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INVERT ROLE 第53話 激圧 ― 準決勝ブラジル戦(前編)

7月20日。

サンパウロ。
アレーナ・イタケーラ。

日本は帰ってきた。

W杯初戦を戦いスペインを倒した場所。

長く滞在したホテル。
見慣れた食堂。
見慣れたラウンジ。

すべてが近くにある。
だが、今日だけは違った。

見えるものすべてが黄色だった。
スタジアムの外から歌声が聞こえてくる。

太鼓が鳴る。
歓声が重なる。

叫び声と熱気が混ざり合い、空気そのものがブラジルだった。

開催国ブラジルとの準決勝。

ピッチへ出る前から、すでに試合は始まっていた。

ロッカールーム。

いつもより静かだった。

フランス戦。

120分。

0-3からの大逆転。

勝った。

だが、代償も大きかった。

山下はいない。
与田もいない。

累積警告。

賀喜も引き続き負傷中。

3人は、この日スタンドから試合を見守ることになる。

ロッカールームには重い空気が残っていた。

フランス戦の歓喜はある。
だが身体は正直だった。

梅澤はテーピングを巻き直している。
久保は膝へ手を当てたまま目を閉じていた。

遠藤も静かだった。

誰もが疲れている。
それを隠そうともしていなかった。

〇〇はホワイトボードの前へ立つ。
いつもより言葉は少ない。

〇〇:今日は苦しくなる

誰も反応しない。
分かっていたからだ。

〇〇:押し込まれても、走らされても、失点しなければ終わらない

部屋が静かになる。

〇〇:失点しない限り、壊れない

梅澤が顔を上げる。
久保も目を開く。

〇〇:それだけ覚えておけ

大型ビジョンへスタメンが映し出される。


実況:日本、遠藤さくらがベンチスタートです!

