【古傷に沁みる祈り】揺れる灯 第1話 氷の壁と、鼻の膨らみ
深夜二時過ぎ。
セブンストップH駅北口店の蛍光灯が、誰もいない棚を白く撫でていた。床には商品の影が長く伸びて、角がやけにくっきりしている。
終電はとうに消えて、店は薄い機械音だけで生きていた。冷蔵ケースの低い唸り。壁時計の秒針。
それらが、同じ高さのまま続く。
吉野美桜はレジの中で立ち、ぼんやりと次の段取りを頭の中で並べていた。
手の甲が、消毒液でつっぱっていた。
シフトが終わったら、レポート。帰り道のコンビニ飯。――そんな、どうでもいい未来。
そのとき。
カラン、とドアベルが鳴った。
軽くて、場違いな音だった。
入ってきたのは四十代半ばの男。千鳥足。赤い顔。
ゴム底が床を擦る音が、まっすぐじゃない。
空調の風に乗って、安い酒と汗の匂いが、つんと鼻の奥に刺さる。
男は店内を一周だけ見回し、まっすぐレジへ来た。
「ねぇ、ねーちゃん。タバコ。メビウス。8ミリ。ボックス」
必要以上に大きい声が、静けさを割った。
「あ、え、メビウス、ですね……」
自分の声が、思ったより高い。指先がじんと冷たくなる。
緊張すると、語尾がふと――故郷に戻りそうになる。美桜は口の中で、言葉を噛み直した。
男の濁った目が、じろりと美桜を舐めた。
「あぁん? メビウスだよ、メビウス。聞こえねぇのか? ほら、27番。そこだろ、27番!」
だるそうに指を突き出しながら、カウンターに体を乗せてくる。
匂いが濃くなる。美桜は慌てて背後の棚へ手を伸ばした。箱に指先が触れる
――その手前で。
「トロトロしてんなぁ。新人か? ……ん? 訛ってんのか。田舎から出てきたばっかだろ。芋くせぇな」
言葉が、頬の内側に当たって、熱だけ置いていった。
――つまんねー女、飽きた。
昔、吐き捨てられた声が、なぜか同じ場所から蘇る。
胃の底が冷えて、肩が小さく震えはじめた。唇を噛んでも、何も戻ってこない。
「あんだよ、黙り込んで。図星か? おい、聞いてんのか」
男がさらに身を乗り出し、美桜の顔を覗き込もうとする。
その瞬間――
カチャリ、と背後で金属が鳴った。バックヤードのドア。
休憩を終えた神崎漣が、気だるい足取りで出てくる。首を軽く鳴らしかけた動きが、途中で止まった。
視線が、美桜へ。男へ。
数秒で空気の形を掴むと、漣は音も立てずにレジへ来た。
男の影と美桜の間に、漣の肩が入った。
匂いが、漣の手前でせき止められた気がした。
漣は男の顔をちゃんと見ないまま、低い声だけを落とした。
「……お客さん。商品、これで全部すか」
感情の温度がない。
でも、拒む余地がない。
「あ、あ……メ、メビウス、だそうです」
美桜の声が、かすれて揺れる。
漣は「ん」と短く返し、棚からタバコを掴み、カウンターに置いた。無駄のない動き。雑さも、優しさも、どちらも見せない。
――ただ、美桜は見てしまう。
漣の鼻の穴が、ほんのわずかに膨らんだ。怒りが漏れるときの、小さな癖。
「あんだよテメェ。感じ悪ぃな。バイトのくせに偉そうに」
男が吠えても、漣はレジパネルを叩くだけだった。
冷蔵ケースの唸りより、さらに低い声で言う。
「……四百九十円です」
男は舌打ちして、小銭をカウンターに叩きつけた。
金属が跳ねる。ひとつの一円玉がくるくる回って、店の白い光をちぎりながら、ゆっくり倒れた。
倒れた音が、小さすぎて、逆に残った。
漣は無言で金を揃え、一円玉を一枚だけ戻し、レシートとタバコを端に滑らせる。
「……ケッ。感じ悪ぃ店だな」
悪態と一緒にタバコをひったくり、男はドアを乱暴に開けて出ていった。
カラン。
ドアベルが鳴って、店に元の音だけが戻る。
