37針目/『氷河期人材 縫田カケル』第1話「出来なかったよ、ミシンでも」
敵が、叫び声を上げて霧散した。
白い仮面は砕け、値札の文字は剥がれ、切れた糸が工房じゅうに舞う。
黒鉄式零号縫製機《クロガネ》はなおも唸り、少年のカケルはペダルを踏み込みながら叫んだ。
「大丈夫じゃないなら、縫い直せばいい」
針が走る。
布が鳴る。
裂けていた背中が、赤い縫い目でつながっていく。
真っ白な巨体が、縫い目の赤に裂かれて崩れていく。
「出来るよ、ミシンならね!」
工房の机の上で、縫田カケルは雇い止めの通知を見つめていた。
薄い封筒だった。
中身は一枚だけだった。
拠点統合に伴い、契約は更新しない。
理由はそれだけだった。
カケルは、しばらくその紙から目を離せなかった。
「縫田縫製工房」は、もう何年も前から閉じていた。
父が死んだあと、カケルが店を継いだ。けれど、縫製の仕事は少しずつ減り、やがて止まった。
安い既製品がどこにでもあり、直すより買い替える方が早かった。
ミシンを動かす音は、いつしか商店街の記憶の方へ押しやられていた。
母の介護があった。
家を空ける時間を読みやすい仕事を選んだ結果、カケルは地方都市の物流倉庫で働いた。
朝早くから荷を積み、箱を並べ、伝票を確認し、出荷の波に追われる。
正社員ではない。
契約社員だった。
長く勤めても、肩書きは変わらなかった。
拠点がまとめられれば、そこで終わる。
そういう働き方も、今は珍しくもない時代だろう。
工房は、父の代から残る場所だった。
だが今は、店というより道具置き場に近い。
重い工業用ミシンが二台。
革漉き機。
ボタン打ち機。
裁断台。
どれも古く、捨てるには金がかかる。
使うにも金がかかる。
そういうものだけが、壁際に静かに並んでいた。
この二十年ほどのあいだに、産業は少しずつ海外へ移った。
より安い労働力を求めて、工場は外へ出ていった。
国内の現場は空洞になり、残った仕事は細かく分けられ、安く、早く、置き換えられるものになった。
雇用は安定しにくくなり、賃金はなかなか上がらなかった。
安い物はどこでも買えた。
直すより、買い直す方が早い時代だった。
その一方で、人手の足りない現場には、技能実習生や外国人労働者が入ってきた。製造、縫製、介護、外食。支える現場を補う人材は増えた。だが、社会や経済の変化に人間が置いて行かれる場面も増えた。時代は、人を待たなかった。
午前中に受け取った通知は、昼過ぎになっても机の上にあった。仕事を失うと、物のありようまで頼りなくなる。見慣れたはずの机も、扇風機も、壁の棚も、どこか薄い。工房の奥で古い扇風機が回っていたが、風は弱く、埃を動かすほどでもなかった。
そのとき、裏口の鈴が鳴った。
来客だった。
カケルが顔を上げると、外国人らしい小柄な女が立っていた。二十代の後半か、三十代に入ったばかりに見える。
黒い髪をひとつに束ね、紙袋を抱えていた。
少し疲れた顔をしていたが、目はまっすぐだった。
「すみません」
日本語はたどたどしい。
けれど、言いたいことは十分伝わった。
「ここ、縫えますか」
女は紙袋から、紺色のジャケットを取り出した。
背中の縫い目が裂けていた。
袖口も擦れている。
古いが、まだ着られる服だった。
丁寧に着てきたのだろうと、布の表面が先に言っていた。
カケルは、そのジャケットを見たまま、すぐには返事をしなかった。
工房のシャッターは半分上がっていた。
閉めきる気力がなかっただけだ。
だが、外から見れば営業しているように見える。
この女は、たぶんそう思って入ってきたのだろう。
「……ここ、もう、ずっと開けてないんですけど」
カケルはそう言った。
女は少しきょとんとした顔をして、それからシャッターを見上げた。
「でも、上がっていたので」
その言い方は、責めていなかった。
ただ本当にそう思った、という顔だった。
カケルはうまく笑えなかった。
店を引き継いだ。
そうは言っても、もう何年もまともに縫っていない。
