🔶私の好きな奈良:福智院 類例ない千仏光背を有する日本最大の木造地蔵菩薩
奈良市福智院町にある寺院、福智院(ふくちいん)をご存知ですか?
奈良市街の中心部近くにある真言律宗の寺院です。
奈良時代に、聖武天皇の勅願で創建されたのが始まりと言われるこのお寺ですが、木造のお地蔵様としては日本一の大きさを誇る地蔵菩薩坐像(地蔵大仏)を本尊として祀っていることで知られる古寺です。
お地蔵様というと、道路脇などに立っている石像のイメージが強いのではないでしょうか。
お寺で祀られているお地蔵様として有名なのは、奈良県では法隆寺、東大寺、室生寺、帯解寺、伝香寺、矢田寺、聖林寺、生蓮寺などが知られ、他府県にも慶派仏師による有名な地蔵菩薩像や、地蔵菩薩を本尊とするお寺がいくつかあります。
人々に非常に馴染みの深い仏様でありながら、現在までに単独で国宝指定されている地蔵菩薩像は、台座部分から檜の一木造りで彫られている法隆寺の地蔵菩薩立像のみと、実は意外に少ないんですね。
そんな中、この福智院の本尊である鎌倉時代作の木造地蔵菩薩坐像は、像高2.7メートル、台座と光背を含めた総高は6.7メートルに及ぶ立派な像で、光背にはふつうは如来でないと見られない567体の化仏を伴うなど、大変貴重な仏像です。

(写真は寺発行の絵ハガキより)
今回は、この立派なご本尊を祀る福智院について、地蔵菩薩の特徴にも触れながら書いてみます。
地蔵菩薩とは
お地蔵様すなわち地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊です。
菩薩と言えば、観音菩薩、弥勒菩薩などが思い浮かべられるかと思います。
一般に菩薩像は「出家する前の釈迦がインドの王子であった頃」をモデルにしているので、当時のインド貴族をモチーフにした、きらびやかで優美な衣装や装飾品を身につけているのが特徴です。
これに対し地蔵菩薩は、剃髪した修行僧の姿をしています。
袈裟を身にまとい、左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ姿が多く、他の菩薩とはかなり違った姿です。
釈尊が入滅してから弥勒菩薩が成仏するまでの無仏期間に、人々を救済することを釈迦から委ねられたと言われます。
サンスクリット語では「クシティガルバ」。クシティは「大地」、ガルバは「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」となった様です。
日本においては、平安時代以降、浄土に往生出来ない者は必ず地獄へ落ちると考えられる様になり、地獄における救済者として信仰されました。
特に賽(さい)の河原で、獄卒(ごくそつ:地獄で罪人を苦しめる鬼)に責められる子供を守る地蔵菩薩の姿は、子供の守護者としての地蔵信仰を集めました。
関西では「地蔵盆」は子供中心の祭です。
現在まで地蔵信仰は極めて多様となり、とげぬき地蔵、いぼ取り地蔵、夜泣き地蔵、子育て地蔵、子安地蔵、延命地蔵など、様々な目的で種々の地蔵が作られてきました。
また、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が日本各地で見られます。
これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6つの世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道の衆生を6種の地蔵が救うとする説から生まれたものです。

歴史
寺伝によると、736年に聖武天皇の勅願で、玄昉(げんぼう:奈良時代、吉備真備らと橘諸兄政権を支えた法相宗の遣唐使僧)によってこの地に清水寺(しみずでら)が創建されました。春日山からの清流が流れていたこの付近には、現在も「清水」という地名が残ります。

その後、清水寺は一時的に荒廃しますが、興福寺大乗院実信(じっしん)僧正によって、1254年に福智院として再興されました。
この際に協力を要請され尽力したのが、真言律宗を興し、西大寺を再興したことで有名な鎌倉時代の僧・叡尊(えいそん;興正菩薩)です。
このとき叡尊は、1203年に福智庄(奈良市北東部、当時は大柳生庄の北に隣接する興福寺の領地)で造立された地蔵菩薩坐像を現在地に移しました。
清水寺の経蔵であった建物を改修して本堂とし、地蔵菩薩の光背に567体の化仏を付け加えるなどして立派な本尊に仕上げたそうです。
当時は現在よりもかなり広い寺地を有し、東は新薬師寺、西は元興寺、北は興福寺と近接していた様ですが、例に違わず明治の廃仏毀釈を受けて無住の寺となってしまいました。管理が行き届かない時期が長く続き、本堂の屋根が損傷し、穴があいてしまった時期もあった様です。
昭和の後半になって住職が入り、徐々に境内が整備され現在に至っています。

境内
国道169号線、福智院の交差点を一筋東に入った所に山門があります。
山門を入ってすぐ正面に見えるのが本堂です。
本瓦葺、寄棟造のお堂で、前面の蔀(しとみ)戸が印象的です。

