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虹色の切符

三十歳を過ぎたころから、飲み会の誘いが少しずつ減っていった。最初は、みんな忙しいのだと思っていた。

結婚や出産。
家の購入。

グループLINEの通知は今も鳴る。けれどそこに並ぶのは、「今度また集まろうね」ではなく、子どもの写真や休日のキャンプ場だった。

休日の夜。コンビニ帰りに、ポストから溢れたチラシをまとめて抜き取った。

その中に、一枚だけ妙な紙が混ざっていた。

──ミステリーツアー参加者募集。

印刷は安っぽいのに、紙だけが妙に滑らかだった。

『行き先は未定。後悔はさせません。』

小さく、「幸せになりたい方歓迎」と添えられている。

馬鹿らしい、と思った。
宗教か、怪しいセミナーみたいだ。




応募したことすら、半分忘れていた。

スマホで適当に入力しただけだ。名前と年齢、それから「最近、心が動いた瞬間」という欄に、何を書いたのかも覚えていない。

仕事から帰ると、郵便受けに白い封筒が入っていた。

差出人の名前はない。宛名だけが、妙に丁寧な字で書かれている。

しばらくそれをテーブルの上に置いたままにしていた。

こういうの、開けたら駄目な気もする。変な勧誘とか、壺とか、そういう類かもしれない。

結局、夕飯のコンビニパスタをレンジに入れている間に、封を切っていた。中に入っていたのは、一枚の紙と、小さな切符だった。

切符は虹色だった。

光の角度で色が変わる。
子どものころ集めていたカードみたいに。

紙には、集合場所と時間だけが書かれていた。

──六月十四日 午前六時二十分

〇〇駅 五番ホーム

行き先は、書かれていなかった。




ホームには、古い列車が停まっていた。

銀色の車体に少し色褪せた赤いライン。黒い表示板には、何も映っていなかった。

私はポケットの中で、虹色の切符を握り直した。

本当に乗るの?

