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『帰る場所を決めるまで』 第5話 歩ける、だけでは

午前のリハビリセンター。

悠真は、隆三の歩行器の前に立っていた。

「今日は、ちょっといつもと違うことします」

隆三が眉を上げた。

「また靴下か」

「それは桐谷さんの担当です」

「ほな何や」

悠真は少し笑った。

「家で、夜にトイレへ行く時のことを考えてみようと思って」

隆三の表情が、わずかに変わった。

「夜のトイレ?」

「はい」

悠真はうなずいた。

「西岡さんが転んだ時も、夜だったんですよね」

「……まあな」

その返事は短かった。

悠真は、それ以上すぐには聞かなかった。

歩行器の高さを確認する。

コルセットの位置。

締めつけ。

腰の痛み。

朝からの体調。

一つずつ確かめてから、隆三の前へ椅子を置いた。

「まず、ここから立ってみましょうか」

「いつもやっとるやろ」

「今日は立って終わりじゃないです」

「また面倒なこと考えたな」

「仕事なんで」

隆三が鼻で笑った。

椅子に腰を下ろす。

両足を少し引く。

前へ重心を移し、

立ち上がる。

動作そのものは、前より滑らかになっていた。

悠真は横で見守った。

下肢の力。

体幹の傾き。

腰痛。

立ち上がった直後のふらつき。

以前より安定している。

「どうや」

隆三が言った。

「立てたやろ」

「はい。前より安定しています」

悠真はうなずいた。

「じゃあ、ここからトイレまで行くつもりで歩いてみましょう」

リハビリセンターの一角に、

ベッドに見立てた台と、

数メートル先に置かれた椅子があった。

その間には、

大きく方向を変える場所がつくられている。

隆三が歩行器を押し始めた。

一歩。

二歩。

三歩。

歩幅はまだ小さい。

けれど、

歩くこと自体には、以前ほどの不安はなかった。

悠真は少し後ろを歩きながら見ていた。

右足の出方。

荷重。

歩行器との距離。

歩行速度。

そして、

方向転換。

「そこで右を向いてみましょう」

隆三が歩行器を少し持ち上げるように動かした。

「持ち上げなくて大丈夫ですよ」

「分かっとる」

そのまま身体を回す。

一歩目。

二歩目。

三歩目。

隆三の足が、一瞬交差しかけた。

悠真の手がすぐに腰の近くへ出た。

隆三は踏み直した。

「ほら、大丈夫や」

「今、少し足が重なりそうになりましたね」

「転んどらん」

「そうですね。でも、転ばずに済む動きにしておきたいです」

隆三が口を閉じた。

少しだけ、不満そうだった。

悠真は責めるようには言わなかった。

「もう一回やってみましょう」

「何回やらすんや」

「安全にできるところまで確認したいです」

「厳しいな」

「西岡さんが『一人で帰る』って言ってますから」

その言葉に、

隆三は悠真を見た。

悠真も視線をそらさなかった。

しばらくして、

隆三が小さく息を吐いた。

「……ほな、やるか」

二度目。

今度は歩行器を身体の近くに置いたまま、

小さく足を運ぶ。

一歩ずつ。

急がない。

「そうです。そのくらいで大丈夫です」

悠真が声をかける。

「歩行器を先に大きく動かしすぎないようにしましょう」

隆三は返事をしなかった。

けれど、

一回目より安定して方向を変えた。

「今の方がいいですね」

「そら、言われた通りやったからな」

「はい。その動きなら安定しています」

「家やったら、こんなゆっくりやっとれんぞ」

悠真の表情が止まった。

「どうしてですか?」

「夜中やろ」

隆三は言った。

「トイレ行きたい時に、いちいちこんなこと考えて歩かん」

その言葉は、

悠真が少し気になっていたことだった。

「急ぐこともあります?」

「そら急ぐ時もある」

「電気はどうしてます?」

隆三が少し考えた。

「廊下は、つけん時もあるな」

「暗いままですか?」

「真っ暗ちゃう。外の明かりも入るし」

悠真は黙った。

「家なんて、何十年も住んどるんや」

隆三は続けた。

「目ぇつぶってても分かる」

その言い方に、

悠真は前から感じていたものを、もう一度感じた。

できるという自信。

長く暮らしてきた家への慣れ。

そして、

自分なら大丈夫だという思い。

それは、

隆三が一人で生きてきた強さでもある。

同時に、

転倒につながるかもしれないものでもあった。

「西岡さん」

「なんや」

「家に慣れていることと、安全に動けることって、同じだと思います?」

隆三はすぐには答えなかった。

「また難しいこと言うな」

「僕も今、考えてるところです」

悠真は笑わなかった。

隆三も、

少しだけ真面目な顔になった。

「転んだ時のこと」

悠真はゆっくり聞いた。

「何があったか、覚えてます?」

隆三の目が、少し細くなった。

「夜中やった」

「はい」

「トイレ行こうと思って起きた」

「それで?」

「廊下出て」

隆三は言葉を止めた。

「……足取られた」

「何にですか?」

「分からん」

「段差でしょうか」

「たぶんな」

「暗かったですか?」

「まあ……明るくはなかった」

悠真はうなずいた。

一つの原因ではない。

年齢による身体機能の低下。

