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ひつじ雲ホテル

「ねえ、ひつじ雲ホテルって知ってる?」

帰り道、ランドセルを揺らしながら、あいつが言った。

「なにそれ」

「疲れてる人しか行けないホテル」

「教科書が重いからもう疲れた」

「理由が軽いって」

「いつか行ってみたいな」

あいつはそう言って、笑った。

その笑い方を、なぜか今でも覚えている。



それから、あいつとは会っていない。
思い出すことも、ほとんどなかった。

朝はアラームで起きて、コーヒーを飲んで、電車に乗る。
決まった時間に会社に着いて、決まった仕事をこなす。

気づけば夕方で、また電車に揺られて帰る。

特別なことは、何もない。

それでも、なぜか最近少しだけ疲れている気がする。

だから、考えないことにしていた。



ある日、帰りの電車で、ふと窓に映った自分の顔を見た。

知らない人みたいだ、と思った。

疲れているようにも見えるし、そうでもないようにも見える。

「疲れてる人しか行けないホテル」

くだらない話だと思っていたのに、妙に引っかかる。

改札を出て、いつもと同じ道を歩く。
コンビニの前を通り過ぎて、信号を渡る。

そのはずだった。

気づくと、知らない道にいた。

見覚えがないわけじゃない。
普段は通らない道だった。

引き返そうかと思ったけど、足が止まらなかった。
どうせ、帰っても同じだから。

角を曲がると、細い坂道が続いていた。
上りきった先に、小さな建物が見える。

ホテル、というほど立派じゃない。
どちらかというと、古い旅館みたいだった。

入口の上に、看板がかかっている。

──ひつじ雲ホテル。

思わず、足が止まった。

そんなわけない、と思った。

でも、目を逸らしても、看板は消えなかった。

風もないのに、白い暖簾がゆっくり揺れている。

近づくと、聞いたことのある声がした。

「やっと来たね」

振り返ったけど、誰もいない。

もう一度、看板を見る。

ひつじ雲ホテル。

あのときの、あいつの声が重なる。

──「いつか行ってみたいな」

気づけば、暖簾に触れていた。



「いらっしゃいませ、ひつじ雲ホテルへようこそ」

「ずっと、お待ちしておりました」

顔を上げた瞬間、言葉が出なかった。

そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。

「あいつ、か?」

名前が出てこない。

あいつは、あの頃と同じように、少しだけ口角を上げて笑った。

「やっと来たね」

その言い方も、変わっていない。

軽くて、どこか人をからかうみたいな調子。

「……なんで、お前がここにいるんだよ」

「働いてるから」

「いや、そういうことじゃなくて」

聞きたいことはいくらでもあるはずなのに、どれも今じゃない気がした。

あいつはカウンターの奥から、ひとつ鍵を取り出した。

古い、少し重たそうな鍵だった。

「とりあえず、今日は泊まっていきなよ」

「……泊まる?」

「ここ、そういう場所だし」

軽く言って、鍵をこちらに差し出す。

受け取るかどうか、一瞬だけ迷った。

「いいのかよ、急に来て」

「いいよ。そういう人しか来ないから」

鍵を受け取ったとき、指が少しだけ触れた。

冷たい、というより、温度がない感じがした。

「……お前さ」

「あのあと、どうなったんだよ」

「どう、って?」

「いや、だから──」

うまく繋がらない。
ひとつだけ、引っかかる感覚があった。

「まあ、長い話になるからさ」

「あとで、ゆっくり話そうよ」

その“あとで”が、やけに遠く感じた。



案内された部屋は、思っていたよりも普通だった。

畳の匂いが、かすかにする。

古いけど、手入れはされている。
安いビジネスホテルより、ずっと落ち着く気がした。

「ここ、使っていいから」

あいつはそれだけ言って、廊下の向こうに消えた。

扉が閉まる音が、やけに静かに響く。

ひとりになると、急に現実感が薄くなった。

靴を脱いで、部屋に上がる。

窓の外を見ようとして、少しだけ手が止まる。
なんとなく、見ない方がいい気がした。

それでも、カーテンを少しだけ開ける。

外は、曇っていた。

いや、曇っているというより、何もないように見えた。

景色があるはずなのに、うまく焦点が合わない。

すぐにカーテンを閉めた。

部屋の中央に、小さなテーブルがある。

その上に、湯呑みがひとつ置かれていた。
湯気は立っていないのに、触れると少し温かい。

いつ用意されたのか、分からない。

座布団に腰を下ろす。

体が沈むと同時に、少しだけ肩の力が抜けた。

不思議と、眠くはない。

ただ、ずっとここにいてもいいような気がした。

視線を落とすと、手の中にある鍵が目に入る。

古びた金属の感触。

番号は書いていない。

代わりに、小さな雲の形が刻まれていた。

その模様を見ていると、ふと、思い出す。

「疲れてる人しか行けないホテル」

あいつの声が、やけに近くで聞こえた気がした。

気のせいだと思いながら、天井を見上げる。

木目の間に、うっすらとした影が揺れていた。

