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Initiation Dayーイニシエーション・デイー前編|ガット王国 第7話

──土曜・午後13:00/ムチ横沿い・腸内静観層



静かだった。驚くほど、音がなかった。

発酵炉は止まり、ミト子の泡も立たない。
粘膜の波は浅く、門脈さんの姿も見えない。



「……朝から何も入ってこなかったのね」
ルーチェは粘膜の上を漂いながら、ぼんやりと残るパンの匂いを嗅ぎ取った。
「コーヒーとトーストだけ。あの子、今朝もそれで済ませたのよ」
「それで“ちゃんと食べた”って思ってるのよね」



午後1時。
腸主は「ちゃんとしたものを作るつもりだった」。

サラダや野菜の多いパスタ。
でも、だるかった。昨日の疲れが、抜けていなかった。



「……だから、コンビニにしたのね」

ルーチェは、漂いながら、流れ込んできた揚げ物と甘味の混ざった匂いを読み取った。



「揚げ物だけじゃ、罪悪感があった。
でも、スイーツはやめられなかった。
だから、ご飯を抜いたの。
それが、あの子の“正しさ”だったのよ」



13時10分。
門脈さんが脂と糖を抱えて、ふらつきながら走ってきた。

「また同時か……! 昨日のケーキがまだ処理中なのに……」

ミト子は発酵炉の前でしゃがみ込み、泡を出そうとしたが、何も出てこなかった。



13時30分。
血糖が急上昇した。



「……来るわね」
ルーチェの言葉に、静かな足音が近づいた。
副腎ゾーンから来た、コルチだった。



「インスリン、全開放。
でも、間に合わなかったよ。
交感神経、振り切ってる」
「脳が……受け取ってないのね」
「そう。血糖はあるのに、脳は“ない”って叫んでる。」



「手足が冷えて、呼吸が浅くなる。
頭がぼんやりして、力が抜けていく。
……あれは、“倒れる前”の感じね」



コルチがぽつりとつぶやいた。

「……それにしても、甘いものばっかり」
「あれは、意思じゃないのよ。」
ルーチェは、少しだけ目を伏せた。
「身体のほうが、“糖が切れる”のを怖がってるの。
それに……腸内にも、欲しがってる“誰か”がいるわね」



門脈さんは運びきれなかった脂質を抱えたまま、足元に膝をついた。

その横で、誰も助けに動かない。
ラクト姐も、アッカー卿も、今日は姿を見せていなかった。



「この腸……守る人たちが、もう働けないのね」
ルーチェの目が、かすかに揺れる。



14時。
一気に血糖が下がり始めた。

発酵の熱は冷え、粘膜のあちこちが、ただしんと沈んでいく。



「……もう、何回目だろうな、こうなるの」
コルチがぼそりと呟く。
「体のほうが、“またか”って思ってる」
「……あの子、たぶん気づいてないけど」
ルーチェは、遠くを見ながら続けた。
「体はもう、“これが普通”って思い始めてる。」



そのときだった。

粘膜の奥、神経叢のほうで、白く光る気配があった。
イリス。
ずっと漂っていたその白い存在が、初めて、明確に輪郭を持った。



イリスの身体が、青白く光り出す。
柔らかい白じゃない。神経の内側を焼くような、冷たい光。



光の触手が、神経叢に向かって静かに伸びていく。
——そして、光の触手は、“入り込んだ”。腸の神経叢に。
健康なら、決して入り込まないところまで。




バチッ、と小さく、でも鋭く痙攣するような音が、腸の奥で鳴った。



ミト子が反応する。
門脈さんが、一瞬、動きを止めた。

粘膜のあちこちが、ピクピクと震えた。
けれど、それは“動き”じゃなかった。痙攣だった。



動きたいのに、動けない。
出したいのに、出ない。
でも、便意のような“何か”はずっと続いている。



腸の奥で、誰も言葉を発さなかった。
ただ、ルーチェだけが、静かに見ていた。

14時15分。
腸主、発症。

「……これで、“次もまたこうなる”って、体が覚えてしまったのね」

ルーチェは、腸内の静けさに向かってそう告げた。
それは、予言ではなかった。
ただの、観測だった。

静寂の中で——
ルーチェは、目を伏せたまま、ほとんど聞こえないような声で言った。

「このあと、きっと“ちょっと疲れただけ”って思うわ。
でも、腸の中ではもう——イリスが采配を握った」

彼女はそれ以上、何も言わなかった。
ただ静かに、発光の残る神経叢を見つめていた。

「……これが、“IBSの始まり”なのよ」


※この物語はフィクションです。
腸内のしくみを楽しく想像するための創作であり、医学的事実とは異なる部分があります。
ご自身の健康については、医療専門家にご相談ください。


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