給料は魚の本で払われた——王立協会議事録にみる『プリンキピア』出版前夜
はじめに
1687年に刊行されたニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』(以下『プリンキピア』)には、よく知られた逸話が付随している。王立協会が魚類書 De historia piscium libri quatuor(以下『魚類誌』)の刊行で財政的余裕を失い、『プリンキピア』の印刷費をエドモンド・ハレーに負担させた。しかも協会はハレーの年俸すら現金で払えず、売れ残った『魚類誌』で支払った——というものである。
この逸話の主要部分は、王立協会の同時代記録によって確認できる。一方、「協会が全予算を使い切った」「魚類書だけが原因だった」「ハレーが最終的に巨額の損失を被った」といった通俗的な語りの一部は、現存史料からは確定できない。本稿では、トマス・バーチが1757年に刊行した協会記録集[1]——原議事記録を18世紀に転写・編纂した刊本史料である——を軸に、書誌学・科学史の専門研究[2][5][7][8][9]を参照しながら、直接確認できる事実と後世の脚色を区別することを試みる。
1. 『魚類誌』の学術的企図
まず主役の一方である『魚類誌』を、「魚の解剖の本」という戯画から救い出しておきたい。
『魚類誌』は、博物学者フランシス・ウィラビー(1635–1672)が着手し、その早世後に盟友ジョン・レイ(1627–1705)が完成させた、ラテン語による網羅的な魚類誌である。約400頁の本文と187枚の銅版図版(うち10枚は付録)を備え、イングランドで刊行された最初の本格的な図入り魚類学書となった[2][3]。クスカワ・サチコの出版史研究が明らかにしたように、この事業の背後には、外形的な「特徴的標識(characteristic marks)」によって魚類を定義・分類・同定するというレイの方法論的野心があり、それは既知の魚を集成し、過去の文献の名称と照合し、図像によって同定を可能にするという、17世紀自然誌の一大プログラムの一環だった[2]。近年の研究も、同書を観察実践と経験知の形成という文脈で再評価している[11]。
ただし、学術的価値の高さは、出版計画としての合理性を保証しない。価値ある本でも、費用と予想市場の関係次第で財務的に無理のある投資になりうる。『魚類誌』が失敗したのは学術においてではなく、その学術的価値を、高額な図版費と限られた読者市場のもとで持続可能な出版計画に変換することにおいてだった。
2. 出版費360ポンドと販売不振
1686年4月21日の評議会記録は、版刻(銅版彫刻)等に232ポンド11シリング7ペンス、事業全体に約360ポンドを要したと報告している。印刷予定は500部で、会計上は完本を480部と仮定し、一部あたりの費用を15シリングと見積もった。一般販売価格は20シリング、図版出資者には15シリングとされた[1]。したがって「480部」は確認済みの完成部数というより、原価算定上の想定値である。総費用のおよそ3分の2が版刻に費やされており[1]、これは売れなければ回収の難しい先行固定費である。協会は個々の図版への出資を募る予約購読方式で費用を賄おうとしたが、予約金は版刻費を賄いきれなかった[2][4]。この資金調達の痕跡は現物に残っている。各図版には、その製作費を負担したパトロンへの献辞が彫り込まれており、会長ピープスをはじめ、クリストファー・レン、ロバート・ボイル、ジョン・イーヴリン、イライアス・アシュモールらの名を、今日のデジタル版でも版面に読むことができる[12]。
そして本は売れなかった。1687年2月、評議会はアムステルダムの書店に400部を一部25シリングで引き取らせ、代金の5分の2を現金、残りを書籍で受け取る案を検討している[1][6]。この取引が成立したかは確認できないが、刊行から1年足らずで在庫の大半の処分先を探していたこと自体が、販売が期待を大きく下回ったことを示す。USTC(Universal Short Title Catalogue)の研究紹介によれば、1688年から1772年までに記録された同書の販売収入は111ポンド1シリング5ペンスにとどまり、在庫の一部は債権者への支払いに充てられた[4]。ただしこの数字には図版出資金や現物での回収などが含まれないため、事業全体の回収率を直接示すものではない。それでも、王立協会自身が現代の解説で同書を「財政的失敗」と総括していることは、この販売実績と整合する[3]。
一点、留保が必要である。360ポンドが協会の「全予算」だったことを示す史料は存在しない。王立協会は『魚類誌』以前から会員会費の慢性的な滞納に苦しんでおり、財政基盤はもともと脆弱だった[5]。『魚類誌』は財政危機を無から生み出したのではない。もともとの流動性不足の上に、同書の固定費・未払い・換金できない在庫が重なり、協会が新たな大型出版の債務を引き受けにくい状態を作った、と整理するのが史料に忠実である。
3. 1686年5月–6月の刊行決定
『プリンキピア』の側の時系列は、協会の記録によって精密に追うことができる。
物語の起点は1684年1月、ロンドンでのハレー、フック、レンの会話である。ハレーは惑星に働く求心力が距離の逆二乗、すなわち $${F \propto 1/r^{2}}$$ に従うと推測していたが証明できず、フックは証明済みだと豪語し、レンは2か月以内に証明を持参した者に40シリング相当の本を進呈すると持ちかけた。この賭けは流れた[8][10]。同年8月、父の変死後の財産整理などを抱えていたハレーはケンブリッジのニュートンを訪ね、逆二乗則から楕円軌道が導かれることをニュートンがすでに証明していたと知る。ハレーに促されて、ニュートンは小論『De motu corporum』を協会に登録し、そこから『プリンキピア』の執筆が始まった[7][8][10]。