そう思いながらも、気づけば扉の前に立っていた。

車掌らしき男性は、切符を見ると小さく頷いただけだった。

車内に入った瞬間、私は少しだけ息を止めた。

窓がすべて黒いカーテンで覆われていた。
外が見えない列車なんて、初めてだった。

通路には、私と同じくらいの年齢の男女が数人座っている。

旅行前特有の浮ついた空気はない。

知らない病院の待合室みたいに、妙に声を潜めていた。

発車ベルが鳴る。

その瞬間、誰かが小さく呟いた。

「……これ、どこ行くんですかね」

その問いに答える人はいなかった。




列車がゆっくりと動き出した。

自分たちが本当に進んでいるのか、それともまだホームに停まったままなのか、一瞬わからなくなる。規則的な揺れだけが、確かにどこかへ向かっていることを伝えていた。

ガタン、ゴトン。

レールの継ぎ目を越える音が、暗い車内に響く。

向かいの席では、スーツ姿の男性が膝の上で手を組んだまま眠っていた。

通路側の席の女性は、スマホを見つめている。

私は虹色の切符をもう一度取り出した。薄暗い車内でも、その切符だけは不自然なくらい色を持っていた。

青、紫、緑。

角度を変えるたび、違う色になる。

まるで、この列車だけが普通の世界から少しずれているみたいだった。

そのとき、車内アナウンスが静かに流れた。

『まもなく、最初の目的地に到着します』

目的地。

その言葉に、すぐに違和感を覚えた。




最初に列車を降りたのは、斜め向かいに座っていたスーツ姿の男性だった。

四十代後半くらいだろうか。紺色のスーツは少し皺が寄っていて、ネクタイも緩んでいる。どこにでもいそうな会社員だった。

列車が止まる。

男性は、眠っていたみたいにゆっくり顔を上げた。

そして、扉の向こうを見た瞬間、目を細める。

「……まだ、あったんだな」

ホームの向こうには、小さなバッティングセンターが見えた。

古びた青い看板。

『ナカムラバッティング』

男性は少しだけ笑った。

懐かしいものを見るみたいに。




二人目は、通路側に座っていた若い女性だった。

二十五、六くらいに見える。

白いパーカーに、擦れたキャリーケース。ずっとイヤホンをつけていたのに、音楽は流れていなかったらしい。

彼女は、扉が開く前から泣きそうな顔をしていた。ホームに見えたのは、小さなライブハウスだった。

地下へ続く狭い階段。
壁に貼られた色褪せたフライヤー。

彼女はそれを見て、小さく笑った。

「……まだ、残ってたんだ」

その声は、嬉しそうにも、苦しそうにも聞こえた。




列車はまた、ゆっくり動き出した。
私は何となく、若い女性が座っていた席を見た。

座席だけが、静かに揺れている。

向かいの男性は眠っていた。
窓際の女性は、ぼんやり爪を見つめている。

誰も、さっきまでそこに人がいたことを気にしていなかった。




そのときだった。

車両の奥から、ゆっくり靴音が近づいてくる。

コン、コン。

古い革靴の音。

顔を上げると、深い紺色の制服を着た老人が立っていた。帽子には、小さく銀色の徽章がついている。

車掌、というより──昔の駅長みたいだった。

「切符を拝見します」

私は、ポケットの中の虹色の切符を差し出した。老人はそれを受け取り、車内灯へ透かすように眺める。虹色がゆっくり揺れた。

「……まだ、残っていますね」

「え?」

思わず聞き返したけれど、老人は答えなかった。

代わりに、少しだけ目を細める。

「なくさないようにしてください」

切符を返す指先は、不思議なくらい冷たかった。




老人の言葉が、妙に耳に残っていた。

虹色の切符を指でなぞる。
光の加減で、色がゆっくり変わる。

まるで、水面みたいだった。

窓の黒いカーテンを見つめた。

三十歳。

結婚していると思っていた。

子どもがいて、休日には家族でスーパーに行って、そんな普通の未来をなんとなく想像していた。

でも、現実の私は、仕事帰りに一人分のコンビニパスタを温めて、寝る前にマッチングアプリを閉じる毎日を繰り返している。

別に不幸ではない。

でも時々、自分の人生だけが、どこにも向かっていない気がした。

列車は揺れ続けている。行き先もわからないまま。

本当は、ひとつだけ後悔していることがあった。

誰にも言ったことはない。

二十六歳の冬。

一度だけプロポーズされたことがある。

雪の降る帰り道だった。駅前の居酒屋を出たあと、彼は白い息を吐きながら、「結婚しようか」と言った。

ドラマみたいな指輪もなかったし、夜景もなかった。酔った勢いみたいな、不器用な言い方だった。

でも、その瞬間、少しだけ怖くなった。

結婚したら、自由じゃなくなる気がした。まだ仕事を頑張りたかった。もっとちゃんとした自分になってから、そういう未来を選びたかった。

だから私は、笑いながら言った。

「まだ早いよ」

彼は、「そっか」と笑った。

本当に、それだけだった。

列車が大きく揺れる。
私は無意識に、虹色の切符を握りしめた。

あのとき、もし違う答えを選んでいたら。

そんなことを考える年齢になってしまった。




そのとき、不意に列車が減速した。
ガタン、と大きく揺れて、車内灯が一瞬だけ明滅する。

アナウンスが流れた。

『まもなく、到着します』

──私だ。

理由なんてない。

胸の奥が静かに冷えていく。

扉が開いた瞬間、私は息を止めた。

見覚えがあった。

駅前の細い通り。

赤提灯。古びた居酒屋の看板。──「たき川」。

二十六歳の冬。彼に、「結婚しようか」と言われた店だった。

立ち上がれなかった。

喉の奥が、少し苦しい。

どうして。

なんで、ここなの。

車内は静かだった。

誰もこちらを見ていない。

まるで、「降りるのが当たり前」みたいに。

扉が、静かに開いたまま待っている。

私は震える指で、虹色の切符を握りしめた。




意を決してホームに降りる。

夜の空気は冷たく、少しだけ雪の匂いがした。

改札へ向かう。無人駅だったはずなのに、居酒屋の笑い声が聞こえる。

二十六歳の冬、そのままの音だった。

ゆっくり階段を降りる。

そして、改札を抜けようとした瞬間だった。

「──あれ、紗季?」

心臓が止まりそうになる。

改札の向こう。

コンビニの白い明かりの前に、彼が立っていた。

黒いコート。

少し無造作な髪。

懐かしい笑い方。

六年前のままの顔だった。

「やっぱり紗季だ。うわ、びっくりした」

