歩先に身体を入れた。

ボールは流れる。
そのこぼれ球へ、今度はルシア・ベルナールが走り込んだ。

ペナルティエリア手前。
迷わず右足を振る。

筒井は大きく飛ばない。

横へ一歩だけずれ、両手で静かに収める。

そのまま身体を丸めた瞬間、スタジアムが一度、大きく息を吐いた。

賀喜:ナイス、あやめ!

筒井は立ち上がりながら、ボールを抱えたまま周囲を見た。

筒井:焦らないで。まだ形は崩れてない

その言葉が、後ろから前へ伝わっていく。

崩れていない。

それだけで、選手たちの呼吸が戻る。

55分。

久保が中央で受ける。

すぐに二枚が寄ってくる。
逃げ場は少ない。

それでも久保はターンせず、ワンタッチで井上へ落とした。

井上も止めない。
そのまま外へ流し、山下が前を向く。

スペインのラインが一瞬だけ揺れる。

山下は低いボールを中央へ差し込んだ。

遠藤はCBを背負ったまま収め、無理に反転しない。
そのまま落とす。

だが、井上へ入る直前でスペインが潰した。

スタジアムが息を吐く。
崩し切れない。

それでも、日本はまだ前へ届いていた。

60分。

〇〇がベンチを動かす。

交代ボードが上がる。

五百城→蘭世

ピッチ際ですれ違う瞬間、二人は短く言葉を交わした。

五百城:左、頼みます

蘭世:任せて

その直後、〇〇がベンチに下がる五百城の肩を軽く叩いた。

〇〇:よく耐えた。ここから変えるぞ

五百城:お願いします


実況:日本、寺田蘭世を入れて左からの推進力を足しますかね

解説:幅はかなり取りにいくと思います

筒井から、日本のビルドアップが始まる。

蘭世は高い位置を取ったまま動かない。

その瞬間だった。

久保が、左の最終ラインまで降りる。

実況:……久保、最終ラインまで落ちました

解説:位置を下げましたね

久保はそのまま、梅澤の横でボールを受ける。

スペインの前線が、一瞬だけ出るのを止めた。

田村が中央を支え、DFラインは距離を広げる。

山下は右で高い位置を取ったまま動かない。
下がらず待っている。

実況:山下も位置を変えません

解説:前半とは違いますね。日本、構造そのものを変えてきました

左では、蘭世が大外へ張る。
それだけで、スペインの右サイドが一歩下がった。

そして、池田は外へ流れない。
少しだけ中へ入る。

ペナルティエリア角。

CBとアンカー、両方の背中が見える位置だった。

スペインの中盤が、初めて迷う。

誰を捕まえるのか。

その数秒だけ、日本の空気が変わった。

誰が見るのか。

池田をCBが見るのか。
右SBが絞るのか。
中盤が戻るのか。

その一拍が、日本の時間になった。

実況:日本、変わりました。久保がかなり低いです

解説:山下を高い位置に固定しましたね。左には寺田。これはかなり大きく変えてきました

だが、実況が言い切る前に、ボールはもう動いていた。

久保が低い位置で受ける。

スペインの前線が寄せてくる。
それでも久保は急がない。

一度足元で止め、相手を引きつけてから田村へ預ける。

田村も止めない。
ワンタッチで戻す。

久保はそのリターンを受けながら身体の向きを変え、今度は右へ通した。

山下は高い位置で受ける。

スペインが潰しに来る。
だが、山下も持たない。

すぐに久保へ返す。

その瞬間、スペインの中盤が中央へ寄った。

久保は迷わない。
今度は左へ大きく展開する。

蘭世が受けた瞬間、縦へ出る。

スタジアムの空気が、一気に前へ傾いた。
蘭世は抜き切らない。

一度止めて、井上へ預ける。

井上が戻す。

蘭世がもう一度前へ出る。

スペインの守備が後ろ向きになる。

その一連を見ながら、池田は中で一歩だけ動いた。
まだ、ボールは来ない。

だが、相手の視線が自分から外れる。

日本のボール回しに、初めて流れが生まれていた。

低い位置へ降りた久保を起点に、スペインの守備が少しずつ揺れ始める。

押し込まれていた時間とは、空気そのものが変わっていた。

65分。

日本は初めて、スペインの守備を左右に振り切った。

久保が低い位置で組み立てることで、中央の渋滞が薄れる。
山下は高い位置で、相手を引きつけるだけで意味を持つ。

蘭世が左の幅を固定し、池田が内側で待つ。

さっきまで同じ場所に集まりすぎていた流れが、今は縦横に伸びていた。

スペインの選手たちの声が増える。

指差しが増える。

日本のベンチも、その変化を感じていた。

設楽が小さく言う。

設楽:これ、向こう迷ってます