1686年4月28日、『プリンキピア』第I編の原稿が王立協会に提出される。その前週の4月21日、評議会は前節で見た『魚類誌』の費用報告を受け取っていた。5月19日、協会の通常会合はニュートンの著作を協会負担で印刷する方針を決め、ハレーは5月22日付のニュートン宛書簡でこれを伝え、原稿を「比類なき論考(incomparable treatise)」と呼んだ。しかし6月2日、支出権限を持つ評議会は、ハレーが印刷を監督したうえで「彼自身の負担で(at his own charge)」刊行するよう決定し、ハレーはこれを承諾した[1]。
ここで組織上の区別が重要になる。アラン・クックが指摘するとおり、5月19日に決めたのは協会(Society)であって評議会(Council)ではなく、当時、一定額を超える支出には評議会の承認が必要だった[7]。つまり「同じ機関が2週間で気まぐれに撤回した」のではなく、通常会合で告知された方針が、財政権限を持つ評議会では承認されなかった、という構造である。
『魚類誌』との因果はどう評価すべきか。6月2日の記録は「魚類書のせいで資金がない」という理由を明記していない。議事録が直接示すのは、協会負担という方針が評議会の財政上の承認を得ず、費用がハレーに移った、という事実までである。ただし、その直前に360ポンドの費用報告と大量在庫の問題が横たわっていた時系列を考えれば、『魚類誌』の負担が主要な財政的背景だったとする解釈には強い状況証拠がある。クスカワも、販売不振による財政問題を、協会が『プリンキピア』の費用を負担できなかった「おそらく主な理由」と位置づけている[2]。
なお『プリンキピア』の扉には、時の会長サミュエル・ピープス(あの日記のピープスである)の名で1686年7月5日付の出版許可(imprimatur)が印刷されている。協会は最終的に刊行費を負担しなかったが、出版許可と協会の名義は与えたのである。
4. 給料が魚になった日——50ポンドと魚類書50部
逸話の白眉である「魚の本による給与支払い」は、誇張のもっとも少ない部分である。
1686年、協会書記(Clerk)の職務規定は年俸を最低50ポンドと定め、その選挙でハレーが書記に選出された[1]。1687年6月15日、評議会はハレーに前年分の給与50ポンドの支払いを決議する。ところが3週間後の7月6日、評議会はこの現金50ポンドに代えて『魚類誌』50部を与え、さらに前年来の未払い・遅延を考慮した追加分(議事録の文言では gratuity)として20部を上乗せすることを決議した。計70部。50部のうち20部は、すでに書店主スミスに委託されていた協会保有の在庫から充当された[1]。
これがハレー個人への冗談でなかったことは、同じ会議でロバート・フックの滞納給与についても魚類書での支払いが承認されていることからわかる(フックは即答を避け、6か月の考慮期間を求めた)[1]。現金給与の代わりに協会保有の在庫を渡すという措置は、協会の現金不足と『魚類誌』の販売不振の双方を反映している。
決議上は50部が50ポンドの代替物とされたが、それをハレーが実際にいくらで換金できたかはわからない。現物の額面と市場価値が一致していた保証はない——なにしろ、売れなかったからこそ在庫になっていた本である。また、記録に残るのは支払い方法変更の決議であり、ハレーが70部を実際に受領したことを示す独立の受領記録は確認されていない。それでも、「天文学者の年俸が売れ残りの魚類図鑑で支払われることになった」という逸話の核心は、協会記録に直接書かれた事実である。
5. ハレーの費用負担と最終収支
では、自腹を切ったハレーは経済的殉教者だったのか。ここは通俗的な語りがもっとも史料から乖離する部分である。
ハレーが引き受けたものは明確だ。印刷業者への支払い義務、売れ残りリスク、そして実務のすべて——校正、図版の手配、正誤表の管理、三編の印刷工程を複数の印刷所で並行して進める調整、フックの先取権主張に激怒して第III編の公刊を取りやめかけたニュートンの説得、完成後の贈呈・委託販売の手配に至るまで[1][7][8]。1687年夏の刊行後、ハレーはニュートンに贈呈用20部と委託販売用40部を送り、販売条件も指示している。その提案価格は、製本済みで9シリング、未製本の折丁で6シリング、即金なら5シリングだった[8]。彼は資金提供者であると同時に、実質的な出版者だった。
しかし「全額を回収不能な純損失として負担した」ことを示す史料はない。ハレー伝記研究のアラン・クックが指摘するとおり、初版の印刷費に関する会計帳簿は現存しない[7]。販売条件の一部はわかるが、実売部数、価格別の販売構成、印刷費総額、委託手数料、贈呈分の扱いは復元できず、最終損益は確定できない。数学史家ホワイトサイドは、刷り部数を約500部と仮定し、印刷費と販売状況に推測を置いた試算として、ハレーが最終的に小幅の利益を得た可能性すら示している——ただし本人が認めるとおり、確定値ではない[8]。
