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【短編小説】おばあちゃん、そこにいるなら聞いて

「ちょっと〜、まゆちゃん。ガスコンロつけてぇ」

 私は台所から茶の間をのぞき込んだ。

 高校生になった孫は、ずいぶん大人びて見える。テーブルに肘をついて、スマホを見ている。何度呼びかけても、返事がない。

 最近の子は、呼ばれてもすぐには顔を上げない。娘の朋子もそうだった。昔なら「返事くらいしなさい」と言ったところだけれど、孫にはどうにも甘くなる。

「まゆちゃん。大根のお味噌汁、作るよ。あなた好きでしょう。一緒に作ろう」

 朋子が開けた冷蔵庫を、私も一緒にのぞいた。

 大根が一本入っている。

 薄くいちょう切りにして、くたくたになるまで煮てあげたい。まゆちゃんは、小さい頃から大根の味噌汁が好きだった。箸で持つと少し崩れるくらいやわらかくなった大根を、ふうふう言いながら食べてくれた。

 あの顔が見たくて、私は何度も大根を煮た。

 なのに、今日は顔を上げない。

 仕方ないので、私はコンロのつまみに手を伸ばした。

 指先は、つまみの上をすり抜けた。

 火はつかなかった。

 まあ、仕方ない。

 こういうことには、もう慣れている。

「ちょっと朋子!」

 今度は娘を呼んだ。

 朋子は、流し台の前で夕飯の支度をしている。まな板の上には玉ねぎ。鍋の中では、何かがことこと音を立てている。

 髪をひとつに結んで、袖をまくり、洗い物の合間に野菜を切る。あんなに家事が苦手だった娘が、今は何も考えなくても手を動かしている。

 小さい頃は、玉ねぎを切る私の横で、目が痛いと言ってすぐ逃げた子だった。

 親になると、人はこういう手つきになるのだろうか。

「朋子。糠漬け、混ぜてないじゃないの。もう……あんなに言ったのに」

 台所の隅に置いた糠床は、今では小さな琺瑯の容器に移されている。昔の大きな壺とは違う。けれど、混ぜなければだめになるのは同じだ。

 糠漬けをかき回す役は、いつも私だった。朋子はどうしても、これを後回しにする。

 でも、きゅうりを漬けると、まゆちゃんがよく食べる。夕飯の前にひょいとつまんで、「しょっぱ」と言いながら、もう一切れ食べる。

 あの子はしょっぱいものが好きだ。

 私に似たのかもしれない。

「朋子、聞いてる?」

 朋子は私のほうを見ない。玉ねぎを切りながら、テレビのニュースに耳を傾けている。

 包丁の音、換気扇の音、鍋の音。台所はちゃんと動いている。

 ただ、糠床だけが、隅で忘れられている。

 私は少しだけ腹を立てて、それからすぐに笑ってしまった。

 朋子は都合の悪いことだけ聞こえないふりをするのが、昔から上手だった。

「ママ、今日の味噌汁なに?」

 スマホでのやり取りが一段落したのか、まゆちゃんがやっと顔を上げた。

「玉ねぎと豆腐」

 朋子は包丁を止めずに答えた。

「大根が良かったな」

 ほら見なさい。まゆちゃんは大根の味噌汁が好きなんだよ。

「明日にする」

 そりゃそうよね。ここまで作ったら、今さらやめられないわよね。

 まゆちゃんは、少し口を尖らせた。

 私はその横顔を見て、ああ、この顔は朋子にそっくりだと思った。

 怒っているときほど似る。

 口を尖らせるところも、言いたいことがあるのに、少しだけ飲み込むところも。

 親子というのは、本人たちが嫌がるところほど似るものらしい。

 その週の日曜日、二人は車で出かけることになった。

 朝から朋子は洗濯物を干して、台所を片づけていた。まゆちゃんは部屋からなかなか出てこない。スニーカーを見に行きたいらしい。

 朋子はついでに、米と牛乳と、明日の弁当のおかずを買うつもりでいる。

 私は玄関で二人を待っていた。

 先に車の前に行きたかったけれど、二人の支度はいつも時間がかかる。だから今日は、玄関で待つことにした。

 私も行くよ。

 誰も返事をしないから、今日も独り言になってしまった。

 二人がやっと靴を履いたので、私も一緒に玄関を出た。

 外はよく晴れていた。

 車の窓に空が映っている。庭の隅では、紫陽花の葉が少しだけ揺れていた。

 私は助手席のドアの前に立った。

 昔から、助手席は私の席だった。

 朋子が運転するようになってからも、私はいつもそこに座った。道路のことを口出しして、右だ左だと指示をして、ブレーキが遅いだの、ウィンカーが早いだの、ずいぶんうるさく言ったものだ。