もともとは、奈良時代に立てられた清水寺の経蔵の建物であったということで、お寺の方によると、内陣の柱は奈良時代のものだといいます。
重要文化財の本堂は、1254年、興福寺大乗院の僧・実信による再建です。
もとは縦に高い経蔵の建物であったものに、裳階(もこし)様の外陣を追加して本堂とされた様です。
本堂の中に入ると、内陣の正面に、本尊の木造地蔵菩薩坐像が祀られています。
前述の通り、総高6.7メートルに及ぶ丈六仏で、安坐(あんざ)し、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持っています。台座は奈良時代以前に流行した裳懸座(もかけざ)です。胎内に納められた墨書から、1203年に発願、造立されたことが分かっています。
この地蔵菩薩坐像でひときわ目を引くのが、光背に埋め込まれた多数の小さな化仏(分身の地蔵菩薩)像です。

内側に6体の地蔵菩薩小像
本尊とあわせ計567体の地蔵菩薩
(写真は寺発行の絵ハガキより)
高さ4.95mの二重円相光背には560体の小さな地蔵菩薩と二重円相の頂上に不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい:釈迦如来と同体)、左右に3体ずつ地蔵菩薩(六地蔵)、その下に左右1体ずつ冥官坐像(めいかんざぞう:閻魔王と太山王)が配されています。
釈迦入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩が現れるといいますが、地蔵菩薩の合計数(本尊 1体+小さな地蔵菩薩 560体+六地蔵 6体=567体)は、この年数の数字に符合します。
これは「お釈迦様が亡くなってから、次の弥勒仏が現れるまでの長い期間、地蔵菩薩が責任を持って衆生を救い続ける」という強い決意と世界観を表しています。頂点の如来像は、その意思をお釈迦様から戴き継いでいることを示しています。
本来、光背にびっしりと無数の化仏を並べる「千仏光背(せんぶつこうはい)」は、宇宙そのものを表す最高位の仏(例:東大寺の大仏=毘盧遮那仏など)にしか許されない格式の高い表現です。
地蔵菩薩でこれほど巨大な千仏光背を持つ例は、日本全国を探しても例を見ません。
鎌倉時代に、当時の南都の仏師たちが並々ならぬ熱意を込めてこの像を完成させたことは、当時の地蔵信仰の凄まじさを物語っています。
これほど特殊で貴重なものが、重要文化財とはいえどうして国宝指定を受けていないのか…
お寺の方にお聞きしたところ、学者の先生のお話として、①奈良では鎌倉時代の仏像は古さでは大したことがない ②寺が無住の期間が長かったので、管理が難しいと判断された などの理由が考えられるそうです。
このほか、本堂内には秘仏の宝冠十一面観音が安置されています。
もとは伊勢の裏鬼門を守っていましたが、廃仏毀釈のあと紆余曲折を経て客仏として福智院に祀られることになった客仏です。
春季と秋季、3回にわたり厨子が開扉されます。
また境内には石塔婆群が見られます。
五輪塔のほか、板碑に五輪塔が描かれているものが多い様です。

玄昉忌と福智院
この地に福智院の前身となる清水寺を建てた玄昉は、奈良時代の法相宗の学問僧です。
717年に遣唐使として渡唐し、735年に帰国しました。
玄昉は5000巻を超える一切経(いっさいきょう・仏教の経典全集)と多数の仏像を日本にもたらし、その後の日本の仏教教学の発展と国家の写経事業の基礎となりました。
光明皇后が、一切経が無事に日本へもたらされることを祈願して創建した「海龍王寺」の初代住持を務めたとも言われます。
聖武天皇と光明皇后の信任を篤く受け、僧正に任じられて橘諸兄の政権を支えましたが、この大出世は藤原氏の反感を買い、藤原広嗣の乱(数カ月で朝廷軍により制圧され処刑)を引き起こす契機となりました。
藤原仲麻呂が台頭すると権力を失い、745年に筑紫に左遷されました。
翌年、玄昉は謎の死を遂げたのですが、当時は政敵である藤原広嗣の怨霊によって空を飛ばされて奈良に落ち、玄昉の弟子たちがその首を埋葬した場所が「頭塔(ずとう)」になったと伝えられました。

近年の発掘調査で、頭塔は実際は実忠和尚らが国家安泰を願って築いた土塔(仏塔)と判明しましたが、今も玄昉を偲ぶ場として結びついています。
玄昉の命日である6月18日、彼が創建した福智院や頭塔などで、玄昉忌(げんぼうき)法要が営まれます。
他に類を見ない千仏光背を有し、仏教美術史においても極めて貴重な価値を持つ日本最大の木造地蔵菩薩である本尊像は、知名度はそれほど高くないかも知れませんが、一見の価値があるものだと思います。
玄昉忌も営まれるこの機会に、拝観を検討されては如何でしょうか。
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