第16集 妖走記『風のまにまに』(全5話+レシピ)
風の裏側で、妖が走る。
夜道の気配に耳を澄ませば、怖さの隣に空腹が来る――
不思議とおいしい五つの怪談が、火を灯します。
このショートストーリーは、HPで連載した5話をまとめています。
一気読みしたい方・レシピを保存して使いたい方におすすめです ♪
物語の味を支えるスパイスはこちらです→
作者:ビリケン(ランニング社会学を研究する元漁師)
※「ランニング社会学」とは、走ることを通じて社会を観察し、社会を通じて走ることの意味を解き明かすこと
~序章 「風の夜」~
「風が変わった」
化け狸の与作が言ったのは、煙草の火を消すときだった。
浅草六区の裏手、夜更けの瓦屋根。吐き出された煙が南から北へ、まるで川のように流れてゆく。
与作の目は細められ、その視線の先には人間たちの眠る町が広がっていた。電灯の明かりが、かつての闇を侵食している。
「…走り日和だな」
呟きが闇に沈むと同時に、周囲の気配が変わった。ひとつ目小僧が石灯籠の影から這い出し、ぬらりひょんが塀の上に音もなく立つ。いずれも足袋を履き、腰には走り数珠を下げている。
妖の世界には古い習いがある。
風が変わる夜、人の世と妖の世の境が揺らぐ刻、-影走り- が行われるのだ。
橋から橋へ。屋根から屋根へ。人間の目には映らぬまま、風を追いかけて走る。それは祭りであり、祈りであり、忘却への抵抗でもあった。妖たちは走ることで己の存在を確かめ、消えゆく世界に最後の足跡を刻む。
与作は煙草を捨て、静かに立ち上がった。瓦の冷たさが足裏に伝わる。
風が、頬を撫でた。
第一話 化け狸の与作、影を走る
与作は、かつて「変化の名人」と呼ばれた化け狸である。
人を化かし、夜道で迷わせ、時には命を救うこともあった。変化とは技であり、芸であり、妖と人とを繋ぐ言葉でもあった。茶釜に化けて商家の主人を驚かせ、美女に化けて侍を誑かし、子供に化けて迷い人を導く。それが与作の生き方だった。
だが時代は変わった。
人間どもは夜更かしを覚え、電灯を灯し、闇を恐れなくなった。妖の気配に気づく者など、もういない。化かす相手のいない妖は、存在しないも同然だ。
「寂しいもんだな」
愚痴をこぼした夜、ぬらりひょんが声をかけてきた。
「風が鳴いておる。久々に走ってみぬか、与作」
「走ってなんになる?」
与作は鼻を鳴らした。だがぬらりひょんの表情は穏やかだった。老妖怪の目には、何か深い意味が宿っている。
「走らにゃ、風は掴めん。掴めねば、己が消えたことにも気づけぬ」
そう言い残して、ぬらりひょんは闇に溶けた。
与作は屋根の縁に立ち、自分の足を見下ろした。化けることに費やしてきた長い年月。だが、この足で地を蹴ったことが、確かにあった。まだ若く、山を駆け回っていた頃の記憶が、足裏に残っている。
風が頬を撫でる。
与作は、走り始めた。
浅草寺の裏を抜け、仲見世の屋根を跳ぶ。瓦の冷たさ、足裏に残る感触。吾妻橋の欄干に手をかけ、月明かりに照らされた隅田川を一跨ぎ。体が軽い。まるで若い頃に戻ったかのように。
川面には灯籠の火がひとつ、またひとつと流れていた。盆が過ぎてもなお、誰かの祈りが水に揺れている。死者を送る灯り。消えゆく命の名残。
与作は走りながら、ふと思った。
走るとは、何かを追いかけることではない。何かから逃げることでもない。ただ、風になることだ。己の輪郭を溶かし、この世とあの世の狭間に身を置くこと。それは、妖が妖であるための、最後の術かもしれなかった。
風を切る音が耳に心地よい。息が上がる。心臓が、確かに鳴っている。
「悪かねぇな」
与作は笑った。
人を化かすより、風を追う方がずっと自由だ。
