見出し画像

『国宝』を観て──父になれなかった男の物語


はじめに

映画『国宝』を新宿TOHOシネマズで観た。公開から2ヶ月ほど経つが評判はすこぶる良く、興行収入も60億円を超えそうな勢いだ。前評判はそこそこに、ネタバレは一切読まずに観たが、3時間ある中で観ている最中からかなりくらってしまい、終わったあと近くのスーパー銭湯「テルマー湯」に駆け込み、外の寝湯に浸かりながら、30分ほど天を見上げてぼーっと考え込んでしまった。そのときに考えたことをnoteにまとめようと思う。

寝湯

以下、まだ観てない人はネタバレも含むので、観てから是非読んでほしい。


ざっくりとしたあらすじとして、この作品は戦後の歌舞伎界を舞台に、吉沢亮演じる「立花喜久雄」が頂点を極めるまでの人生を描いた物語だ。芸事の継承、生まれ持った才能、血の宿命。そのすべてを背負いながら歌舞伎役者として「人間国宝」になった男の話だ。

僕も一人のデザイナーとして、芸事に身を投じているという点で(おこがましくもあるが)どうしても自分と重ね合わせてしまった。そして映画を観ながらずっと考えていたのは「父になるとはどういうことか」という問いだった。映画「国宝」を「父になる」という視点から読み解いていきたいと思う。


三人の父──血ではなく、導くということ

喜久雄の人生には三人の「父」が現れる。

ひとり目は実の父。映画の冒頭で青年期に敵対するヤクザの襲撃を受け、目の前で殺されてしまう。その結果喜久雄は「導き」を失い、一度道を外して体に墨を入れヤクザの道に踏み込むも、そこで二人目の父、歌舞伎役者の花井半次郎(渡辺謙)に拾われる。彼は血縁を超えて喜久雄の才能を見出し、厳しくも真正面から「導いて」育ててくれた。そして三人目が人間国宝である万菊(田中泯)。半次郎を失い再び道に迷っていた喜久雄を、自分の後継として人間国宝の座にまで「導いた」。

三人とも「血」ではなく、「導く」という行為で「父」を全うしていた。このように映画「国宝」の中で、父とは人の中に光るものを見出し、すくい上げ、寄り添い、進むべき方向へ導いていく存在として描かれていたように思う。


果たして喜久雄は「父」になれたのか?

一方で、喜久雄にも「父になる機会」は何度か訪れる。かつての恋人との間にできた娘、そしてかつて青春を共にし、芸を磨くことに一緒に切磋琢磨した俊介(横浜流星)の息子、さらには描かれなかった後妻の子。だが、誰にも本気で向き合うことはなかった。

実の娘は幼少期に関係を絶ち、週刊誌のカメラマンになった。カメラマンという職業とは、かつて週刊誌にすっぱ抜かれて道を踏み外すきっかけをつくった、喜久雄にとっては天敵のような存在だ。その職業選択からも描かれているように、人間国宝になった喜久雄と対面した娘には強い恨みがこもっていた。

俊介の息子には、その血筋から歌舞伎役者になることが運命づけられているにも関わらず、かつて半次郎に教わったときのように歌舞伎の指導をしても、「海のものとも山のものとも。あいつはバスケがしたいらしい」と言って熱心に育てることを諦めてしまう。彼の中に才能を積極的に見出そうとも、進むべき道を引導しようとする意思もなかった。

また、自分の役欲しさに付き合った後妻は最もつらい時期を共にしたが、子どもを生むという選択を放棄し、彼女と二番目の子どもを授かることはなかった。

誰かを導くには、その人をよく見て、関心を持ち、責任を引き受ける覚悟がいる。しかし、喜久雄はずっと自分自身しか見ていなかった。だから何度も機会は訪れることはあっても、「父になる」ことができなかった。


喜久雄は成長したのか

映画のラストで喜久雄が、舞台の光を見て呟く「きれいやな」というセリフ。これは幼い頃に魅了された、初めて歌舞伎を観たときの彼と同じ目線だ。つまり、彼はずっと"あの瞬間"から成長していない。芸は磨き続けていたが、内面はあの少年のままで、最後の最後まで芸にしか興味を持つことができなかった。

