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空とぶ喫茶店

あの喫茶店は、空を飛んでいた。

と言っても、誰も信じてくれない。飛行機みたいに大きなものじゃないし、雲を突き抜けるわけでもない。夕暮れの低い空を、忘れ物みたいな速度で横切っていくだけだ。

最初に見たのは、小学四年生の夏だった。団地のベランダで、溶けかけたアイスを握っていた。母と父が居間で小さな声の喧嘩をしていた日だ。

空は、雨が降る前の匂いがしていた。

「……あ」

電線の向こうを、古い喫茶店が飛んでいた。木の看板が風に揺れて、窓辺にはオレンジ色のランプ。店の下には白い湯気みたいな雲が浮かんでいた。

そのくせ、店内だけは妙に静かで時間がゆっくり流れているように見えた。

カウンターには、猫がいた。

マスターはこちらを見なかった。
猫だけが一瞬、僕と目を合わせた。

あの日のことを、ずっと忘れていた。

人生が変わる前にだけあの店が現れるのだと知ったのは、もっとずっと後のことだった。

二度目にあの喫茶店を見たのは、二十歳の冬だった。

成人式の帰りで、スーツがまだ自分のものじゃない気がしていた。

あの頃の僕は、大人になったつもりでいた。実際には、少し酒が飲めるようになっただけだった。

駅前では、まだ何人かが騒いでいた。久しぶりに会った同級生たちは夢を語ったり、昔好きだった子の話をしたりしていた。みんなこれから何者かになれると信じている顔をしていた。

僕もそのふりをして笑っていた。

将来のことを聞かれるたびに、胸の奥に薄い紙みたいな不安が張り付く。まだ何者でもないくせに、もう子どもではいられない。

そんな年齢だった。

一次会も二次会も断って、ひとりで駅まで歩いた。冬の空気は透明で、吐いた息だけがやけに白かった。

自販機で缶コーヒーを買おうとして、ふと顔を上げた。

「……あ」

その声は、昔の夏とまったく同じ響きだった。

ビルとビルのあいだを、古い喫茶店が飛んでいた。

あの時と同じオレンジ色の灯り。
木の看板。
ゆっくり流れる時間。

カウンターには、やっぱり猫がいた。

猫はこちらを見ると、小さくあくびをした。
まるで、また来たのかとでも言いたげに。

その時の僕は、空を見上げたまま動けなかった。

三度目にあの喫茶店を見た頃には、タクシーはアプリで呼ぶものになっていた。コンビニのレジから店員は減り、駅では誰も空を見上げなくなった。

世界は静かに新しくなっていった。けれど僕は、相変わらずうまく生きる方法がわからなかった。

コートのポケットの中で、スマートフォンが通知を震わせている。誰かからの連絡だった気がするけれど、見る気にはなれなかった。

夜の高架下を歩きながら、ふと昔のことを考えていた。

団地のベランダや、溶けかけたアイス。
成人式の帰り道。

きっと、自分は何かになろうとしていた。

信号待ちで立ち止まり、なんとなく空を見上げた。

「……あ」

あの喫茶店だった。

古い木の看板。
オレンジ色の灯り。
夕暮れみたいな静けさを乗せたまま、ビルの隙間をゆっくり飛んでいる。

気づけば、僕は歩き出していた。

店は、川沿いの古びた駐車場に音もなく降りた。

入口のドアを開けると、小さなベルが鳴った。

コーヒーの匂いがした。

店の中だけ、昔の時間がそのまま残っているようだった。

窓際の席で、猫が丸くなって眠っていた。

マスターは何も聞かず、白いカップをひとつ置いただけだった。

僕は礼を言って、席に座った。

窓の外では、知らない街の灯りが流れていく。

しばらくして、猫がゆっくり目を開けた。

それから椅子の上に飛び乗り、昔からそこにいたみたいな顔で僕の膝に乗った。

「……久しぶり」

猫は答えなかった。
ただ、喉を鳴らしていた。

コーヒーは少し苦かった。

昔は飲めなかった味だと思った。本当に変わったのは、味覚のほうではなかったのかもしれない。

店を出る頃には、通知はもう止んでいた。

夜風は冷たかった。

喫茶店は、振り返った頃には見えなくなっていた。

人生は、思っていたほど変わっていなかった。

けれど、ちゃんと遠くまで来ていた。






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