初版部数についても近年、研究が更新された。1953年のマコンバーの現存本調査は約190部を確認し、初版を「多くて250部程度」と推定した。これに対し、ファインゴールドとスヴォレンチークが2020年に公表した世界規模の予備的センサスは、27か国で387部の現存を確認し、従来想定より大きな刷り部数と、より広く内容を理解しうる読者層の存在を示唆した[9]。この結果は、正確な初版部数やハレーの最終損益を確定するものではないが、ホワイトサイドが仮定した500部程度の刷り部数を、従来より考えやすくはしている。
確実に言えるのはこうである。1686年6月の時点で結果を知る術はなく、ハレーが引き受けたのは紛れもない不確実性だった。科学史におけるハレーの功績は、金を失ったことではなく、リスクを引き受けたことにある。
6. 反実仮想の限界
「魚類書のせいで『プリンキピア』は幻の書になりかけた」という語りは、反実仮想を含む。ハレーが断っていたら本当に刊行されなかったのか——これを立証する史料はない。ニュートン自身、あるいは別の後援者や書店が後日刊行した可能性は排除できない。
ただし、刊行を脅かした危機が資金問題だけでなかったことは記録できる。1686年夏、フックが逆二乗則の先取権を主張すると、ニュートンは強く反発し、第III編の公刊取りやめを示唆した[8]。資金問題と優先権争いの双方において、仲介と実務調整を担ったのが同一人物、ハレーだったことは確認できる。29歳の書記が費用負担を引き受け、翌年30歳で刊行にこぎつけた、というのがこの2年間の実像である。
7. おわりに
1686年4月の評議会記録には、『魚類誌』の総費用が約360ポンドと報告されている。その翌週に『プリンキピア』第I編の原稿が提出され、5月の通常会合では協会負担での印刷が告知されたが、6月の評議会は費用をハレーに負わせた。翌1687年、ハレーに支払うはずだった年俸50ポンドは魚類書50部に置き換えられ、前年の滞納を考慮してさらに20部が追加された[1]。
この一連の記録は、魚類書がなければ協会が確実に『プリンキピア』を刊行したことも、ハレーがいなければ同書が永久に未刊だったことも証明しない。しかし、17世紀の学術出版が、団体の限られた現金と、個人の信用・判断・実務能力にどれほど依存していたかは示している。『魚類誌』と『プリンキピア』の学術的価値を比べることが、この逸話の要点ではない。価値ある二つの出版計画であっても、その費用を誰が、いつ、どのような権限のもとで負担するかによって刊行の条件が変わった——この事例の歴史的な意味は、そこにある。
付記——『魚類誌』を読む
ここまで読んで『魚類誌』そのものを見たくなった読者のために、デジタル版の所在を記しておく。スミソニアン図書館所蔵本のスキャンが、Internet ArchiveおよびBiodiversity Heritage Library(BHL)で公開されている[12]。本文はラテン語だが、187枚の図版だけでも一見の価値がある。360ポンドの3分の2がどこへ消えたかは、頁を繰れば一目でわかる。
ただし書誌上の注意が一つある。このスキャン本は1685年の原題扉を持つ一方で1740年作成の索引を綴じ込んでおり、Internet Archiveの書誌記述によれば、王立協会が1743年に題扉を差し替えて行った全面的な再発行の不完全なコピーか、個人所有者が後年の索引を1685年版に合綴した本の可能性がある[12]。つまり1686年初刷の純粋な姿とは限らない。そして、刊行から半世紀以上を経た1743年に協会がこの再発行を行えたという事実は、初刷のときに刷った紙——製本される前の、印刷だけ済んだ紙葉——がそれだけ売れ残って協会の手元にあったことと整合的であり、本稿で見た在庫問題の、いささか気の長い後日談になっている。
註
[1] Thomas Birch, The History of the Royal Society of London, vol. IV, London, 1757. 原議事記録を18世紀に転写・編纂した刊本史料であり、転写・採録上の選択が介在する。本稿で参照した決議・書簡は、1686年4月21日・5月19日・6月2日、1687年2月・6月15日・7月6日の各項、およびハレーの1686年5月22日付ニュートン宛書簡。デジタル版: https://archive.org/details/bub_gb_H4LsvdVKLyAC
[2] Sachiko Kusukawa, "The Historia Piscium (1686)", Notes and Records of the Royal Society of London 54 (2), 2000, pp. 179–197. https://doi.org/10.1098/rsnr.2000.0106
[3] The Royal Society, "Plenty more fish", Royal Society blog, 2022. https://royalsociety.org/blog/2022/07/plenty-more-fish/
[4] Universal Short Title Catalogue (USTC), "The Price of Progress: De Historia Piscium and the Limits of England as a Scientific Print Centre in the Late Seventeenth Century"(機関による研究紹介記事。査読論文ではない). 1688–1772年の販売収入111ポンド1シリング5ペンス、在庫の債権者への充当、予約購読の不足について。https://www.ustc.ac.uk/news/the-price-of-progress-de-historia-piscium-and-the-limits-of-england-as-a-scientific-print-centre-in-the-late-seventeenth-century