美桜は俯いたまま動けない。
隣に立つ漣の気配が、やけに大きい。息の出入りまで聞こえそうだった。
しばらくして、漣が動いた。
レジの「担当者交代」を押し、キャッシュドロワーを自分の前へ引き寄せる。美桜を見ないまま、ぽつりと言った。
「……吉野さん。奥、戻ってていいすよ。レジ、代わるんで」
ぶっきらぼうなのに、そこで切ってくれる感じがした。
美桜は喉の奥に溜まっていたものを、なんとか言葉にする。
「た、助かりました……ありがとうございます。すみません、うまくできなくて」
漣は小さく息を吐いた。
「……別に。ああいうの、たまにいるから」
ジャーナルを確かめるふりをして、続ける。
「顔、洗ってきなよ。シフト、あと少しだろ」
命令みたいで、でも突き放していない。
美桜は顔を上げ、衝動に任せて言ってしまう。
「……神崎さんって、意外と優しいんですね」
漣の動きが、一瞬、止まった。
無表情のひびに、素の驚きが浮く。
「は? 何言ってんだか。勘違いすんな。突っ立ってられると邪魔なんだよ」
ぶっきらぼうに髪を掻く。棘を立てたつもりの声が、どこか空回りしている。
「いいから、行け。顔、冷やしてこい」
美桜は、悟られないように頷いた。
「はい。……失礼します」
バックヤードのドアを閉めて、ようやく大きく息を吐く。
洗面台で冷たい水をすくって顔に当てると、火照りが音を立てて引いていった。鏡の中の自分の目が、まだ少し赤い。
(……照れてた、のかな)
口元が勝手に緩む。
悔しさで縮んでいた胸の奥が、ほんの少しだけ、ほどける。
深呼吸をひとつして、レジへ戻る。
「……なんだ。もういいのかよ」
棚から目を上げないまま、漣が言う。
「……ご迷惑を、おかけしました。でも、はい。もう大丈夫です。ありがとうございます」
漣は黙って見て、ふいと視線を逸らす。後頭部をポリポリ掻いた。
奥歯が、きゅ、と噛み合わさった。
「……そうか」
それだけ。
でも、口元がほんのわずかに緩んだように見えた。
漣はレジ袋のストックを、ドン、と少し乱暴に置く。
「なら、そこの棚。補充、頼む。俺、こっちやるから」
「はい。任せてください」
少しだけ声が空回りして、でも嘘じゃない。
漣は「…ん」とだけ返し、自分の作業に戻った。
やがて時計が午前三時を指し、美桜のシフトは終わった。
私服に着替え、バッグを肩にかけて、清掃中の漣の前に立つ。
「……少し、神崎さんのこと、誤解してたみたいです」
漣が、また止まる。
今度は逸らさずに、美桜の目を見た。驚きと、戸惑いが混ざる。
「お先に失礼します」
美桜が深く頭を下げると、漣は視線を逸らし、もみあげのあたりを指で掻いた。
「……おー。……おつかれ」
自動ドアが開く。
深夜のひんやりした空気が、洗ったばかりの頬に触れて、すっと通り抜けた。
店の光が背中で白く滲んで、歩くたびに遠のいた。
2026/1/2改稿
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
静かな深夜のコンビニで始まった、不器用な二人の物語。
この出会いが、彼らの日常をどう変えていくのか。
よろしければ、もう少しだけ、見守っていただけると嬉しいです。
追伸:
皆さんは、彼の不器用な優しさを、どう思われましたか?
「揺れる灯」これまでの話をまとめたものはこちら。
揺れる灯とは異なる、
社会派人情物語「歩みの灯」全話をまとめたものはこちら。
【1話完結】歩みの灯- どこから読んでも、心に灯がともる物語
全て1話完結。何話から読み始めてもOK。
自己紹介記事はこちらです。
各作品のあらすじやマガジンへのリンクもあります。👇