 朋子はそのたびに、「わかってる」と言った。

 わかってる、と言いながら、少しだけ嫌そうな顔をした。

「ママ、お待たせ」

 靴のかかとがまだ入っていないスニーカーを引きずりながら、まゆちゃんが助手席の前に立った。

 私はずっと、助手席のドアの前にいた。

 けれど、まゆちゃんは私に声もかけずに、何も見えていないみたいに、すっと横を通って助手席に乗り込んだ。

 あらら。

 私は少しよけた。

 朋子が後ろのドアを開けて荷物を積みなおしたとき、私は後部座席に乗り込んだ。

 仕方ないわね。今日は後ろにしましょうか。

 もちろん、聞こえてはいない。

 後部座席は、少しだけ埃っぽい匂いがした。

 朋子が運転席に乗り込む。

「シートベルトしてね」

 運転手から指示が出て、車は出発した。

 私は窓の外を見た。

 角の古い家が取り壊されて、更地になっている。前は小さな花壇があった家だ。よくおじいさんが水をまいていた。

 町は、少しずつ知らない形になっていく。

「そういえばさ」

 朋子が信号待ちで言った。

「おばあちゃん、免許返すとき大変だったよね」

 私は後ろの席で、少し背筋を伸ばした。

 またその話か。

「またその話?」

 まゆちゃんも、同じことを言った。

 朋子は前を向いたまま、少し笑った。

「だって、本当に大変だったんだから。私はまだ大丈夫、って」

 私は、まだ大丈夫だったと思ってるのよ。

 後部座席から身を乗り出して言ったけれど、二人には届かない。

「でもさ」

 朋子がハンドルに手を置いたまま、少し声を落とした。

「免許返したあと、家の前の坂、きつかったよね。きっと」

 まゆちゃんが顔を上げた。

「うん。あの坂、私でも嫌だもん」

 その一言で、私は黙った。

 家の前からバス停まで続く、ゆるいようで長い坂。

 若い頃は、買い物袋を両手に下げても平気で上がった。雨の日でも、雪の日でも、文句を言いながら歩いた。

 それなのに、免許を返したあと、私はその坂の途中で立ち止まった。

 息が切れて、足が前に出なくて、景色だけが先に進んでいくようだった。

「あの日さ、おばあちゃん、バスで病院行くって言い張ったよね」

 まゆちゃんが言った。

「何回も途中で休んで、結局タクシー呼んだんだよ」

 そうだったねえ。

 あの日、まゆちゃんが付き添ってくれたねえ。

 半分も上がれなかったけどね。

 車内が少し静かになった。

 朋子は何も言わず、青になった信号をゆっくり進んだ。

 私は後ろの席で、まゆちゃんの横顔を見た。

 そうか。

 あの子は、私を笑っていたのではないのか。

 強がりだと責めたのでもなく、あの坂のきつさを覚えていてくれたのか。

 少しだけ、胸の奥がほどけた。

「まあ、返してよかったよ。事故するよりはね」

 朋子が小さく言った。

「そうだね」

 まゆちゃんは素直にうなずいた。

 私は少しだけ不服だった。

 でも、反論はしなかった。

 免許を返すのは、車を手放すことだけではなかった。

 行きたいところへ自分で行けなくなること。

 娘に頼むこと。

 頼んで、待つこと。

 あの頃の私は、車を手放したくなかったのではない。

 誰かに頼らなければならない自分を、認めたくなかったのだ。

 寂しいと言えばよかったのに。

 私はいつも、寂しいときほど怒ってしまう。

 帰り道、まゆちゃんは新しいスニーカーの箱を膝に乗せていた。

 その日の夕方、朋子は茶の間でうたた寝をしていた。

 テレビはついたまま。音だけが小さく流れている。テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと、スーパーで買ってきた袋のままのお菓子が置かれている。