スタンドがどよめく。

解説も少し驚いた表情を見せた。

解説:今大会ここまで全試合先発でしたからね。フランス戦の消耗を考えれば不思議ではありませんが、大きな決断です

実況:そして池田瑛紗のワントップ。で齋藤飛鳥が今大会初先発で左WGに入ります

解説:初めてですね。遠藤とは全く違うタイプです

実況:一ノ瀬美空と白石麻衣も今大会初スタメンです

解説:山下美月不在の中で、大きな役割を任されました

日本は万全ではない。
それは誰の目にも明らかだった。

国歌斉唱。

整列。

ブラジルの選手たちは自然体だった。

その列の中で、一人だけ笑っている選手がいる。

ルアナ・ヴェローゾ。

ブラジルの10番。
世界最高クラスのアタッカー。

ルアナは握手の列で井上の前に立つ。
手を差し出す。

井上も応じる。

ルアナ:今度は勝つから

井上:負けないよ

ルアナ:強がるね

井上:別に

井上は表情を変えない。

ルアナは小さく笑う。
そのまま視線を横へ向けた。

五百城だった。

ルアナ:あなたも、今日は抜くよ

五百城:じゃあ止める

短いやり取り。
それだけだった。

だが互いに十分だった。

ルアナは笑ったまま列へ戻る。

ホイッスル。

試合が始まった。

開始直後からブラジルは前へ出た。

探らない。
様子も見ない。

最初から飲み込みに来る。

右にはルアナ・ヴェローゾ。
左にはガブリエラ・コスタ。
中央にはベアトリス・ソウザ。

そこへ二列目が次々と飛び込む。
ブラジルの攻撃は構造より熱量だった。

開始3分。

マリア・フェルナンダが中央で奪うと、そのまま右へ展開する。

ルアナが受け、縦へ仕掛ける。

五百城が食らいつく。

それでもルアナは無理をせず、内側へ落とした。

マリアがワンタッチで逆サイドへ展開する。
今度はガブリエラ。

一ノ瀬が出る。

ガブリエラは迷わず縦へ加速した。

一ノ瀬を振り切り、鋭いクロスを入れる。

中央へ飛び込んだベアトリスが梅澤と競り合いながら落とす。
そこへ二列目が走り込む。

だが、その前へ白石が身体を入れた。

ボールは大きくクリアされ、スタジアムがどよめく。

日本は何とか凌いだ。

開始5分。

久保が中央で受ける。
ターンして前を向く。

いつもなら一拍で剥がせる場面だった。

だが今日は少し違う。

ボールを置く位置も、身体の向きも、判断も間違ってはいない。
それでも、ほんのわずかに遅い。

久保は自分でも分かっていた。

身体が重い。
動けないわけじゃない。
ただ、いつもの切れがない。

フランス戦の120分は、まだ身体の奥に残っていた。

実況:久保、今日は慎重ですね

解説:そうですね。いつもよりタッチ数が一つ多いです

日本は自陣へ押し込まれていた。

今大会で初めて、主導権を完全に握られる。

ボールを持てない。
前へ出られない。

7分。

ガブリエラが左サイドで仕掛ける。
一ノ瀬が止める。

もう一度来る。
それも止める。

だが三度目だった。

今度は縦へ抜け切られる。
ガブリエラのクロスに、中央でベアトリスが飛び込む。

シュートの瞬間、白石が身体を寄せてコースを狭める。
それでも完全には消し切れない。

ニア下へ飛んだ鋭い一撃に、筒井が左手一本で反応した。
弾かれたボールがポストを叩き、スタジアムが悲鳴に包まれる。

実況:止めたぁぁぁ!!

解説:白石がコースを限定しましたが、それでも難しいシュートでした。最後は筒井ですね

それでもブラジルは止まらない。

ルアナ。
ガブリエラ。
ベアトリス。
アナ・クララまで高い位置へ上がってくる。

歓声が落ちてくる。
ピッチが傾く。

日本は耐えるしかなかった。

そしてその中で、もう一つの問題が少しずつ顔を出し始める。

梅澤だった。

反応が半歩遅い。
読みが外れるわけじゃない。

位置も悪くない。
だが身体が追いつかない。

フランス戦。
イタリア戦。

2試合連続120分。

主将の身体にも限界はあった。

梅澤が半歩遅れる。
その半歩を白石が埋める。

ルアナへの縦パス。
ベアトリスへの楔。

危険になる前に、白石が先にいる。

派手なプレーではない。
それでも白石がいなければ、日本はとっくに壊れていた。

日本はまだ立っている。

ただ、その代わりに前へ出られない。

池田は孤立していた。

ゴールの近くで待つ。
CBの間へ残り、裏だけを狙う。

それが池田の仕事だった。

だから前線では消えない。
だが繋がらない。

池田へ届く頃には、もうブラジルが囲んでいる。

それでも川﨑だけは走り続けていた。

ボールが来るかどうかは関係ない。
空いたスペースへ飛び出す。

裏を狙う。
また走る。

わずかでも出口を作るためだった。
その動きだけは、ブラジルの最終ラインも無視できない。

そして飛鳥も苛立ち始めていた。

ようやく準決勝にして初先発。
だというのに。

気付けば自陣まで戻らされている。

ルアナを追う。
アナ・クララを追う。

また戻る。

飛鳥:……なんで私がここにいるんだよ

誰にも聞こえない声だった。

飛鳥:守備なら蘭世でいいじゃん。それか池田と私のポジション変えろよ

文句を言いながらも、また走る。
それが飛鳥だった。

前半15分。

シュート数はブラジル7本、日本0本。

それでもスコアは動いていなかった。
まだ壊れていなかった。

前半20分。

ブラジルは勢いを落とさない。
むしろ時間が経つほど熱を増していた。

中央ではマリア・フェルナンダがボールを回収し、繋ぎ、また回収する。

派手なプレーはない。
それでも必ずそこにいる。

ブラジルの攻撃が終わらない理由だった。

22分。

ルアナが右サイドで受ける。
五百城と向き合う。

一歩踏み込み、止まり、再び加速する。

右を見せる。
左も見せる。
縦もある。

すべてを見せながら揺さぶってくる。

それでも五百城は飛び込まない。
釣られない。

ルアナは少しだけ笑った。
そして今度は中央へ切り込む。

五百城も離れない。

そこへ、ベアトリスが降りてきた。
ワンタッチで落とす。

二列目から走り込んだガブリエラが右足を振り抜く。

白石がコースへ入る。
それでも完全には消し切れない。

ボールはゴール左下へ向かう。

筒井が横っ飛びで反応する。

指先で触れたボールはゴールの外へ逸れ、スタジアムが一斉に頭を抱えた。

実況:また筒井!!

解説:今日は筒井で持っている部分もあります!