走り終えた与作は、稲荷町の裏路地にある茶屋「狐火庵」へ立ち寄った。
ここは妖たちの隠れ家である。走り終えた者たちが体を癒やし、夜食を囲む場所。人間には見えぬ暖簾をくぐれば、薄暗い店内に狐火がゆらゆらと揺れている。
主は、妖狐のお静。白い着物に赤い帯を締めた、艶やかな老狐だ。
「おや、与作じゃないか。久しぶりに走ったんだってねぇ」
「ああ。思ったより腹が減った」
「そうだろうさ。走ると腹が鳴る。腹が鳴ると、心も鳴る。妖も人も同じだよ」
お静は笑いながら、湯気の立つ椀を差し出した。
【レシピ】山椒と味噌の夜粥
<材料>
・米 一合
・出汁(昆布と椎茸) 400ml
・味噌 大さじ1
・刻み生姜 小さじ1
・山椒粉 小さじ1/2
・ランナーズスパイス(ヴィーガン) 小さじ2
・木の芽(または山椒の芽) 適量
<作り方>
1. 鍋に出汁を沸かし、洗った米を入れて弱火でコトコト煮る。蓋は少しずらし、焦げ付かぬよう時折かき混ぜる。
2. 米が柔らかくなったら火を弱め、味噌を少量の煮汁で溶いてから加える。
3. 刻み生姜と山椒粉とランナーズスパイスを入れ、ひと煮立ちさせる。
4. 椀によそい、木の芽(または山椒の芽)を浮かべて香りを添える。
「ほう…こいつぁ…風の味がする」
与作は椀を両手で包み込み、ゆっくりと啜った。生姜の辛みと山椒の香り、そして味噌の複雑な温もりが、夜の冷えを溶かしていく。走った後の体に、染み渡るような優しさだった。
お静が膝をつき、隣に座る。
「走るってのは、忘れられないためじゃないんだよ」
「じゃあ、何のためだ?」
「忘れるため、さ」
与作は顔を上げた。
「己が何者だったか。どこから来たか。そんなもん、全部風に預けちまう。そうすりゃ、また次の夜も走れるのさ」
お静の言葉は静かで、けれど確かだった。妖は記憶に縛られる生き物だ。過去の栄光にすがり、失われた時代を嘆く。だが走ることで、その重荷を風に返すことができる。
与作はもう一度、粥をすすった。味噌の塩気が舌に残る。走った後の体は、こんなにも素直に食を求めるのか。
「…なるほどな」
与作は椀を置き、夜空を見上げた。
そこには風が、川のように流れていた。走ることは、風になること。消えゆくものが、わずかにこの世に痕を残すための術。
翌朝、隅田川の岸辺に、小さな木の葉が一枚落ちていた。
誰も拾わぬまま、それは水に流され、やがて見えなくなった。
【夜のあとがき】
影走りの夜が明け、江戸の町はいつもの朝を迎える。
魚河岸の威勢のいい声。豆腐屋のラッパ。人力車の車輪が石畳を叩く音。
人々は知らぬ。昨夜、自分たちの屋根の上を、妖たちが風となって駆け抜けたことを。
ぬらりひょんは独り、浅草の高台で煙管をくゆらせている。
「妖の世も、まだ息がある」
呟きは誰にも届かない。それでいい。
風が吹いた。
その風の中に、走る足音が混じる。軽く、速く、そして懐かしい。
誰も見ぬまま、妖たちは今日も風を追う。この世とあの世の狭間で。走ることだけが、確かな生の証であるかのように。
与作は今夜も、煙草を吹かしながら屋根に座っている。
風が変わるのを、待ちながら。

第二話 ひとつ目小僧の夜道走
ひとつ目小僧の弥太は、目を伏せて歩く癖があった。
ひとつしかないその目は、人の心の奥底まで映してしまう。喜びも、悲しみも、憎しみも、欲も、見たくないものまで見えてしまう。だから弥太は、見ようとせぬようにしていた。地面の石畳だけを見つめて、誰とも視線を交わさぬように。
妖怪として生まれながら、人の世に紛れて生きる。それは容易いことではなかった。
人は弥太を避けた。理由も分からず、ただ本能的に。弥太の目に映るものが、あまりに真実すぎるから。誰もが心の奥底に隠しているものを、その一つ目は容赦なく見抜いてしまう。