 洗濯物はまだ畳まれていない。

 夕飯の支度も、途中で止まっている。

 朋子は座布団を枕にして、横向きに寝ていた。

 私は、そのそばに座った。

 昔の朋子は、寝相が悪かった。

 叱った日の夜ほど、布団をかけ直す手が長く止まった。

 布団を蹴飛ばして、畳の上で丸くなっていた。何度かけ直しても、朝には必ず布団から出ていた。

 今も、少しだけ同じ顔で眠っている。

 口元に力が抜けると、子どもの頃の顔に戻る。

 朋子は、誰かを頼るのが下手な子だった。

 まゆちゃんが小さい頃も、夜中の熱も、保育園からの呼び出しも、仕事帰りの買い物も、ほとんど一人で抱えていた。

 私がもっと手伝うと言っても、「大丈夫」と言った。

 大丈夫じゃない顔で、大丈夫と言った。

 あのとき私は、もっと踏み込めばよかったのかもしれない。

 でも、踏み込みすぎると、また余計なことを言ってしまいそうで怖かった。

 私は手を伸ばして、朋子の頭をそっとなでた。

 触れたかどうかは、よくわからない。

 でも、なでたかった。

 よぉく一人でここまで頑張ったねえ。

 まゆちゃんを、こんなに大きくして。

 偉かったねえ。

 私は小さく言った。

 朋子のまつ毛が少し震えた。

 聞こえたのかもしれない。

 聞こえていないのかもしれない。

 どちらでもよかった。

 私は、言いたかった。

 もっと早く言ってあげればよかった。

 まゆちゃんが生まれたとき、朋子はずっと不安そうだった。

 夜泣きで眠れない顔をして、台所に立っていた。抱き方が違う、ミルクが遅い、部屋が寒い。そんなことばかり私は言った。

 本当は、よくやっていると言ってあげればよかった。

 あなたはちゃんとお母さんになっているよと、言ってあげればよかった。

 でも私は、その一言を出し惜しみした。

 褒めたら気が緩むと思っていた。

 甘やかしたらだめだと思っていた。

 違った。

 あの子に必要だったのは、たぶん、少し休んでもいい場所だった。

 玄関の開く音がした。

「ただいまー」

 まゆちゃんの声。

 朋子が目を開けた。

 寝ぼけた顔でぼんやり天井を見て、それから少し笑った。

「お母さん、何笑ってんの?」

 まゆちゃんが茶の間に入ってきた。

 朋子は起き上がりながら、自分の髪を手で押さえた。

「おばあちゃんに褒められたから」

 私は、どきりとした。

 まゆちゃんは眉を上げた。

「えー? おばあちゃんがそんなことする?」

 するわよ。

 私は思わず言った。

 もちろん、まゆちゃんには届かない。

 朋子は眠そうな顔のまま、少し笑った。

「おばあちゃんの夢見ちゃったよ」

「おばあちゃんって、ママのこと褒めたりする人だったかな」

 ちょっと、失礼ね。私だって娘を褒めるわよ。

 二人には聞こえないまま、朋子とまゆちゃんは同じ顔をして笑った。

 私は少しふくれて見せた。

 でも、胸の奥があたたかかった。

 褒めたっていいじゃないか。頑張ったんだから。

 もっと早く言ってあげてもよかったねえ。

 夜になると、茶の間は少し暗くなる。

 この家には、仏壇と呼ぶほど立派なものはない。朋子が、そういうのは苦手だと言ったからだ。

 線香を毎日あげるとか、水を替えなければならないとか、そういうことが義務になるのが嫌だと、ずいぶん前に言っていた。

 その代わり、茶の間の棚の上に、私の写真が置いてある。

 小さな木の棚だ。

 写真の隣には、私がよく使っていた湯のみ。季節によって、花が一輪置かれたり、まゆちゃんが買ってきた小さなお菓子が置かれたりする。

 湯のみの中身は、たいていお茶だ。

 でも、正直に言うと、私はコーヒーが好きだった。

 朋子はそれを忘れているのだろうか。