筒井は立ち上がる。

声を張ることもない。
ただ短く言った。

筒井:まだ大丈夫です

その声が不思議と落ち着いていた。

25分。

日本はようやく中央でボールを繋ぐ。

久保。
田村。
井上。

三人がいつものように三角形を作る。
だが続かない。

久保へ寄せが来る。

いつもなら外せる。
それでも今日は外し切れない。

一歩だけ余計に使う。
その一歩でブラジルが追いつく。

井上も前を向けない。

一ノ瀬も気付いていた。

久保のテンポがいつもと違う。
だから中へ入るタイミングが作れない。

しかもガブリエラは高い位置に残ったままだった。

一ノ瀬が絞れば、その背後を使われる。
結局、外に留まるしかない。

日本の得意な形が噛み合わない。

実況:ブラジルの圧力が凄いですね

解説:それもありますが、日本の中盤がいつもほど自由じゃないですね

28分。

ベアトリスは執拗だった。

梅澤へ身体をぶつける。
競り合う。

離れても、またぶつかってくる。
今大会最強クラスのセンターフォワードらしい圧力だった。

ロングボールが入る。
ベアトリスが競り、梅澤も跳ぶ。

先に触ったのは梅澤だったが、完全には勝ち切れない。

こぼれ球が危険な場所へ落ちる。

その瞬間、白石が先に身体を入れた。
ボールは大きくクリアされ、ようやく日本は外へ逃がす。

ベアトリスが息を吐く。

梅澤も息を吐いた。

ベアトリス:重そうだね

梅澤:うるさい

ベアトリスが笑う。

だが梅澤には笑い返す余裕もなかった。
フランス戦から続く疲労は消えていない。

脚も重い。
肺も重い。

それでも主将は倒れられなかった。

31分。

ブラジルにこの試合最大の決定機が訪れる。

高い位置まで上がったアナ・クララがルアナとワンツーを交わす。

五百城が外へ引き出される。

飛鳥も必死に戻る。
だが間に合わない。

その瞬間に空いた内側へ、ルアナが一気に侵入した。

完全に抜け出す。スタジアムが総立ちになる。

左足から放たれたシュートはゴール右上へ向かう。

完璧だった。
誰もが入ったと思った。

だが筒井だけは諦めていない。
身体を限界まで伸ばし、指先で触れたボールはバーを叩いて上へ弾かれた。

スタジアムが悲鳴を上げる。

ルアナも思わず両手を広げた。
信じられなかった。

実況:止めたぁぁぁぁぁ!!

解説:今のは世界トップレベルのセーブです。ルアナも決めたと思ったでしょうね!!

五百城が筒井を見る。
筒井は何事もなかったように立ち上がる。

35分。
日本は初めてチャンスを作る。

田村が回収したボールを久保へ預ける。

一ノ瀬が思い切って内側へ絞る。
ガブリエラの背後を空けるリスクはある。

それでも日本は中央を通したかった。

久保はその動きを使って井上へ差し込む。
井上は中に入った一ノ瀬へ落とした。

一ノ瀬はワンタッチで右へ展開する。
苦しみながらも中央を通した日本は、ようやく川﨑までボールを運んだ。

川﨑は寄せてきた相手を振り切ると、中へ持ち込んで右足を振り抜く。

シュートは枠を外れる。

それでも日本ベンチは拍手した。
この試合で初めて、自分たちの形で前進できたからだった。

40分。

井上が中盤まで降りる。
マリア・フェルナンダが追ってこない位置まで下がり、ようやく前を向いた。

顔を上げる。
池田はまだ前線に残っていた。

井上のロングボールが入る。
池田は巧みに足元へ収める。

二人に囲まれる。
それでも細かくボールを動かしながら隙間を作る。

わずかに空いたコースへ右足を振り抜いた。

シュートはブロックされたがCKを獲得する。

これが日本2本目のシュートだった。

井上のCK。

梅澤が競るが惜しくも合わない。
それでも日本は久しぶりにブラジルゴール前へ人を集めることができた。

実況:日本、本当に苦しいですね

解説:ただ0-0なんですよ

実況:そうなんですよね

解説:内容はブラジルです。でもスコアは動いていない

43分。

前半終了が近付く中、ブラジルが最後の猛攻を仕掛ける。

ガブリエラ。
ベアトリス。
ルアナ。

3人が立て続けに日本ゴールへ迫る。

最後はベアトリスだった。
裏へ抜け出す。

梅澤も追う。
だが半歩届かない。

完全な一対一。
スタジアムの歓声が一気に大きくなる。

その瞬間、先に動いたのは筒井だった。

ペナルティエリアを飛び出し、迷いなくスライディングする。
ベアトリスより先にボールへ触れ、タッチラインへ逃がした。

スタジアムがどよめいた。

実況:筒井飛び出した!!

解説:あれを迷わず出られるのが筒井ですね!!

ブラジルの攻撃は終わらない。
だが時間だけは減っていく。

そして前半終了。

ホイッスル。

シュート数は14対2。

内容だけを見れば、完全にブラジルだった。

黄色の歓声がスタジアムを包んでいる。

それでも。
スコアボードだけは変わらない。

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