空に落ちた国
朝のニュースでは、今日の浮上指数が「3」と発表されていた。母は洗濯物を干しながら、ベランダの固定ロープを二重に結び直している。
「今日は風あるから、気をつけなさいよ」
気をつける、という言葉が、
この国では「空を見上げるな」に近かった。
小学校では最初に、
靴紐の結び方と重りの付け方を習う。
ランドセルの底には、鉛板が入っている。
空に近づきすぎた人間は、軽くなるらしい。
理由はまだ、わかっていない。
テレビの中では、隣国の国境地帯が映し出されていた。避難する人々の足首には、黒い重力錘が巻かれている。
泣きながら子どもを抱える母親と、道路標識に身体を固定して眠る老人。
画面の右上には、赤い文字でこう表示されていた。
──浮上災害レベル5
「またか」
父はパンをかじりながら、
天気予報を見るみたいな声で言った。
三年前、最初に空へ落ちたのは小さな島国だった。
その次は、内戦の続いていた共和国。
暴動、飢餓、金融崩壊。
そういうものが長く続いた地域ほど、人が浮きやすくなる、と噂された。
“浮上現象と精神状態の因果関係は確認されていません”
ニュースキャスターは、今日も同じ文を読み上げる。
けれど、誰も本気では信じていなかった。
不安の多い国から、順番に空へ近づいていく。
それは、統計として出てしまっていたからだ。
「学校、遅れるわよ」
母に言われ、僕は椅子の背に掛けていた通学用の重りベストを着る。
金具を留める音がやけに冷たく響く。
窓の外では電線に引っかかった白い布が揺れていた。
服ではない。
昨日、向かいのマンションから浮いた人のものだ。
「今日は風、強いなあ」
玄関を出た瞬間、後ろを歩いていた友達が空を見上げながら言った。
反射的に、制服の安全ベルトを握る。
「見るなって。浮くぞ」
「大丈夫だって。浮上指数3だろ?」
そう言いながらも、足首に鉛錘が巻かれている。
通学路には、等間隔で命綱用のポールが立っていた。
昔は街路樹だったらしい。
横断歩道で信号を待っていると、前に並んでいた小学生の帽子がふわりと空へ浮いた。
慣れた様子で帽子の紐を引き寄せる。
その様子を見ながら、小さく笑った。
「昔の人ってさ」
「ん?」
「空、自由だと思ってたらしいぜ」
放課後、空は朝よりも青くなっていた。
商店街の屋根には、非常用の固定フックが並んでいるし、ビルとビルのあいだには、浮上防止用のワイヤーが張られている。
「隣国、とうとう首都ごと浮いたらしいぞ」
帰り道、友達がスマホを見ながら言った。
冗談みたいなニュースだった。
浮上災害は、もう“遠い国の話”じゃなくなっていた。
信号待ちのあいだ、風が吹く。
身体が、少し軽い。
無意識に、電柱へ手を添えた。
そのときだった。
遠くで、何かが軋む音がした。
ビルでも、電車でもない。
もっと巨大なもの。
地面の奥から、ゆっくり剥がれるみたいな音。
鳥たちが一斉に飛び立つ。
道路が揺れる。
誰かが叫んだ。
「固定アンカーが外れてる!」
街全体が、ほんの少し浮いた。
電柱が傾き、信号機が空へ引かれていく。
張り巡らされていたワイヤーが、悲鳴みたいに震えていた。
母が言っていた。
“気をつけなさい”
あれは、ひとりの話じゃなかったんだ。
この国そのものが、空に近づきすぎていた。
僕は初めて、空を見上げた。
青かった。
落ちていく国を、静かに受け止めるみたいに。
こちらの企画に参加させていただきました。
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