見出し画像

Tea and meditation

以前、日本茶の世界観が好きでインストラクターをやっていた。
資格も取って、現場にも出て、ちゃんと学んで、ちゃんとやっていたつもりだった。
けれど、どこか居心地が悪かった。
茶葉の知識が足りなかったとか、淹れ方の所作が未熟だったとか、そういう話じゃない。
もっと空気の話だ。
あの世界には、どこか「余所者を本心では受け入れない」ような閉じた感じがあった。

表面では丁寧だけど、内側はもうすでに“出来上がってる”。

よそから来た人間が、どれだけ学んでも、その輪の中心には入れないような気配。
それが嫌だった。というより、疲れた。
お茶は、本来もっと開かれていて、誰にでも届くもののはずだと思っていたから。

それで、そっと離れた。

そんな自分の理想の茶人が、売茶翁。
江戸時代の禅僧。
高僧だったのに、出世を辞退して、茶道具一式を担いで、ただ町角でお茶を淹れていた。
派手なパフォーマンスでもなければ、茶道の流派を広めようという意図もない。
ただ、そこにいて、茶を淹れて、誰かと一服を共有する。それだけ。
けど、それがいい。というか、それだけでいい。
今の感覚で言えば、売茶翁って“リトリートもサブスクもいらない一人メディア”だったと思う。
ただ静かに、お茶を通じて場をつくり、自分の信じるものを差し出していただけ。誰かに評価されるでもなく、何かに所属するでもなく。

ああ、自分はこっちだ。


正しさじゃなく、開かれた時間を差し出すほう。

誰かに評価されるでも、どこかに所属するでもなくて。

最近は、その延長線上で毎朝、瞑想をしている。
お茶を淹れる時間も、瞑想に近い。

湯の温度を見て、葉の香りを感じて、湯呑を手にとる。
その一連の動作のなかに、音も思考もすっと消えていく感覚がある。
結局、瞑想もお茶も、“今ここ”を取り戻すツールなんだと思う。

目を閉じて呼吸する時間もいいけど、急須から立ちのぼる湯気を見てるだけでも、同じような深さがある。


誰かがふらっと来たときに、ただお茶を淹れて、一緒に無言のまま飲むのもいい。

それだけで十分だと思えるようになった。
売茶翁的って、つまり「静かにひらいている」ってことなんだと思う。

無理に関わらず、でも閉じもしない。

属さないけど、孤立もしない。
そういう生き方が、今いちばんちょうどいい。

お茶と呼吸と、静けさと。

それだけあれば、たいていのものは取り戻せる。

いいなと思ったら応援しよう!

rtmt よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!