だが、風が変わる夜があった。
「弥太」
ぬらりひょんが、いつもの飄々とした口調ではなく、凛とした声で名を呼んだ。
「お前の目は闇を見るためのものではない」
弥太は顔を上げた。老妖怪の表情は、月影に沈んで読めない。
「では、何のために…?」
「道を見定めるためのものだ」
ぬらりひょんは、細い指で夜空を指した。
「走ってみろ。風の道が見える」
それが、弥太の初めての-影走り-の夜だった。
夜更けの吉原裏。
遊郭の喧騒が遠ざかり、提灯の灯がひとつ、またひとつと消えていく。人の気配が薄れ、妖の時間が訪れる刻限。
弥太は小さな路地の角で、足袋の紐を結び直した。
月が薄雲に隠れ、江戸の闇が一層深く沈む。
指先が震えていた恐怖ではなく、期待に。
最初の一歩は、恐る恐るだった。
足裏に冷たい石畳の感触。耳に届くのは、遠くの犬の遠吠えと、堀を流れる水音だけ。
二歩目で、風が頬を撫でた。
三歩目。闇は、もう怖くなかった。
「見える…」
弥太の目に映り始めたのは、闇ではなかった。風の筋だ。路地を抜け、堀を越え、屋根から屋根へと続く、人の目には決して見えぬ風の道が、まるで金糸を紡いだように光って見えた。
弥太は夢中で走った。
足音は夜に溶け、呼吸は風に混じる。板塀を蹴り、樋を掴み、瓦の端を踏む。体が軽い。まるで風そのものになったかのように。
足の裏に、夜の鼓動が伝わってくる。
目から涙がこぼれた。それが悲しみか、喜びか、弥太自身にも分からなかった。ただ、その涙が風に混じって消えていくとき、自分が生きているという実感が、雷のように胸を打った。
これだ。これが、俺の道だ。
ひとつしかない目で、誰も見たことのない道を見る。それが、自分に与えられた意味なのかもしれない。
走り終えた弥太は、息を切らせながら「狐火庵」の暖簾をくぐった。
提灯の灯りが優しく揺れ、土間からは湯気が立ち上っている。化け狸の与作と妖狐のお静が、大鍋を囲んでいた。
「おう、初走りかい」
与作が顔を上げて、にやりと笑った。
「目ぇ、輝いてるじゃねえか。いい顔してんな」
お静がくすりと笑い、温かな椀を弥太の前に滑らせる。
「冷えた体には、これがいちばんさ。風を通す粥だよ」
椀の中では、小さな団子が湯気とともに踊っていた。
【レシピ】生姜香るだご汁
<材料>
・小麦粉 1/2カップ
・水 適量(耳たぶの柔らかさに)
・大根 3cm(いちょう切り)
・人参 小1/2本(短冊切り)
・里芋 2個(一口大)
・昆布と干し椎茸の出汁 400ml
・味噌 大さじ1
・刻み生姜 小さじ1
・ランナーズスパイス(ヴィーガン)小さじ2
・山椒粉 小さじ1/2
・青ネギ 少々
<作り方>
1. だごを作る。小麦粉をボウルに入れ、少しずつ水を加えてこねる。耳たぶくらいの柔らかさになったら、ひと口大にちぎって丸め、中央を指で軽く窪ませる(火の通りが良くなる)。
2. 鍋に出汁を沸かし、大根、人参、里芋を入れて中火で煮る。野菜が柔らかくなるまで7〜8分。
3. だごをひとつずつ鍋に落とし入れ、浮いてくるまで3〜4分煮る。
4. 火を弱め、味噌を溶き入れる。山椒粉とランナーズスパイスを加え、全体を優しく混ぜる。
5. 椀に盛り、刻み生姜と青ネギを添える。
湯気が立ち上る。
味噌の芳醇さに、生姜の鋭さ、そして山椒の複雑な香りが絡み合い、夜の冷気を押し返すようだった。
弥太は椀を両手で抱え、目を細めた。
「この味…走ってる時の風と、同じ匂いがする」
「それでいいのさ」
お静が微笑む。その表情は、まるで母のようだった。
「妖も人も、いつかは風の中に還る。それまでは、走るんだよ。生きて、食べて、また走る」
与作が大きく頷いた。