彼はそう言って笑う。まるで、これから先に別れが待っていることなんて、まだ何も知らない人みたいに。




「いつもより来るの早いね」

──いつもより。

私はうまく息ができなかった。

その言葉が、胸の奥に静かに沈む。

まるでここが、“あの日”の続きみたいだった。

彼は不思議そうに首を傾げる。

「どうした?」

私は答えられなかった。

駅前の信号が青に変わる。

彼は先に歩き出して、それから子どもみたいに振り返った。

「ほら、予約時間ギリギリになるぞ」

私はその背中を見つめる。

胸の奥で、何かが静かに軋んでいた。

もし。

もし今なら。あの日と違う未来を選べるんだろうか。




居酒屋の中は、記憶にあるままだった。

少し油で曇った壁。テレビでは知らない野球中継が流れている。

彼は枝豆をつまみながら、会社の後輩の話をしていた。

「最近の新人ってさ、怒られる前に落ち込むんだよな」

私は曖昧に笑う。

六年前と同じ会話。

なのに私は、その先に来る言葉を知っている。

それが怖かった。

「紗季、ちゃんと食べてる?」

「食べてるよ」

「絶対コンビニばっかだろ」

「……まあ、ちょっと」

彼は呆れたように笑った。

その笑い方まで、懐かしかった。

時間だけが、取り残されているみたいだった。

店を出ると、雪が降り始めていた。小さな雪だった。

街灯の光の中で、白く溶ける。

駅までの道を、二人で並んで歩く。

沈黙は不思議と苦しくなかった。

彼はしばらく前を向いたまま歩いて、それから白い息を吐いた。

「さ」

その瞬間だった。

ポケットの中で、虹色の切符が熱を持った。

驚いて触れる。

切符が、淡く光っていた。

ゆっくり色を変えながら、まるで何かを促すみたいに。

心臓が高鳴る。

──来る。

私は無意識に、切符を握りしめた。

今なら。

今なら、違う答えを言える。

彼は少し歩く速度を落とした。

雪が肩に落ちる。

「……紗季さ」

白い息が、夜に溶ける。

「結婚しようか」

六年前と同じ言葉だった。

でも、もう知っている。このあと自分が笑って、「まだ早いよ」と言うことを。

そのあと、少しずつ離れていくことを。

私は唇を噛んだ。

涙が出そうだった。

今なら、変えられるかもしれない。

でも、その瞬間。

私はふと、彼の横顔を見た。

不安そうだった。

未来を確信している顔じゃない。

置いていかれないように、必死に言葉を掴んでいる顔だった。

たぶん、あの頃の私たちは、二人とも怖かったのだ。

大人になることも。

誰かと人生を重ねることも。

私はゆっくり息を吸った。

「……あのときも」

「ちゃんと、好きだったよ」

彼は少しだけ目を丸くして、それから困ったみたいに笑った。

その瞬間だった。

遠くで、長い汽笛が鳴った。

──ボォォォ……。

胸の奥が、静かに引っ張られる。

行かなきゃ。

なぜだか、そう思った。

私は一歩後ろへ下がる。

彼が何か言おうとした。

でも私は、小さく笑って首を振る。

「ごめん。もう、電車の時間だから」

自分でも、おかしな言葉だと思った。

彼は、不思議そうにしながらも、「そっか」と頷いた。

私は背を向けて走り出す。

雪の降る駅へ。




ホームに戻ると、黒い列車は静かに停まっていた。

扉が開く。

息を切らしながら車内へ乗り込む。

すると、最初に降りたスーツ姿の男性が、元の席に座っていた。

窓際で、静かに缶コーヒーを飲んでいる。

白いパーカーの若い女性が座っていた席だけは、最後まで空いたままだった。

まるで最初から、誰もいなかったみたいに。

列車の扉が閉まる。

ゆっくりと動き出した車内で、私はまだ息を整えられずにいた。

窓は相変わらず黒いカーテンに覆われている。

外は見えない。

不思議ともう怖くはなかった。

コン、コン。

静かな革靴の音が、車両の奥から近づいてくる。

私は顔を上げた。

紺色の制服。銀色の徽章。
古い駅舎に立っていそうな帽子。

老人は揺れる車内をゆっくり歩き、私の席の横で立ち止まる。

「お帰りなさい」

その声は、どこか懐かしかった。まるで夜遅くに帰宅した子どもへ向けるみたいな、静かな声音だった。

私はうまく返事ができない。まだ胸の奥に、雪の冷たさが残っている。

老人は白い手袋のまま、私の虹色の切符へ目を落とした。

「少し、色が変わりましたね」

切符の紫色が、少しだけ薄くなっていた。代わりに、淡い橙色が増えている。夕焼けみたいな色だった。

「……これ、何なんですか」

窓を覆う黒いカーテンを一度だけ見て、それから小さく微笑む。

「人生には、ときどき途中下車が必要なのです」

列車が揺れる。

遠くで、また小さく汽笛が鳴った。

老人は帽子に触れ、静かに続ける。

「さて──次のお客様が、まもなく到着されます」

次の瞬間、ふっと身体が軽くなった。




気づけば、ホームに立っていた。

夜風が吹く。

見慣れた自動販売機。聞き慣れた発車メロディ。
少し汚れた黄色い点字ブロック。

毎日使っている、最寄り駅だった。

呆然と辺りを見回す。

黒い列車は、もうどこにもなかった。

家へ帰る。

コンビニで買ったパスタを温める。
洗面台には、朝のままのマグカップが置かれている。

友人グループのLINEには、新しく子どもの写真が増えていた。

『今日で三歳になりました』 

私は少し遅れて、猫のスタンプを送る。

人生が急に変わるわけじゃない。

明日も仕事はあるし、たぶんまた、マッチングアプリを開く。

誰かを羨ましいと思う夜も、きっと消えない。




数日後。

仕事帰りに駅前の横断歩道で信号待ちをしていた。

春が近い夜だった。

向こう側の人混みの中に、ふと見覚えのある横顔が見えた。

黒いコート。

少し無造作な髪。

──彼だった。

思わず息を止める。

でも彼は、こちらに気づかない。

もう、私たちの人生は交わらないのだと思った。

青信号になる。

人の波が動き出す。

すれ違う瞬間、彼がふと顔を上げた。

一瞬だけ、目が合った。

彼は小さく「あれ?」という顔をした。

結局、何も言わずに通り過ぎていく。

私は振り返らない。

ただ、コートのポケットの中で、虹色の切符をそっと握りしめた。





こちらの企画に参加させていただきました。

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