おもしろい人生は、才能より生活の実験でできている
おもしろいやつを目指すというより、自分にとっておもしろい人生をやっていくことが大切なのかもしれないね。
— 無職7年目 (@nojob_zz) June 2, 2026
おもしれーと何万人に思われようが、自分が自分の人生をおもしろがっていないのであれば、そこにあんまり価値はない。
おもしろい人生をやりましょう。
最近、このことについてよく考えている。
無職というのは、社会的にはおもしろくない存在である。名刺はないし、肩書きもないし、朝礼で発表するような成果もない。世間から見れば、人生というすごろくで一回休みのマスに7年間居座っている変な男である。
しかし不思議なことに、ぼく自身はわりと自分の人生をおもしろがっている。
もちろん毎日が華やかなわけではない。
朝起きて、散歩をして、ラーメン屋の前を通り、今日は食べるべきか食べざるべきかという人類史上もっともどうでもいい葛藤に負けたりする。夜になれば、また明日こそちゃんとしようと思いながら、だいたい同じような明日がやってくる。
だが、人生のおもしろさというのは、イベントの豪華さではなく解釈の濃さで決まるのではないかと思う。
多くの人は「おもしろい人生」と聞くと、何者かになることを想像する。
バズる。稼ぐ。旅をする。起業する。知らない土地で美女と出会う。謎の老人から剣を授かる。そういうドラゴンクエスト的展開を思い浮かべる。もちろんそれはそれでおもしろい。ぼくだって謎の老人から剣を授かれるならいったん受け取る。メルカリに出すかもしれないけど。
ただし、こういったおもしろさにはひとつ罠がある。
他人から見ておもしろい人生を目指しはじめると、自分の人生がだんだん舞台になるということだ。自分は演者で、他人は観客となる。拍手をもらえればうれしい。笑われれば不安になる。一方で反応がなければ、存在そのものが薄くなった気がする。
この状態になると、人生の基準が外に出ていく。
「これをやりたい」ではなく「これをやったらどう見られるか」になる。「楽しい」ではなく「楽しそうに見えるか」になる。つまり、自分の人生なのに編集権を他人に渡してしまうのである。なんとも奇妙な話だ。自分の部屋の模様替えを、通行人の顔色を見ながら決めるようなものだ。
昨今の映え文化がこの流れを助長している。まじでみんな「どう見えるか」でばかり考えている、だから病んでいくのにな!!!
では、どうすればいいのか。
これを解決するために、
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