「そうそう。走った後の飯が一番うまいんだ」
弥太は静かに頷き、残りの汁を一滴残さず飲み干した。温かさが喉を通り、胃に落ち、体の芯まで染み渡っていく。その目の奥に、もはや迷いはなかった。
その夜の風は、まるで灯籠の明かりを撫でるように優しく、弥太の影を遠く浅草の方まで連れていくようだった。
ぬらりひょんは、いつもの屋根の上で、弥太の足跡を見つめていた。
「走るとは、己を見つめること。ひとつ目ゆえに、それを深く知る」
風がひとすじ、闇を割って吹いた。
その流れに乗って、弥太の笑い声がかすかに混じる。
風を見る妖の話は、江戸の夜風に紛れて、誰の記憶にも残らぬまま消えていった。
けれど、風は知っている。
あの夜、確かにひとつの目が、誰も見たことのない風の道を見たことを。
そして、その目が未来を見据えたことを。
【夜のあとがき】
走ることは孤独だが、帰る場所があれば、それは旅になる。
弥太はまだ知らない。だが、ぬらりひょんには分かっていた。弥太が、これから何度も風の道を走り、何度も「狐火庵」に帰ってくることを。
そして、いつかその目で誰かの道を照らすことになるのだと。

第三話 雪女の橋渡り
大川に霧が立つ。
白く、深く、音を殺して。
丑三つ時。永代橋の上を、ひとつの影が渡っていく。
雪女のお紋である。
足音はない。雪が降れば、彼女の姿は雪に溶け、霧が出れば、霧に紛れる。誰にも見られず、誰にも触れられず。ただ冬の夜の、冷たい息のように静かに橋を渡る。
お紋は、冬にしかこの世に姿を現せぬ。それゆえ、春を知らぬ。そして、恋を知らぬ。
けれども、ぬらりひょんが言った。
「走ってみるがよい。風のなかでこそ、心は融ける」
「わらわの足は、氷のように冷たくてございます」
「ならばなおよい。氷は、走れば音を立てる」
その夜、お紋は永代橋を駆けた。
雪がしんしんと降り、橋板に白の筋が走る。足が触れるたびに、雪が、ぱりり、ぱりりと鳴いた。まるで、凍った湖の薄氷を踏み割るような音。まるで、何かが砕けて、生まれ変わろうとするような音。
風が顔を打つ。冷たい。けれど、痛くはない。不思議と走れば走るほど、体が軽くなる。自分が雪なのか、風なのか、わからなくなる。
橋の向こう、木場の灯が霞んで見えた。人の暮らしの温もり。手を伸ばせば届きそうなのに、届かぬ。
お紋は足を止め、息を呑んだ。
「わらわも、あの火にあたりとうございます」
だが雪女は、人のぬくもりに触れれば消える宿命。それを知っていながら、彼女は橋を渡るたび、人の気配に惹かれてしまう。
灯火に。笑い声に。誰かが誰かを呼ぶ声に。
そして、橋の袂に、ひとりの男がいた。
若い夜回りの者らしい。凍える手で火鉢を抱え、じっと息を吐いている。白い息が、闇に消える。
お紋は走りを緩めた。見てはいけないと思いながら、見入った。
男が顔を上げる。
目が、合う。
一瞬、風が止まった。雪も、時も、息も。
男の瞳に、驚きが灯る。けれどそれは恐怖ではなく、何か別のもの。まるで、失くしたものを見つけたような。まるで、夢で見た誰かに再会したような。
お紋の胸が、ひとつ跳ねた。
こんなことがあるのか。触れてもいないのに、温かい。
だが、それは一瞬。
お紋はすぐに顔を背け、駆け出した。氷のような涙が、風に散った。
後ろから、男の声がした。
「お待ち下さい…」
けれどお紋は振り返らなかった。
振り返れば、きっと消えてしまう。
この一瞬の温もりごと、すべて融けて消えてしまう。
走り終えたお紋は、「狐火庵」の裏口に倒れ込んだ。
妖狐のお静が見つけて、慌てて抱き起こす。
「まあまあ、お紋さんじゃないか。そんなに冷えて…走ったのかい?」
お紋は頷くことができなかった。ただ、小さく震えていた。