雲みたいだ、と思った。



部屋の中は、さっきよりも少しだけ暗くなっていた。

湯呑みに口をつける。

ぬるいはずなのに、妙に落ち着く温度だった。

そのとき、扉が鳴った。

ノックはなかった。

ゆっくりと、開く音だけがした。

顔を上げると、あいつが立っていた。

さっきと同じ格好のはずなのに、どこか違って見える。

「落ち着いた?」

昔と同じ声だった。

「……まあな」

あいつは部屋の中に入ってきて、当たり前みたいに座布団に腰を下ろした。

距離が近い。

「ここさ、どう?」

「どうって……普通の部屋だな」

「そっか」

あいつは、少しだけ笑った。

「でも、普通じゃないよ」

そう言って、視線をテーブルの上に落とす。

そこには、さっきまでなかったはずのものが置かれていた。

古い教科書だった。

見覚えがある。

表紙の端が少し折れているところまで、覚えている。

「……なんで、これ」

「さあ」

あいつは肩をすくめる。

「必要なものが、出てくるんじゃない?」

軽すぎて、冗談に聞こえる。

教科書に手を伸ばす。

ページをめくると、間に何かが挟まっていた。

細く折られた紙。

開くと、小さな字が並んでいる。

見覚えのある、雑な字だった。

──いつか行ってみたいな

息が止まる。

「……これ、お前の字だよな」

あいつは、少しだけ目を細めていた。

「そうかもね」

「覚えてる?」

そう聞かれて、すぐには答えられなかった。

頭の奥で、何かが引っかかっている。

「……あの帰り道、だよな」

やっと、それだけ言えた。

あいつは、ゆっくり頷いた。

「そうそう。ランドセル揺らしながらさ」

少しずつ輪郭がはっきりしてくる。

夕方の光。

アスファルトの匂い。

「なあ」

「お前、あのあと──」

続きを言おうとした瞬間、頭の奥で、何かが鳴った。

遠くで、サイレンみたいな音がする。

一瞬だけ、視界が揺れる。

あいつは、そのままの表情で、こちらを見ていた。

「思い出してきた?」

逃げ場がない、という感じでもないのに、目を逸らせなかった。

「……いや、別に」

あいつは、少しだけ首をかしげる。

「そっか」

責めるでもなく、急かすでもなく、ただ待っている。

その沈黙が、妙に重かった。

手元の紙に、もう一度目を落とす。

──いつか行ってみたいな

雑な字。

あいつの字。

「理由が軽いって」

そのやりとりまで、はっきり思い出せる。

なのに、その“あと”だけが、ぽっかり抜けている。

「……なんでだよ」

思わず、口に出る。

何が、じゃない。

どうしてそこだけ思い出せないのか、それが分からない。

そのとき、また、あの音がした。

遠くで、サイレンが鳴っている。

さっきよりも、少し近い。

頭の奥が、じん、と痛む。

「無理に思い出さなくてもいいよ」

あいつが言う。

優しい声だった。

でも、その言い方が、逆に引っかかった。

「……知ってるのか」

あいつは、少しだけ考えるように視線を落とした。

「知ってるっていうか」

「そこに、いたから」

その一言で、何かが繋がった。

夕方の道。

ランドセル。

笑いながら、くだらない話をしていた。

その帰り道。

交差点。

信号は、たしか、赤で。

でも、誰かが走って──

視界が、急に鮮明になる。

タイヤの音。

ブレーキの擦れる音。

誰かの声。

「危ない!」

体が、勝手に前に出る。

止めようとして。

でも、間に合わなくて。

鈍い音が、耳に残る。

そのあと、どうなったかは、覚えていない。

いや。

覚えていないんじゃない。

思い出さないようにしていただけだ。

「……お前」

「やっと、思い出したな」

「別にさ、怒ってないよ」

「ただ、来るの遅いなとは思ってたけど」

その言葉に、何も返せなかった。

うまく言葉が見つからないまま、時間だけが過ぎていく。

それから、子供の頃の他愛もない話をした。

どっちが足速かったとか、誰が先生に怒られたとか、そんな話ばかりだった。

どれくらい話したのか、分からない。

気づくと、部屋の外が少しだけ明るくなっていた。

「そろそろ、行く?」

「……ああ」

ここに長くいすぎてはいけない気がした。

部屋を出て、廊下を歩く。

来たときよりも、少しだけ足が軽い。

入口まで来ると、あいつが先に暖簾をくぐった。

振り返る。

口を開きかけて、やめた。

あいつは、そんなこちらを見て、少しだけ笑う。

「じゃあな」

短く、それだけ言った。

昔と同じ、別れ方だった。

外に出る。

空気が、少しだけ冷たい。

振り返る。

そこには、もう建物はなかった。

ただの、見慣れた道が続いているだけだった。

ポケットの中で、何かが触れる。

取り出すと、小さな鍵があった。

雲の形をした、あの鍵だった。

握りしめる。

ふと、あいつの声がよみがえる。

──「いつか行ってみたいな」

気づけば、少しだけ笑っていた。

あの笑い方が、まだ残っていた。





こちらの企画に参加させていただきました。

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