空とぶ喫茶店
あの喫茶店は、空を飛んでいた。
と言っても、誰も信じてくれない。飛行機みたいに大きなものじゃないし、雲を突き抜けるわけでもない。夕暮れの低い空を、忘れ物みたいな速度で横切っていくだけだ。
*
最初に見たのは、小学四年生の夏だった。団地のベランダで、溶けかけたアイスを握っていた。母と父が居間で小さな声の喧嘩をしていた日だ。
空は、雨が降る前の匂いがしていた。
「……あ」
電線の向こうを、古い喫茶店が飛んでいた。木の看板が風に揺れて、窓辺にはオレンジ色のランプ。店の下には白い湯気みたいな雲が浮かんでいた。
そのくせ、店内だけは妙に静かで時間がゆっくり流れているように見えた。
カウンターには、猫がいた。
マスターはこちらを見なかった。
猫だけが一瞬、僕と目を合わせた。
あの日のことを、ずっと忘れていた。
人生が変わる前にだけあの店が現れるのだと知ったのは、もっとずっと後のことだった。
*
二度目にあの喫茶店を見たのは、二十歳の冬だった。
成人式の帰りで、スーツがまだ自分のものじゃない気がしていた。
あの頃の僕は、大人になったつもりでいた。実際には、少し酒が飲めるようになっただけだった。
駅前では、まだ何人かが騒いでいた。久しぶりに会った同級生たちは夢を語ったり、昔好きだった子の話をしたりしていた。みんなこれから何者かになれると信じている顔をしていた。
僕もそのふりをして笑っていた。
将来のことを聞かれるたびに、胸の奥に薄い紙みたいな不安が張り付く。まだ何者でもないくせに、もう子どもではいられない。
そんな年齢だった。
一次会も二次会も断って、ひとりで駅まで歩いた。冬の空気は透明で、吐いた息だけがやけに白かった。
自販機で缶コーヒーを買おうとして、ふと顔を上げた。
「……あ」
その声は、昔の夏とまったく同じ響きだった。
ビルとビルのあいだを、古い喫茶店が飛んでいた。
あの時と同じオレンジ色の灯り。
木の看板。
ゆっくり流れる時間。
カウンターには、やっぱり猫がいた。
猫はこちらを見ると、小さくあくびをした。
まるで、また来たのかとでも言いたげに。
その時の僕は、空を見上げたまま動けなかった。
*
三度目にあの喫茶店を見た頃には、タクシーはアプリで呼ぶものになっていた。コンビニのレジから店員は減り、駅では誰も空を見上げなくなった。
世界は静かに新しくなっていった。けれど僕は、相変わらずうまく生きる方法がわからなかった。
コートのポケットの中で、スマートフォンが通知を震わせている。誰かからの連絡だった気がするけれど、見る気にはなれなかった。
夜の高架下を歩きながら、ふと昔のことを考えていた。
団地のベランダや、溶けかけたアイス。
成人式の帰り道。
きっと、自分は何かになろうとしていた。
信号待ちで立ち止まり、なんとなく空を見上げた。
「……あ」
あの喫茶店だった。
古い木の看板。
オレンジ色の灯り。
夕暮れみたいな静けさを乗せたまま、ビルの隙間をゆっくり飛んでいる。
気づけば、僕は歩き出していた。
店は、川沿いの古びた駐車場に音もなく降りた。
入口のドアを開けると、小さなベルが鳴った。
コーヒーの匂いがした。
店の中だけ、昔の時間がそのまま残っているようだった。
窓際の席で、猫が丸くなって眠っていた。
マスターは何も聞かず、白いカップをひとつ置いただけだった。
僕は礼を言って、席に座った。
窓の外では、知らない街の灯りが流れていく。
しばらくして、猫がゆっくり目を開けた。
それから椅子の上に飛び乗り、昔からそこにいたみたいな顔で僕の膝に乗った。
「……久しぶり」
猫は答えなかった。
ただ、喉を鳴らしていた。
コーヒーは少し苦かった。
昔は飲めなかった味だと思った。本当に変わったのは、味覚のほうではなかったのかもしれない。
店を出る頃には、通知はもう止んでいた。
夜風は冷たかった。
喫茶店は、振り返った頃には見えなくなっていた。
人生は、思っていたほど変わっていなかった。
けれど、ちゃんと遠くまで来ていた。
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