父が亡くなってから、工房はほとんど止まったままだ。
縫製の仕事は安い海外製品に押され、地元で細々とやっていくには厳しすぎた。
時代の流れと言えば、それまでだった。
生活のためとはいえ、気持ちはすっかり縫製から離れてしまっていた。
その上、今日は雇い止めの通知まで来ている。
まだ紙は机の上にある。
一枚きりの通知が、今の自分のすべてを言い当てているみたいだった。
だから、女の前でミシンを見せる気にはなれなかった。
「ええと……」
カケルは紙袋のジャケットを見た。
「買い直した方が、早いかもしれません」
言いかけて、そこで止まる。
女は、すぐに首を振った。
「買い直せるなら、ここに来ません」
その言い方は、責めていなかった。
ただ、事実だった。
女は財布を出し、皺のある千円札を一枚、そっと机に置いた。
「これしか、ありません」
その千円は、彼女にとってきっと簡単に出せる金額ではなかった。けれど、形だけの額でもなかった。カケルには、それが彼女の今日の重さそのものに見えた。
「明日、面接です」
女はそう言った。
「これ、着たいです」
カケルは、破れた背中を見た。
引っかけたのか、無理に体をねじったのか。
こういう傷は、布だけでなく、その人の事情を見せる。
ジャケットを受け取ると、指先に古い布の癖が返ってきた。
洗剤と汗と、長く使われた服の匂いだった。
悪い匂いではない。
むしろ、生活の匂いだった。
縫い目をなぞる。
補強布を当てる余地はある。
ミシンを使えば、着られるところまでは戻せる。
どこに力をかけるか、どの糸を先に通すか、どの順で縫えば裂けにくいか。
頭の奥で、そんなことが勝手に浮かび始める。
それを認めたくなかった。
どうせ、いまの自分には無理だ。
工房は止まっている。
倉庫の仕事も失った。
家のことも、先のことも、どれも思うようにいかない。
自分自身の人生のほうが、すでに縫い目だらけだった。
カケルは、わざと視線を外した。
「……それで、どこから来られたんですか」
女は少しだけ首を傾けた。
「東のほうです」
「東?」
「海を渡ってきました」
カケルは、そんな言い方をされて、少しだけ言葉を失った。
意外な答えだったが、大げさでも冗談でもなかった。
簡単に答えられる距離ではない。
けれど、彼女はそういう距離を越えて、今ここにいる。
女は少し間を置いてから、静かに言った。
「技能実習生だったんです」
工房の空気が、そこで少し変わった。
カケルは顔を上げた。
女は、話しすぎてはいけないことを、少しだけ話すみたいな声で続けた。
縫製工場で働いていた。
けれど、工場は閉じた。
雇い止めだった。
次の仕事を探している。
面接が一件だけ入っている。
それが明日だという。
カケルはジャケットを机に広げた。
裂け目を見つめる。
あらためて見ると、縫い方が甘いわけではない。
どこかで引き裂かれたのだろう。
引っ張られた線が、布の奥にまで残っている。
カケルは、ふと自分の手を見た。
倉庫で箱を運ぶ手だ。
布を扱う手ではない、と自分では思っている。
だが、そう思うのは、もう何年もミシンの前に座っていないからだ。
ほんの少しだけ、糸の通し方を思い出せば、何かが動く気もする。
だが、いまの自分にそんな資格があるのか。
自信はない。
「ちょっと待ってください」
そう言って、カケルは工業用ミシンのカバーに手をかけた。
外したくない。
でも、外さないと始まらない。
油は切れていなかった。
完全に死んではいない。
埃を拭き、針を確かめ、糸を通す。
久しぶりの機械は、少し冷たかった。
長く放っておかれたものの気まずさに、似ていた。
ペダルに足を置く。
踏み込む。
その瞬間だけ、工房の空気がわずかに変わった。
黒い鉄の脚が、いつの間にか別の形に見える。
ペダルは獣のあばら骨のように太く、はずみ車は、何か巨大な心臓みたいに回っている。
工房の隅に、白い布の巨体が立ち上がる。
量産の化身。
合理化の化身。
均一化の機械神、クニクロ。
白い顔に口はなく、ただ札のような目が並んでいる。
