お金の不安は、明太子おにぎりみたいな記憶から始まることがある
依頼主は大学生。
指定された待ち合わせ場所は、川沿いの公園にあるベンチだった。
春の夕方。空気にまだ少し冷たさが残る。ぼくは缶コーヒーを飲みながら、時間ちょうどにやってくる誰かを待っていた。夕方の光が川面に反射してゆらゆらと揺れている。歩道を走る自転車のベルの音が遠くに聞こえる。
依頼は一時間ほど。だけどいつも思う。一時間というのは案外長い。そして人と向き合う一時間は思ってるよりずっと濃いことが多い。
しかも今日は“初バイト代でレンタル無職を呼んだ”という、なかなかウィットに富んだ相手である。
時間の5分くらい前だったか、向こうから自転車を押して歩いてくる青年が見えた。背筋はまっすぐだけど表情はどこか不安げだ。
「こんにちは、あの……無職さんですか?」
そう声をかけてきた彼は少し緊張した様子で、でもすごく丁寧だった。
「はい、無職です」
そう答えると少しだけ笑ってくれた。この瞬間がけっこう好きだ。警戒が少し溶ける音がする。
「はじめてのバイト代が入ったんで、思い切って呼んでみました」
彼はちょっと照れたようにそう言った。
「初バイト代で?なんか嬉しいです、ありがとうございます」
思わずこちらも本音が出た。誰かのはじめてのお金を自分に使ってもらえるなんてなかなかないだろうなと思う。無職にはだいぶ恐れ多い。
「どんなバイトを始めたんですか?」
「ファミレスです。接客やっぱちょっと苦手っすね」
「ぼくも人付き合いダルいんで気持ちわかりますよ」
「それで無職ってある意味すごいな。学生時代はバイトとかやってましたか?」
「カラオケ店員でした。ヤンキーの部屋にスパゲッティ持って行ったら「俺はピーマン食えねえんだよ」って胸ぐら掴まれて、もううんざりだなって思いましたね」
「それはもう、引退していいやつですね……」
「他にも、お酒の種類が分からなすぎて。カラオケってうるさいからオーダー自体が聞こえないんですよ。めんどくせえからとりあえず生ビール持ってったらブチギレられましたね」
「やば、逆によくいけると思いましたね」
「酔っ払いに頭の上からビールかけられたこともありましたよ」
近くのベンチに腰を下ろすと、彼はコンビニ袋を取り出した。「コンビニ寄るんですけど、お腹すいてませんか」と事前に連絡が来ていたので「なんか買ってきてください」とお願いしておいたやつだ。
「これ、今日のお礼です」とレンタル代が入った封筒と、その袋が差し出される。
「アクエリとおにぎりだ。運動部の昼飯っぽいですね」
「俺サッカー部だったんですよ。ちなみに具は俺のも無職さんのも明太子です。たまごと迷ったけど、今日はこれかなって」
「たまごって最後裏切るんですよ」
「裏切る?」
「思ったより甘いとか、べちゃってしてるとか。全幅の信頼を置いていたたまごに裏切られてぼくは大人になりましたね」
「なるほど。深いのか浅いのかわかんない」
「深いわけがない」
沈黙がしばらく続いた。春の風がふわっと吹いて、アクエリアスの缶がカラカラと音を立てた。
近くの桜は散り際で、ところどころピンクが残っている。風のにおいに少し土の湿り気が混ざっている気がして、どことなく春の終わりを感じた。もうすぐ梅雨が来るのかと思うとなんかめんどくさい気持ちにもなった。
「最近、自分が何したいのか全然分かんなくて」
彼がぽつりと言った。
「就活とかまわりが動き出してるのに、自分だけ取り残されてる感じで」
「あんま気分乗ってない感じですか」
「そうですね、自分でもあんまり自分が分からない感じで」
「自分探し中ってやつですね」
「そうっす。なんか自分を見つけないとって焦ってるというか」
「それ、見つけたらどうします?」
「え?」
「いやなんか気になって。自分って見つけたらどうするんですか。捕まえて檻に入れたりするの?」
「いや、どうするって……」