〇〇:まだ足りない

アルノがタブレットに目を落とす。

アルノ:……次、池田空きます

〇〇は頷かない。

ただ、腕を組んだままピッチを見る。

次の一本を待っていた。

70分。

久保が低い位置で受ける。

スペインの前線が寄せてくる。

だが、日本は慌てない。

DFラインでワンタッチで繋ぎながら、もう一度久保へ戻す。

その瞬間、右で山下が手を上げた。

久保は迷わず通す。

山下が高い位置で受ける。

スペインが二枚寄る。

だが、山下はそこで初めて止まった。

持って相手を引きつける。

右へ行くふりをして、逆サイドへ大きく展開した。

蘭世が大外で受けた瞬間、そのまま縦へ出る。

スペインの右サイドが後ろ向きになる。

井上が近づき、ワンツーで返す。

蘭世がさらに深く入る。

その瞬間だった。

中央で、アイタナ・ロドリゲスが遅れる。
池田への視線が、一歩外れた。

低い折り返し。

池田が、そのズレの中へ入る。

正面にはカルラ・メンデス。

だが、池田は止めない。

右足の内側でわずかにずらし、カルラの足を外す。

もう一人が寄る。
それでも、池田は顔を上げなかった。

見ているのは、ゴールだけだった。
右足を振る。

ボールはDFの足の横を抜け、エレナ・ソレールの指先より先に、ゴール右へ吸い込まれる。

ネットが揺れた。

一瞬遅れて、スタジアムが爆発する。

実況:決まったぁぁぁぁぁ!! 池田瑛紗!! 日本先制!! スペイン相手に、日本が先にこじ開けました!!

池田は走り出さなかった。
その場で拳を握る。

次の瞬間、川﨑が真正面から飛びついた。

川﨑:ナイスゴール!!

井上が池田の肩を掴み、そのまま全員が一気に集まった。

歓声が落ちてこない。
揺れている。

スタジアム全体が、日本のゴールで震えていた。

輪の外で、久保が低い位置のまま小さく拳を握る。

山下は右サイドで立ち止まり、ようやく小さく笑った。
自分が動かした流れが、最後まで繋がった。

それが分かっていた。

ベンチ前では、設楽が思わず声を上げていた。

設楽:来た……!

〇〇は腕を組んだまま、ピッチを見る。

だが、口元だけが少し緩んでいた。

完成した。
そうではない。

ようやく、流れた。
その感覚だった。

スペインはすぐに前へ出てきた。

失点して初めて、保持のテンポが乱れる。

アイタナが受ける。
ルシアが落ちる。
マルタが内側へ入る。

だが、前半までの滑らかさがない。

パスが半歩速い。

立ち位置交換も、どこか急いでいる。

実況:スペイン、かなり前掛かりです

解説:ええ。焦ってますね

アイタナが苛立ったように手を振る。

その視線の先には、中央へ入り続ける池田がいた。

一瞬だけ、ルシアとマルタも視線を向ける。

バルセロナで、何度も見た動きだった。

CL決勝。
あの日も、最後に試合を壊したのは池田だった。

スペインの中盤が、初めて感情を見せ始める。

日本は一度、押し込まれる。

蘭世の背後を使われる。

クロスを梅澤が跳ね返し、こぼれ球を賀喜が潰す。
さらにセカンドに田村が身体を入れる。

倒れながらも、ボールだけを外へ逃がした。

田村:切らすな!

声が枯れかけていた。

それでも、日本は切れない。
苦しい時間を、今度はただ耐えるだけではなく、次の攻撃へ繋げようとしていた。

75分。
スペインも止まらない。

アイタナが中央で受ける。
井上が寄せる。

アイタナは強引に身体を入れ替え、そのまま井上へぶつかる。

井上の身体が流れた。

笛。

遅れて、井上が倒れる。

スタジアムがざわついた。

アイタナもすぐに振り返る。

だが、井上はすぐに立ち上がれない。

久保が駆け寄る。

久保:和、大丈夫?

井上は一度立とうとする。
だが、右足へ体重を掛けた瞬間、表情が歪んだ。

すぐに日村とメディカルスタッフが入る。

井上は何かを言おうとした。

だが、日村が先に首を振る。

その瞬間、日本の空気がわずかに止まった。

後半に入ってから、ようやく流れ始めていた。

その中心が、一枚消える。

スペインも、それを感じていた。

アイタナが一度だけベンチを見る。
ルシアとマルタも、小さく立ち位置を確認し直す。

日本の勢いが止まる。
そう思った空気が、確かにあった。

ベンチが動く。

〇〇は表情を変えない。

ただ、交代カードだけがすぐに準備された。

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