その背後には、同じ形の服が何枚も、何十枚も、何百枚も並んでいた。
すべて同じ。
すべて安い。
すべて早い。
すべて、直す前に買い替えることを前提にした布だった。
クニクロが、低い声で言う。
「違いはムダだ。
補修は遅い。
手間は高い。
揃っていれば、安く、早く、迷わない」
カケルは息をのんだ。
さっきまで、自分の人生を引き算していたのに、手だけが勝手に前へ出ようとしている。
黒鉄式零号縫製機《クロガネ》。
少年だったころ、四人で描いた空想の機械が、視界の奥に立ち上がる。
布を縫うだけではない。
ほつれた日常を、縫い替える工作機械。
誰にも笑われないための、子どもじみた武器。
だが、いまはもう空想だけでは終わらない。
クニクロの白い布が、工房じゅうに広がる。
同じ寸法。
同じ丈。
同じ値札。
同じ正しさ。
カケルは、ペダルを踏んだ。
ダダダダダダッ、と古いミシンが鳴る。
針が走る。
糸が通る。
補強布が当たる位置が、頭の中で自然に決まる。
裂け目の端を押さえ、布目を合わせ、返し縫いで止める。
どう縫えば、生地が生きるか。
どう直せば、明日の朝、袖を通したときに少しだけ楽か。
その判断だけは、体が覚えていた。
クニクロが、無数の白い服を放つ。
同じ形に整えようとする圧力が、工房を包みこむ。
だがカケルは、それを赤い縫い目で縫い返す。
「大丈夫じゃないなら、縫い直せばいい」
少年の声が重なる。
女は、何が起きているのか分からないまま、その場に立っていた。
だが、カケルの手元を見て、息をのむ。
裂け目は消えない。
補修跡は残る。
けれど、そこにしかない筋が入る。
量産の白ではなく、その人の体に合わせた縫い目が走る。
「出来るよ、ミシンならね!」
その声とともに、クニクロの白い体は裂けた。
同じであることを強いていた布地が、赤い縫い目の中でほどけていく。
値札の文字が剥がれ、切れた糸が工房じゅうに舞う。
古いミシンの音だけが、低く残っている。
カケルはハンドルを止めず、ジャケットを見た。
どうせうまくいかない。
さっきまでの自分なら、やめていたかもしれない。
自分の人生だって、ろくに縫い直せていないのだ。
でも、今の気持ちは先程とは少し違っていた。
カケルは少しだけうなずくと、女のほうを見た。
「……やってみます」
女は驚いたようにカケルを見る。
カケルはわざと目を逸らして、話をそらした。
「技能実習生って、縫製の仕事、長かったんですか」
女は少しだけ笑った。
さっきより、ほんの少しだけ柔らかい顔だった。
「長かったです。
ミシン、好きでした」
そのひと言で、カケルの中の何かがまた少し動く。
それを認めたくなくて、カケルはすぐに手を動かした。
針を通し、布を押さえ、背中の裂け目を閉じる。
職人として、どう縫い直すか。
頭の奥で、自然に組み立て始める。
女はその手元を見ていた。
そして、何も言わずに、静かに立っていた。
ジャケットは、完全に綺麗にはならなかった。
けれど、着られるところまでは戻った。
明日の面接に袖を通すには、もう十分だった。
女はそれを両手で受け取ると、少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございます」
カケルは千円札を机の端に置いたまま、しばらくその背中を見送った。
扉が閉まると、工房はまた静かになった。
古い扇風機が回っている。
ミシンの針先は、まだわずかに温かい。
カケルは椅子に浅く腰を下ろした。
うまくいったとは言えない。
だが、何も始まらないまま終わる一日ではなかった。
それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。
工房の奥で、古いミシンがもう一度、静かに音を立てた。
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50代からミシンを始めたエンジニアが、人生を少しずつ修繕し、最適化していく記録です。