週刊誌にすっぱ抜かれ、一度道を外れてもなお歌舞伎のことしか頭のない喜久雄に対し、恋人(のちの後妻)から「どこ見てんのよ?」と問われても「どこ見てるんやろうな」としか答えられない。彼が見ていたのは舞台の光だけ。隣にいる自分のことを一番考えてくれている人のことでさえ最初から見ていなかった。

喜久雄の人生は、最初から最後まで「芸」によって形づくられていた。芸事に救われ、芸事に裏切られ、芸事の世界に見を閉じ、芸でしか自分を語れなかった。芸を貫いて人間国宝として評価されるも、その人生は美しいようでいて、決して美談ではない。


才能の孤独──継がれないものの果てに

歌舞伎の世界は血で継がれていく。しかし、喜久雄は「才能」でその枠を打ち破った。血のつながりなしに頂点に立ったのは素晴らしいことだが、同時に「誰にも継がれない」という孤独も抱えていた。自らの芸に対する才能に目がくらみすぎて、弟子も育てられず、家族とも繋がれず、自分の芸を誰かに託すこともできなかった。

人間国宝にまで上り詰めた晩年の万菊が、キレイではないものに囲まれて死んでいったように、喜久雄もまた自分だけの芸を抱えて孤独に終わるのかもしれない。これは「歌舞伎」という文化そのものの未来も示唆している気がした。


僕は父になれているのか

自分語りで申し訳ないが、自分を振り返ってみると、実父との関係は希薄なものである。思春期以降、会話も減り、実家に帰ってもあまり話さない。今では何を考えているかもよくわからない。そんな僕も今、子どもがいるし、会社でも代表として何人ものメンバーを導く立場にいる。つまり、立場上「父」であることが求められている。血がある関係も、ない関係も、どちらにも"父"として関わらなければならない。

映画「国宝」で描かれた、誰かを導く存在としての「父」をうまくできているかはわからない。むしろ、できていない部分の方が多いと思う。僕はデザインが好きだ。であるがゆえに周りが見えなくなることも多い。そのため、喜久雄のように、自分だけが見ることのできる光ばかりを見て、芸事に身を投じ、隣の人を見ない。そんなふうになってしまう可能性を自分と重ねてしまい、すごく食らってしまった。

芸事を磨き、他者から圧倒的な評価をされても、父になれなかった人はどうなるのか。最後まで孤独が続くのかもしれない。


父になりたい

誰かを導くというのは本当に難しい。自分のことや求道的に何かを進めているときほど、他人を見ることは難しい。でも、だからといって目を背けていては、いつまでも"父"にはなれない。

「父になる」というのは、完璧な人間になることじゃない。ただ、近くにいる他者に目を向け続けること。花井半次郎や万菊も決して完璧な人間ではない。むしろ芸事に狂った人間として描かれている。しかし、彼らがそうしたように、他者に目を向け、すくい上げ、その人の弱さや迷いを受け止めて、一緒に歩こうとすることは非常に大事なんじゃないかと思った。

子どもに対しても、会社のメンバーに対しても、自分にはまだやれることがある気がしている。デザインという芸事に目がくらんでしまい、自分のことしか見えなくなる瞬間は多い。でも、少しでも彼らを見ようとすること。導こうとすること。完全にできなくても、その意志だけは持っていたい。


おわりに──誰かの手を取れる人間でありたい

人によって観方はそれぞれあるだろうが、「国宝」はひとりの天才の人生を描いた作品であると同時に、僕にとっては「父になれなかった人」の物語だった。才能だけでは人は救えない。導こうとする覚悟がなければ、どんなに素晴らしく美しいものを持っていても、それはただ孤独な人生を歩むだけだ。

僕はいま、芸事と家族、仕事と生活、自分と他者、その狭間にいる。そのバランスを取りながら、少しでも「父」に近づいていけたらと思う。誰かの手を取れる人間でありたい。そう思わせてくれた作品だった。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集