お静は何も言わず、お紋を奥へ連れていった。そして、静かに湯を沸かし始めた。
「走った後は、体の芯を温めなきゃ。風の味だよ」
お静は器用に胡麻をすり、豆乳を温め、味噌を溶いた。最後に、香辛料を加える。
「これはね、走る者のための薬味さ。体を内から温める」
湯気が立ち昇る。白く、やわらかく、まるで雪のように。
お静は椀をお紋の前に置いた。
【レシピ】白胡麻と豆乳の薬味汁
<材料>
・豆乳 200ml
・すり胡麻(白) 大さじ2
・味噌 小さじ1
・塩 少々
・ランナーズスパイス(ヴィーガン)小さじ2
・白葱(薄切り) 少々
<作り方>
1. 鍋に豆乳を温め、すり胡麻を加える。
2. 味噌と塩を溶き入れ、弱火でゆっくりと煮る。
3. 火を止める直前にランナーズスパイスを加える。
4. 椀に注ぎ、白葱を浮かべる。
お紋は湯気の向こうに白い指を差し入れ、そっと椀を取った。
一口飲む。
頬が、ほんのり紅く染まった。
「風の中に、火がございますね」
お静が笑う。
「そりゃそうだよ。走った者だけが、風の火を持てるんだ」
お紋は目を閉じた。
橋の向こうに見た男の瞳を思い出す。風に融けて消えていくような、あの一瞬のぬくもり。触れなくても、温かかった。これが、恋というものなのだろうか。
「春が、少しだけ恋しくなりました」
お静はそっと笑った。
「恋をするのも、走るのも、似たようなもんさ。どっちも、風に身を任せるんだ」
お紋は小さく頷いた。
外ではまだ雪が降っていた。
風は少しだけやわらいでいた。
【夜のあとがき】
ぬらりひょんは橋の欄干に立ち、白い靄を見上げた。
「雪は消えても、風は残る」
その足元には、融けた雪が一筋の流れを作り、やがて川へと落ちていった。
翌朝、永代橋の袂に、誰のものとも知れぬ足跡が二つ並んでいたという。
ひとつは小さく、ひとつは人のもの。
どちらも、同じ方を向いていた。
風が通り過ぎたあとには、かすかな温もりが残る。それが恋というものなのだろう。
触れずとも、心は届く。走り続ければ、いつか春が来る。

第四話 ぬらりひょんの風待ち
風が、止んだ。
浅草の町は息を潜めたように静まり返り、石畳に落ちた影さえも動きを忘れている。狐火庵の格子窓から漏れる明かりだけが、ゆらり、ゆらりと夜の闇に揺れていた。
炉端で、ぬらりひょんが湯呑を両手で包んでいる。立ち上る湯気が、皺の深い頬を撫でては消えた。
「今宵は走る風がないようですね」
妖狐のお静が、細い指で茶托を回しながら言った。その声には、どこか物足りなさが滲んでいる。
ぬらりひょんは白髪を撫でつけ、微かに口の端を持ち上げた。
「風は来ぬとも、影は消えぬ。待てばまた吹く」
庵の奥の壁には、狸の与作の笠が一つ。その隣には、一つ目小僧の草履。さらに奥には、雪女の羽織が静かに掛けられている。
いずれも影走りを終えた者たちが残していった、風の痕跡だ。笠の縁には泥が残り、草履の紐はほつれ、羽織には夜露の染みがついている。それぞれが、走った証だった。
狐火庵は、妖たちの走りを見届ける場所であり、ぬらりひょんが風の行方を占う場所でもあった。
「お主は走らぬのかい?」
お静が問う。その瞳には、からかうような光と、どこか寂しげな翳りが混ざっている。
ぬらりひょんは湯呑をそっと畳に置いた。陶器が畳と触れる、小さな音。
「わしの足はもう、風より遅い」
間を置いて、続けた。
「だが風を待つことも、走るうちに入る」
彼は腰を上げ、膝の痛みを堪えるようにゆっくりと立ち上がった。庵の戸口へ歩み寄り、軋む引き戸を静かに開け放つ。冷たい夜気が流れ込み、炉の火が揺れた。線香の煙が斜めになびく。
