【第15回】円という資産の終焉〜実質実効レートが消えた先でバランスシートをどう再設計するか〜
はじめに
前回は、AIの電力消費を「環境コスト」ではなく「覇権の争奪」として再定義し、電力を制する者がAIを制するという構造を論じました。ビッグテックが原子力発電所を押さえ、変圧器のリードタイムが4年に達し、日本の電力会社がディフェンシブからグロースへと変容しつつある。その連鎖の結論は、「物理的なインフラを握る者が次の10年の価格決定権を持つ」というものでした。
今回は視点を一段、マクロへと引き上げます。AIの電力インフラを語る時、その争奪戦の舞台のひとつが日本であることを忘れてはなりません。そして日本という舞台の地盤そのものが、いま静かに液状化しています。その地盤とは、「円」という通貨です。
円の実質実効為替レートは、2026年3月に統計開始以来の最低水準を更新しました。 購買力平価で計算すると、現在の市場レートは理論値より50円以上の円安乖離があります。これは単なる為替の話ではありません。円建てで資産を保有し、円建てで収入を得ている者のバランスシートが、静かに、しかし確実に侵食されているという話です。
1. 「円安」という言葉が隠している本当の数字
為替を語るとき、多くの人が頭に浮かべるのは「ドル円レート」という一対一の比較です。2024年前後に160円台をつけ、その後150円台後半で推移しているこの数字の変化を見て、「行きすぎた円安が少し是正された」と読む向きもあります。しかし名目為替レートは、通貨の実力を測る最も荒い物差しにすぎません。
本当に見るべき指標は、実質実効為替レートです。これは円がドルだけでなく貿易相手国すべての通貨に対してどれだけの購買力を持つかを、インフレ格差を調整した上で計算したものです。国際決済銀行が公表するこの指標を見ると、2026年3月時点の値は66.33(2020年=100)。変動相場制に移行した1973年以降の全データで最低水準を更新し、さらに遡れば変動相場制移行前の1970年前後の水準すら下回っています。統計が許す限り最古の比較において、円の実質的な購買力は過去最弱の領域に入りました。
購買力平価との乖離も、この数字を補完します。OECDやIMFが公表する各種の購買力平価試算を参照すると、ドル円の理論値はおおむね100〜110円程度のレンジに収まります。市場レートは158〜160円台で推移しており、乖離幅は50円以上。購買力平価比で見れば、円は理論的な適正水準から50%超の割安に放置されています。
ここで立ち止まって考えてほしいのは、この乖離が単に「投機的な行き過ぎ」なのかどうかという問いです。購買力平価は長期的には回帰するという理論があります。円が理論値に戻る、つまり大幅な円高が来るのではないかという反論は、自然な発想です。
しかしこの反論が成立するには、乖離が生まれた構造的な原因が解消される必要があります。乖離の約半分は名目為替レートの円安によるものですが、残りの半分は日本の相対的な物価水準の低さ、すなわち30年にわたるデフレと生産性劣後によるものです。生産性の構造問題は名目為替レートの動きとは独立して作用しており、日銀が多少の利上げをしたとしても、この部分は解消されません。購買力平価への「回帰」を待つ戦略は、構造的な劣後が続く限り、来ない電車を待ち続けることに等しいのです。
2. 「安全資産としての円」という神話の解体
「有事の円買い」という言葉は、長く投資の常識として機能してきました。世界のどこかでリスクが高まると、投資家は円を買う。その結果、円高になる。この経験則を支えていたのは、日本が世界最大の債権国であるという事実と、低金利通貨を借りてリスク資産に投資するキャリートレードが巻き戻される際に円買い圧力が生まれるというメカニズムです。
この構造は完全に崩壊したわけではありません。2025年前半には、米国の関税政策をめぐる不確実性の高まりから、一時的に140円台まで円高が進む局面がありました。キャリートレードの巻き戻しは今でも発生します。
しかし問題は、この「安全資産」としての機能が有事の際に一時的に発動するとしても、中長期的なトレンドとして円の価値が構造的に低下し続けているという事実です。一時的な円高の窓が開いても、その後に再び円安方向へ戻るサイクルを繰り返しながら、中心値が切り下がっています。2015年の「有事の円高」で到達した水準は115〜120円台でした。2025年の有事で到達した水準は140円台です。有事の円高の「着地点」そのものが円安方向に移動していることが、構造的な変化を示しています。
なお、2020年3月のCOVIDショック時にはUSD/JPYが一時101円台まで円高が進みました。この事例は「着地点がシフトした」という論旨への反例に見えます。しかしあの局面は、ドル建て流動性が世界規模で急激に枯渇したことによる特殊なドル需要の逆転現象であり、円の購買力や構造的な需要が回復したわけではありませんでした。FRBが無制限のドル供給に踏み切った後、円は速やかに円安方向へ戻っています。構造的な変化ではなく、流動性危機という一時的なショックが生み出した例外として切り分けることが適切です。
なぜ安全資産としての円の地位が相対的に低下しているのか。3つの構造的な要因が重なっています。
第一に、財政余力の消失です。日本の政府債務残高はGDP比250%を超えており、先進国の中で最も高い水準にあります。有事に財政政策を動員できる余地が他国と比べて限られていることは、投資家の目から見て通貨としての信頼性に影を落とします。
第二に、経常収支の質の劣化です。経常収支の黒字は維持されていますが、その構成が変わっています。かつての黒字を支えていた貿易収支は赤字に転落し、現在の黒字の大部分は海外への投資・融資全般から得られる配当・利子収入(第一次所得収支)が担っています。この所得は、企業や機関投資家が外貨を円に換えずに海外に留保する割合が高く、実際の円買い圧力に転化しにくい。数字の上では黒字でも、為替市場での円の需要に直結しない黒字が増えているということです。
第三に、デジタル赤字の拡大です。クラウドサービス、広告プラットフォーム、コンテンツ配信。日本企業・日本の消費者がGAFAMなどの米国テック企業に支払うデジタルサービスの対価は、毎年増加しています。これは貿易赤字の新しい形であり、円売りドル買い圧力として恒常的に作用します。AIサービスへの依存が深まるほど、このデジタル赤字は拡大する方向に働きます。
「有事の円買い」は戦術的には発生し得ます。しかし戦略的には、円は資産クラスとして相対的に劣後する方向に構造が動いています。この二つの時間軸を混同すると、短期の揺り戻しを「円復活の証拠」として誤読することになります。
3. 経常黒字国が通貨安になる逆説の正体
「日本は世界最大の対外純債権国なのに、なぜ円安になるのか」という問いは、多くの人が感じる直感的な矛盾です。この逆説を解くことが、円安の構造の核心に触れることになります。
対外純資産が積み上がるということは、日本が長年にわたって海外への投資・融資を拡大してきたことを意味します。2024年末時点での日本の対外純資産は約500兆円を超え、30年以上連続で世界トップの座にあります。帳簿上の数字だけを見れば、円は世界で最も裕福な国家の通貨です。
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