見出し画像

焦燥感が強い人ほど、どう生きるかよりどう死ぬかを考えてみる

「どう生きるか」という命題については、いろんなところで語られている。


って書いて一番に思いついたのは、
宮崎駿さんの映画「君たちはどう生きるか」だ。

一昨年の夏。二子玉川の映画館で夜に観た。
宮崎駿作品の全てが一緒くたになっているような映像表現に「ああ」と感嘆のような声が漏れたのを覚えている。

ぼくは、ジブリ作品の主人公たちが見せる鋭い眼光が好きだ。


話を戻る。

「どう生きるか」という命題。

これについて、今これを書いている自分はなんと答えるだろうか。

問うてみるとあっけなくその答えは出た。今こうして何も考えないままにキーボードを叩いている流れで、米津玄師の「地球儀」を聴きながら、答えのキーを叩く。

「美しく生きる」だ。
ぼくは美しく生きていきたい。

美しさってのは見た目がいいという話ではない。泥臭く土に塗れるような生き方にも美しさは宿るし、スムーズでなくともその途方もない遠回りに美しさは宿る。

こういった自分の思う美意識を貫くというのが「美しく生きる」ということだと、ぼくはそう思っている。そのように生きていきたいと思う。


まあいいや。
そんなことはどうでもいいのだ。
閑話休題が長引いてしまった。

今回のタイトルは「どう死ぬのか」だ。

生き方を問われることは往々にしてあるが、どう死ぬかってのも重要だろうと思う。

だって、生き方は選べるけど死に方は選べないから。病死、事故死、他殺、老衰、全てそうだ。与えられるもの。享受するしかないものだ。それは選ぶことができない。


ただ唯一、自死だけが選択肢として常に目の前にぶら下がっている。

ぼくたちに選べるのは自死だけであり、それ以外の死に方というのは基本的に与えられるものだ。選べない。厳密に言うと、選べる死に方は1つだけだ。


その一つを選ぶ人もいる。まあ結構いると思う。それが悪いとは思わないし、誰かにとってはそれこそが「美しく生きる」の最後のピースとなり得るのだろう。その気持ちもわかる。綺麗に終わらせたいという思い、有終の美を飾りたいという気持ちは、まあわかる。だから否定はしない。人には人の生き方があり、死に方があるから。


でも、思うのだ。

少なくともぼくは死に方を選ばない。一つしかないその手段を選ぶことはない。とんでもないような絶望を何度か通り越してきたけど、その一つだけはk結局選ばなかった。

自分で選んで綺麗に自由なタイミングで死ぬのもいいけど、そうじゃなく、どこかで急におっ死んでしまう方がぼくにとっては「美しい生き方」の終わりにはふさわしい。

ぼくは美しく生きて、バカみたいに死にたい。
その死に様まで含めて美しさのような気がするから。


「いつ死ぬか分からないから後悔のないように生きよう」だなんて、本当に綺麗事でえらく馬鹿馬鹿しいなと思う。いつ死んだって「しまった!」と思うよ。だって人生というのはおもろいから。どこで終わらせられたとて「勿体無いな〜」と思うだろう。

でも、まあその時は仕方がないので、そうやって終わった時にもせめて「ぼくは十分に幸せでしたよ。安心してください。良い人生でしたよ」と表明したい。

そのために、こうやって書いているのだ。

だから、遺書を毎日書いているようなもんだよな。

選べる死に方は選ばない。
いつ死んでも後悔するし、いつ死んでも満足している。

そういう美しい生き方ができるように暮らしていきたい。
そんな生き方の補助線を引くように、文章を書いていく。

いいなと思ったら応援しよう!

無職 ここまで読んでいただきありがとうございました! メンバーシップもよかったらぜひ覗いていって下さい!