[5] R. K. Bluhm, "Remarks on the Royal Society's finances, 1660–1768", Notes and Records of the Royal Society of London 13 (2), 1958, pp. 82–103. 会費滞納をはじめとする協会の慢性的財政難について。
[6] Robert W. T. Gunther, ed., Further Correspondence of John Ray, Ray Society, 1928. アムステルダム書店への400部処分交渉の叙述を含むが、編者自身が述べるとおり当該部分はBirch所収の協会記録からの再構成であり、Birch[1]から独立した証拠ではない。デジタル版: https://archive.org/details/b31348361_0001
[7] Alan Cook, "Edmond Halley and Newton's Principia", Notes and Records of the Royal Society of London 45 (2), 1991, pp. 129–138. 初版印刷費の会計帳簿が現存しないことの指摘、および通常会合(Society)と評議会(Council)の権限区別を含む。https://www.jstor.org/stable/531693 。ハレーの伝記的事項については同著者の Edmond Halley: Charting the Heavens and the Seas, Oxford University Press, 1998 も参照。
[8] D. T. Whiteside, "The Prehistory of the Principia from 1664 to 1686", Notes and Records of the Royal Society of London 45 (1), 1991, pp. 11–61. 約500部を仮定した収支の試算、フックとの先取権紛争の仲介、1687年のハレーの販売条件(9シリング/6シリング/即金5シリング)を含む。
[9] Mordechai Feingold and Andrej Svorenčík, "A preliminary census of copies of the first edition of Newton's Principia (1687)", Annals of Science 77 (3), 2020, pp. 253–348. https://doi.org/10.1080/00033790.2020.1808700 (1953年のマコンバー調査との比較を含む)
[10] 1684年1月のレン・フック・ハレー会談と40シリングの件、および同年8月のケンブリッジ訪問については、Cook 1998(註7所載)のほか、MacTutor History of Mathematics Archive, "Edmond Halley" (https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Halley/) を参照。
[11] Didi van Trijp, "Fresh Fish: Observation Up Close in Late Seventeenth-Century England", Notes and Records of the Royal Society 75 (3), 2021, pp. 311–332. https://doi.org/10.1098/rsnr.2019.0051
[12] Francis Willughby (John Ray, ed.), De historia piscium libri quatuor, Oxford: E Theatro Sheldoniano. スミソニアン図書館所蔵本のデジタル版: Internet Archive https://archive.org/details/francisciwillugh00will / Biodiversity Heritage Library https://www.biodiversitylibrary.org/ia/francisciwillugh00will (図版の閲覧・検索にはBHL版が便利)。各図版には出資者への献辞が彫り込まれている。同アーカイブの書誌記述によれば、この個体は1685年の彫版題扉と1740年のMortimer編索引を併せ持ち、王立協会による1743年の再発行(English Short Title Catalogue N68107)の不完全なコピー、または所有者による合綴本の可能性がある(同 N51867)。書誌については Geoffrey Keynes, John Ray: A Bibliography, no. 47 も参照。
本稿の骨格をなす日付・金額・決議内容はBirch転写の協会記録[1]に基づき、解釈は註記の専門研究に依拠する。史料に書かれていない反実仮想と心理描写は、推論であることを本文中に明示した。
