Initiation Day(後編)記憶される夜|ガット王国 第9話
──土曜・21:00/粘膜層・夜間静観モード
気温が下がりはじめると同時に、腸内の熱も沈んだ。
発酵は止まり、短鎖脂肪酸の生成も見られない。
酪酸、ゼロ。プロピオン酸、微量。
唯一、腸壁を温めていた粘膜反応さえ、もうほとんど確認できなかった。
ルーチェは、粘膜の境界に立ったまま、変化を読んでいた。
「……無発酵夜間モード。珍しいわね」
「熱がないの。ほんとうに、何も。あったかいのは炎症だけ」
──21:10。
腸主は、ゆっくりとトイレに立った。
でも、出ない。
便意はあるのに、腸が動かない。
ルーチェは、その様子をただ見ていた。
そして、その後ろで、音もなく背側くんが歩いてきた。
「反応はある。
でも、運動につながってない」
彼は、神経線維を一本一本、静かになぞりながら言った。
「脳からの指令じゃない。
腸自身が“出したい”と感じてる。
でも、それを伝える回路が……崩れてる」
門脈さんが背後からぼそりとつぶやく。
「“出そうとしてるのに出ない”
それが、いちばん辛いんだよな。
腸も、あの子も」
ミト子はうなずかず、ただ、目を閉じたままだった。
彼女はもう、何も燃やせなかった。
──21:30。
腸主は便座に座ったまま、じっとしていた。
出そうな気がする。
出せば楽になるような気がする。
でも、何も起きない。
ただ、腹だけが張っていく。
そのとき、
神経叢の奥で——
白いものが、もう一度、光を放った。
イリス。
夜の帳の中で、彼女は完全に実体化していた。
先ほどまでの漂いではない。
今、彼女は……この腸の中枢で動いている。
彼女の指先が、ゆっくりと神経に触れた。
触れる、ではない。制御する動きだった。
「この刺激で、反応を記録するわ」
「……“これが便意”って、身体に刻ませるの」
ルーチェは、その光景を見つめたまま、口を閉じていた。
でも、背側くんは静かに言った。
「これで決まりだな。
“感じたら出る”じゃなくて、
“感じても出ない体”として、記憶された。」
──21:50。
腸主は、何も出せないまま、トイレを後にする。
手は冷たい。顔は少し赤い。
なぜか、すこし不安だった。
でも、原因はわからない。
「寝たら治るかも」
ルーチェにだけ、遠くから声が聞こえる。
腸主は、布団に戻る。
ルーチェは、その背を見送りながら言った。
「これで、“次もこうなる”って、体が学んでしまったの。
それが、IBS。」
── IBSとは、排泄の問題ではない。
── 記憶の構造である。
次の朝、腸主は「ちょっと疲れただけ」と言うだろう。
でも、粘膜はもう、元には戻らない。
夜は更ける。
でも、痛みは眠らない。
※この物語はフィクションです。
腸内のしくみを楽しく想像するための創作であり、医学的事実とは異なる部分があります。
ご自身の健康については、医療専門家にご相談ください。