困惑してる彼を見ながら、たぶんぼくはニヤニヤしていたと思う。こういう禅問答みたいなやつを馬鹿にするのが好きすぎる。なんせ性格が悪い。
「自分探しって普通に家の鏡見たら終わりません?そこに写ってますよ」
屁理屈は無職の大きな武器である。彼は納得してなさそうに頷いた。ぼくはテキトーに喋り続ける。
「これ、探索ゲーじゃなくて育てゲーなんですよ」
「育てゲー?」
「そう。育成ゲーム。ポケモンGOってよりは純正版ポケモン」
「……たしかに」
「見つけるってより“この辺かな”って部分を育ててく感覚が大事なんじゃないかなって。しかも、そっちの方がラク」
「でも”この辺”ってどういうことなんですかね。自分の育てたい部分ってあんまりしっくりこなくて」
「好きなごはんってあります?」
「え?……まあ、明太子おにぎりとか?」
「それですよ」
「え?」
「それがさっき探してた自分ですよ。明太子を選ぶ自分。そういう小さい「これ好き」をちゃんと逃さずに把握しておいた方がいいですね」
「……そんなもん、ですかね」
「その程度のもんですよ」
彼は深く考えるように頷く。
「小さい好きが見えるってことは感性がちゃんと仕事してるってことですから。逆に“何が好きかも分からない”って状態はちょっと危ない」
彼は少し黙っておにぎりの最後のひとくちを見つめた。
「最近バイト中もお客さんの顔色ばっか気にしてた気がします。普段もそうで、自分の好きはどっかいってたかも」
「ちゃんと戻ってきますよ。アクエリアスとか明太子とか選べてるから」
「……でも、そうやって見つけたとしてもそれが“自分”だって信じられるか分かんないです」
「信じなくていいんじゃないですか。とりあえず、“いまの好き”をちょっと大事にしてやるだけでけっこう人生変わるんで。そんで育てるとしたら自分の好きに関連するところをやった方が効率いいですよねって話」
彼はうなずきながらアクエリアスを一気に飲み干した。そんでむせていた、結構盛大にむせていたからやや心配になった。
「自分は探すんじゃなくて育てるもの」
言葉を理解するために、彼はそう呟いたのかもしれない。まだ半分くらいはピンときてないっぽいけど、ぼくもテキトーに言ってるのであんまり深くは考えないでいいぞと思った。
「なんか、こういう話を誰かにしたかったんですよね。でも友達には言えなくて」と彼は笑う。
「友達には見せたくない顔ってありますよね」
「そうなんです」
「そういう時のために無職がいるんですよ」
気づけばおにぎりは食べ終わっていて、ぼくのアクエリアスはちょっとぬるくなっていた。
彼は立ち上がって、深呼吸をひとつした。
「ありがとうございました。なんか、少し楽になりました」
「こちらこそ。明太子派、応援してます」
笑いながら彼は自転車を押して帰っていった。
その背中は、さっきよりも少しだけ軽く見えた。とか言っておけばいいことをした気になれるので、言っておく。
彼が去ったあとのベンチに少しだけ残ったまま、ぼくはボーッと空を見上げた。厳密には見上げてはいないんだけど、空が視界の大部分を占領している。
学生のころの自分を、少しだけ思い出す。
あの頃のぼくも、「自分って何だろう」ばかり考えていた。バイト先で怒られて、元からなかった微々たるやる気さえもどっかに落として、好きな音楽聴きながら一晩中散歩をするなどしていた。
で、いろいろ遠回りして、今こうして“無職”をやっている。悪くない。
でも、あの頃誰かに「それでいい」って言ってもらえたらもう少し自分を信じてこれたかもしれないなとは思う。今日それをぼくがやれていたらいいなと思った。
自分を探すためには旅に出る必要はない。なので立派な地図やコンパスもいらない。そもそも探すな。好きなおにぎりを考えるだけでいいんだから。
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