ぬらりひょんの目には見えていた。誰も気づかぬ路地裏で、影たちの残した風が、行き場を失ってまだ彷徨っているのを。大通りを避け、軒下を這うように動く、名もなき風たちの姿を。
彼は静かに戸を閉め、炉の傍に戻った。
「風が止んだときこそ、腹が減る」
ぬらりひょんは棚から土鍋を取り出し、丁寧に水を張った。火吹き竹で炉の火を起こし直し、手ずから鍋を火にかける。
夜更けの風待ちにふさわしい、温かな香りが、やがて庵いっぱいに広がっていった。
【レシピ】風待ちの根菜汁
<材料>
・大根 1/4本
・里芋 2個
・人参 半分
・油揚げ 1枚
・出汁 500ml
・味噌 大さじ1
・ランナーズスパイス(ホット) 小さじ2
・刻み葱 少々
<作り方>
1. 大根、人参、里芋を一口大に切る。
2. 油揚げは熱湯をかけて油を抜き、細く刻む。
3. 鍋に出汁を沸かし、火の通りにくい根菜から順に入れる。蓋をして弱火で、竹串がすっと通るまで煮る。
4. 火を少し弱め、味噌を溶き入れる。
5. ランナーズスパイスを加える。
6. 椀に盛り、刻み葱を散らす。
「こいつは、土の匂いがする」
ぬらりひょんは椀を両手で持ち上げ、湯気の向こうを眺めた。根菜の甘みと味噌の香が、風の止んだ夜にじんわりと染みていく。
「風は気まぐれ。だが、土は変わらぬ…か」
お静が小さく頷いた。彼女もまた、椀を手にしている。
「走り出す風は、きっとまた戻ってくるさ」
そのとき庵の外で、小さな鈴の音がした。
ちりん、と。
与作が置いていった笠が、誰も触れていないのに揺れ始めた。戸口の隙間から、細く鋭い風が一筋、差し込んでくる。
ぬらりひょんは椀を置き、笠に手を伸ばした。
「ほれ、吹いてきおった」
笠の縁を撫でると、そこには新しい泥がついていた。まるで、たった今どこかを走ってきたかのように。
風はまた走り出す。影走りたちの息づかいを連れて。
ぬらりひょんは、庵の灯を一つ消した。暗がりが広がり、炉の火だけが残る。その赤い光の向こう、夜の江戸をまた、風が駆け抜けていった。
お静が小さく呟いた。
「また、誰か走り始めたね」
「ああ」
ぬらりひょんは笑った。
「風は止まらぬ。ただ、向きを変えるだけよ」
【夜のあとがき】
夜明け前。
ぬらりひょんは庵の戸を開け、川風を深く吸い込んだ。霧がたなびき、対岸の瓦屋根に月の名残が白く光っている。
庵の奥から、お静の声が聞こえてくる。
「行ってらっしゃい」
炉の火はほのかに赤く、そこに残る香は、昨夜走り抜けた妖たちの気配のようにあたたかかった。
ぬらりひょんは笠を手にし、橋のたもとへ歩き出す。石畳を踏む足音は軽い。風が頬を撫で、遠くで鈴の音が鳴った。
誰もいない夜明けの道に、足跡がひとつ残る。
川面が光り始めた。鴉が一羽、低く飛んでいく。
夜は静かに明けていった。

第五話 夜のまにまに
夜更け、浅草の町を風が渡る。
川筋に靄が立ち、灯籠がいくつも流れていく。
狐火庵の暖簾が、揺れた。ぬらりひょんが静かに入ってくる。店の中では与作が湯呑を片手に、ひとつ目小僧が炉端を磨いている。奥ではお静とお紋が最後の一椀を支度していた。
「今宵で風はひとまわりだ」
ぬらりひょんが言った。
「走る者も、見送る者も、また風になる時季よ」
お静が微笑み、椀を差し出す。
【月見とろろの別れ汁】
<材料>
・山芋 半本
・出汁 400ml
・卵黄 一個
・白味噌 小さじ1
・ランナーズスパイス 大さじ1
・刻み葱 少々
<作り方>
1.出汁を温め、白味噌を静かに溶かす。
2.すりおろした山芋を加え、弱火でとろりとするまで混ぜる。
3.火を止め、卵黄を落とす。
4.ランナーズスパイスを加える。
5.椀によそい、刻み葱を散らす。
湯気が立ち上る様は、まるで川霧のようだ。