 いや、覚えているのかもしれないけれど、写真の前にはお茶、という形に落ち着いている。

 こういうときくらい、お茶じゃなくてもいいのに。

 その日の夜、朋子は棚の前に立った。

 湯のみを手に取る。

「お茶、替えようか」

 そう言って、台所へ向かいかけた。

 まゆちゃんが、お菓子の袋を開けながら言った。

「ママ、コーヒー飲もうよ」

 朋子が振り返る。

「こんな時間から?」

 まゆちゃんは棚の写真を見た。

「おばあちゃんも好きだよね、コーヒー」

 私は顔を上げた。

 そうよ。好きよ。

 よく覚えてたじゃない。

 朋子も写真を見た。

「そうね。おばあちゃんにもコーヒーにしようか」

「三人分用意するね」

 まゆちゃんが私の分も豆を挽いた。

 朋子が、私の写真を見ながら言った。

「おばあちゃんと喫茶店に行くとさ、アイスコーヒーを頼むのよ。それで、出てきたアイスコーヒーに、サービスの水を氷ごと勢いよく入れて薄めて飲むんだよ」

 私は思わず噴き出した。

 そんなこと、改めて言われると恥ずかしいじゃないか。

 まゆちゃんは一瞬だけ黙って、それから笑った。

「今日もそれやろうか。おばあちゃんがやってた通りに。喜ぶかも」

 朋子が二人分のコーヒーを淹れているあいだに、まゆちゃんは私の分だけゴブレットを出した。

 氷を入れて、濃いめに落としたコーヒーを注ぐ。

 それから、水を足した。

 マグカップが二つ。

 ゴブレットが一つ。

 自分の分。

 朋子の分。

 それから、私の写真の前に置く、薄いアイスコーヒー。

 茶の間に、コーヒーの香りが広がった。

 私はその香りを吸い込むようにした。

 飲むことはできない。

 でも、好きだったものの香りは、ちゃんとわかる。

 二人は茶の間でおやつを食べた。

 まゆちゃんが、袋菓子を一つ、写真の前に置いた。

「おばあちゃん、これも食べる?」

 以前、まゆちゃんと二人で一緒に食べたお菓子だった。

「おばあちゃん、これ大好きなんだよ。止まらなくなるんだよ」

 お菓子を食べ過ぎると朋子に叱られるから内緒にしていたのに、まゆちゃんにとうとうバラされた。

「え? これそんなにたくさん食べてたの?」

 ほらね。

 二人の会話の中に、私はちゃんといる。

 お茶を替えるとき。

 コーヒーを淹れるとき。

 大根の味噌汁の話をするとき。

 糠漬けを放っておくとき。

 免許を返したあとの坂道を思い出すとき。

 私はそこにいる。

 でも、そこにいながら、いつも少しだけ遅れて気づく。

 私は、朋子のそばに、ちゃんといられたのだろうか。

 まゆちゃんには甘かった。

 泣けばゼリーを出したし、宿題を放り出しても「今日は疲れたんだね」と言った。お菓子だって、朋子に内緒で一緒に食べた。

 でも、朋子には、そんなふうに逃がしてやれなかった。

 朋子が母親になったばかりの頃。

 まゆちゃんを抱いて、不安そうな顔で私を見ていた日があった。

 夜泣きで眠れない顔をして、台所に立っていた日もあった。

 私は、抱き方やミルクの量や部屋の温度ばかり口にした。

 よく頑張ってるね、とは言わなかった。

 あなたはちゃんとお母さんになっているよ、とも言わなかった。

 言えばよかった。

 たったそれだけのことを、なぜあんなに惜しんだのだろう。

 言えばよかった。

 たったそれだけのことを、なぜあんなに惜しんだのだろう。

 正しいことばかり言おうとして、優しいことを言いそびれた。

 それを、もっと早く知っていればよかった。

 朋子は、写真の前に置いたゴブレットを見ていた。

 まゆちゃんは袋菓子をもう一つつまみ、少し迷ってから、それも写真の前に置いた。

「おばあちゃん、これも食べる?」

 私は思わず笑ってしまった。

 そんなに置かれても食べきれないわよ。

 まゆちゃんは、写真を見たまま言った。

「ねえ、ママ」

「なに」

「おばあちゃん、今日も聞いてるかな」

 朋子はすぐには答えなかった。

 自分のマグカップを両手で包み、湯気の向こうにある写真を見ている。

「聞いてるんじゃない」

「だよね」

 まゆちゃんは、少し照れたように笑った。

 それから、写真に向かって言った。

「おばあちゃん、そこにいるなら聞いて」

 その声に、私は顔を上げた。

「ママ、けっこう頑張ってるよ」

 朋子が目を丸くした。

「なに急に」

「だってさ」

 まゆちゃんは、朋子のほうを見ないまま続けた。

「おばあちゃん、ママの夢に出てきて褒めたんでしょ。だったら、もっと褒めてあげたらいいじゃん」

「夢の中のおばあちゃんに注文しないでよ」

「聞こえてるかもしれないじゃん」

 まゆちゃんは、今度は朋子を見た。

「ママ、うるさいけど、頑張ってるよ」

「うるさいはいらない」

 朋子は困ったように笑った。

 その笑い方は、泣く手前の笑い方にも見えた。

 私は二人のそばに行った。

 声は出ない。

 出しているつもりでも、二人には届かない。

 それでも、私は言った。

「聞いてるよ」

 写真の前のゴブレットの中で、氷が音をたてた。

 窓は閉まっている。

 冷房もついていない。

 なのに、窓際のレースのカーテンが、ほんの少しだけふくらんだ。

 まゆちゃんが、はっと顔を向けた。

 朋子も、同じほうを見る。

 白いカーテンが、ゆっくり戻る。

 まるで、誰かがそこを通ったみたいに。

 まゆちゃんが、小さな声で言った。

「ねぇお母さん、カーテンがふわって揺れたよね今」

 朋子はしばらく黙っていた。

 それから、私の写真を見た。

 泣きそうな顔ではなかった。

 怖がっている顔でもなかった。

 あきれたような、なつかしいような、少しだけ困ったような顔だった。

「うん。ゆれた」

 まゆちゃんが、ふっと笑った。

「おばあちゃん、聞いてたかな」

「聞いてたんじゃない?」

「また勝手に混ざってきたんだ」

「そういう人だったからね」

 私は、少しだけむっとした。

 勝手に混ざってきたなんて、失礼な言い方だ。

 でも、二人とも笑っていたから、まあいいことにした。

 茶の間に、二人分の笑い声が落ちた。

 いいえ。

 たぶん、三人分だった。

 朋子は、写真の前に置いたゴブレットを見た。

 氷は少し溶けて、薄いアイスコーヒーは、ますます薄くなっている。

「おばあちゃん、こういうの好きだったよね」

 朋子がぽつりと言った。

「薄いやつ?」

「薄いやつも。あと、くたくたの大根も」

 まゆちゃんが顔を上げた。

「大根?」

「今日、味噌汁にしなかったでしょ」

「ああ」

 朋子は台所のほうを見た。

 冷蔵庫の中には、まだ大根が一本入っている。

「明日、大根のお味噌汁にしようか」

 まゆちゃんが、少しだけ嬉しそうな顔をした。

「うん。くたくたのやつね」

「はいはい」

 私は、思わず笑った。

 ほらね。

 ちゃんと聞こえてるじゃない。

 私はもう、ガスコンロをつけることも、糠床を混ぜることもできない。

 朋子の頭を、ちゃんとなでることもできない。

 けれど、話の端っこに座ることくらいはできる。

 娘が私の小言を思い出すとき。

 孫が私の味噌汁を食べたがるとき。

 写真の前に、薄いアイスコーヒーが置かれるとき。

 私は、そこにいる。

 これからも、たぶんずっと。

 おばあちゃん、そこにいるなら聞いて。

 そう呼ばれなくても、私はたぶん、台所のほうから口を出している。

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