「走る者は、いつも腹を空かせておる」
ぬらりひょんが椀を手に取り、ゆっくりと啜った。山芋のとろみが喉を滑り、山椒の香りが鼻腔を抜ける。卵黄が月を映し、葱の青が風を思わせた。
「風も、腹が減るのだろうな」
与作は煙管をくゆらせながら、窓の外を見た。橋の向こうに、白い影が見える。雪女がゆっくりと振り返り、小さく手を挙げた。風がその袖を攫い、闇へと溶けていく。
ひとつ目小僧が足袋の紐を結び、立ち上がる。
お静は静かに暖簾を整え、店の灯をひとつ消した。
誰も言葉を交わさない。ただ、風が彼らの足もとを撫でていった。
与作が最後の一服を吸い込み、煙を吐く。その煙は風に乗り、川を越え、どこまでも流れていった。
-影走り-風はめぐり、命は続く。
ぬらりひょんは小さく頷き、椀を置いた。底には、わずかに湯気が残っている。
それはまるで、走り終えた者の息のようだった。
「行くか」
与作が立ち上がる。ひとつ目小僧が頷く。お静が微笑む。
四つの影が、風に乗って夜へ消えた。
狐火庵の灯が、最後のひとつまで消える。
暖簾だけが、いつまでも風に揺れ続けていた。

~終章「風の行方」~
夜明け前、浅草の路地裏。まだ人の気配はない。
与作は根岸の裏道で、小さな影を目で追っていた。子狸たちが道を間違えぬよう、風上から見守る。
煙管の煙が、道標のように風に乗る。
ひとつ目小僧は、坂の上で月を見上げていた。誰かが転ばぬよう、石を拾い、溝を埋める。
一つしかない目で、夜道のすべてを見ている。
雪女は、川のほとりで溶ける雪を撫でた。春はもうすぐそこまで来ている。けれど今宵だけは、冷たい風を残しておきたかった。
誰かが熱を出した時、その額を冷やせるように。
お静は狐火庵の奥で、明日の仕込みをしていた。出汁を引き、米を研ぐ。
いつか誰かが訪れた時、温かいものを出せるように。
そして、ぬらりひょんは橋の上にいた。風が吹き抜けるたび、影が五つ、六つと増えていく。
「風は、道を覚えておる…」
ぬらりひょんの声がした。
誰もいない橋の上、ただランナーズスパイスの香ばしい匂いだけが残る。
風は、消えたようでいて、いつもどこかを走っている。
夜のまにまに。
灯がともり、影が駆ける。
走ること、それは生きること。
妖も人も変わらぬのだ。
ただ、風を待ち、風を渡す。
それだけのことが、愛おしい。
川面に、最後の灯籠が流れていく。
その灯が遠ざかるまで、ぬらりひょんは立っていた。
やがて東の空が白む。風が向きを変える。妖たちの影が、ひとつ、またひとつと薄れていく。
けれど消えたわけではない。
ただ、次の夜まで眠るだけ。
風が吹けば、また走り出す。
そうして、命は続く。
「筆師あとがき」
風の音を聞くたびに、筆が勝手に走り出す。
どうやら、妖たちの影がまだこの江戸に残っているらしい。
化け狸の与作は今も浅草の屋根の上で、煙草の煙を風に乗せている。
ひとつ目小僧は夜な夜な坂道の石をどけ、誰かの転びを防いでいる。
雪女は橋の上で、春を待つ川風の中、白い指先をひとすじ伸ばす。
お静は狐火庵の奥で夜粥を煮ながら、次の客を待っている。
人の世の営みが灯を絶やさぬように、妖の世にも風が必要だ。
走ることは、生きること。止まることは、また始まること。
私の務めとは、ただ、その風の音を記しておくことにある。
もし今夜、窓を叩く風があれば、それはきっと…
妖たちが-影走り-に出た合図だろう。
耳を澄ませば、山芋のとろみを啜る音が聞こえるかもしれぬ。
煙管の煙が、あなたの部屋にも流れてくるかもしれぬ。
川霧が窓辺を撫で、誰かの笑い声が風に乗るかもしれぬ。
風のまにまに、筆を置く。
江戸 風待ち庵にて
春風や
影を追いつつ
また巡る
*** おわり ***