夜間。

暗さ。

わずかな段差。

急ぎ。

そして、

自分ならできるという感覚。

いくつものものが重なって、

転倒は起きたのかもしれない。

「条件を少し変えて、もう一度やってみましょうか」

隆三が目を丸くした。

「まだやるんか」

「はい。ただ、危ない条件をそのまま再現するわけではありません」

「何でもやるな、お前ら」

「帰りたいって言う人がいますから」

隆三が苦笑した。

悠真は人通りの少ない場所へ移動した。

明るさそのものを危険なレベルにする必要はない。

目的は、

転ばせることではない。

条件が変わった時に、

隆三の動きがどう変わるかを見ることだった。

「今度は、夜中に起きて少し急いでいるつもりでやってみましょう」

「つもりばっかりやな」

「リハビリですから」

隆三は椅子に座った。

悠真は少し離れた位置に立つ。

「では、トイレへ行こうと思ったところからお願いします」

隆三は立ち上がった。

さっきより少し速い。

歩行器を押す。

一歩。

二歩。

速度が少し上がる。

方向転換。

身体が歩行器より先に回ろうとする。

足が追いつかない。

隆三の身体が、わずかに外側へ流れた。

悠真がすぐに支えた。

「……今の」

隆三が口を閉じた。

「家なら壁あるから」

「家では、壁をずっと触りながら歩いてました?」

「いや」

「そうですよね。だったら、今みたいなことが家でも起こる可能性はあります」

隆三は黙った。

悠真も黙った。

ここで、

「だから危ないんです」

と言うのは簡単だった。

でも、

それではたぶん隆三には届かない。

悠真は少し考えた。

「西岡さん」

「ん?」

「僕、西岡さんに家に帰るのを諦めてほしくて、これをやってるんじゃないですよ」

隆三が悠真を見る。

「帰るために、何が必要なのか知りたいんです」

隆三は何も言わなかった。

「今できていることもあります」

悠真は続けた。

「前より立てる。歩ける。方向転換も、練習したら良くなってます」

「ほな帰れるやろ」

「そこなんです」

悠真は少し笑った。

「それが、まだ分からない」

「なんやそれ」

「歩ける、だけでは決められないからです」

隆三の顔から、

少し笑いが消えた。

悠真は言葉を選んだ。

「夜中に目が覚めて」

「そうやな」

「コルセットを整えて」

隆三は黙って聞いている。

「立って」

「……ああ」

「歩行器を使って」

「そうや」

「廊下を移動して」

「……そうやな」

「方向を変えて」

「うん」

「トイレを済ませて」

隆三は少し考えた。

「……そうやな」

「それから、また戻る」

隆三は黙っていた。

「その一連ができて、初めて夜のトイレです」

しばらく、

隆三は歩行器のグリップを見ていた。

「面倒やな」

「生活って、意外といろんな動きがつながってますから」

「お前、八十になってから言え」

悠真は思わず笑った。

「それは、まだだいぶ先です」

隆三も、

少しだけ笑った。

その表情を見て、

悠真は少しほっとした。

押しつけたくはない。

怖がらせたくもない。

でも、

見ないふりもできない。

「もう一回、方向転換やります?」

悠真が聞いた。

隆三は歩行器を握り直した。

「今度は、お前に触られんようにやる」

「はい。見ていますね」

「見とけよ」

「はい」

隆三は歩き出した。

今度は、

少しゆっくりだった。

歩行器を大きく先へ出さない。

身体だけを先に回さない。

足を交差させない。

一歩ずつ。

悠真は横で見ていた。

できる。

けれど、

まだ考えながらでなければできない。

それもまた、

今の隆三の力だった。

練習が終わったあと。

隆三を病棟へ送る途中、

悠真は聞いた。

「西岡さん」

「なんや」

「家の廊下、どんな感じです?」

「どんなって?」

「寝るところからトイレまでです」

隆三は少し考えた。

「部屋出て、廊下や。すぐ曲がって、その先」

「段差はあります?」

「ちょっとある」

「どこですか?」

「部屋の出口」

「手すりは?」

「ない」

「照明は?」

「廊下のスイッチはある」

「寝るのはベッドですか?」

隆三は首を振った。

「布団や」

悠真の足が、ほんの少し止まった。

「床に敷いてるんですか?」

「そら布団やから床や」

「そこから毎日起きてたんですね」

「当たり前やろ」

悠真は返事をしなかった。

病院では、

ベッドから起きている。

高さがある。

手をつける場所もある。

床の布団からの起き上がりとは、

条件が違う。

また一つ、

見なければならないものが増えた。

「なんや」

隆三が悠真を見る。

「また考えとるんか」

「はい」

「ほんま、よう考えるな」

「仕事なんで」

悠真は答えた。

さっきと同じ言葉だった。

けれど、

今度は少し意味が違っていた。

歩ける。

立てる。

方向も変えられる。

その一つ一つを見ていくだけでは、

まだ足りない。

その動作が、

いつ、

どこで、

何のために使われるのか。

そこまで見て、

ようやく生活になる。

病棟へ戻ると、

玲奈が廊下の向こうから歩いてきた。

「おかえり、西岡さん」

「ただいま言う場所ちゃうやろ」

「でも、ちゃんと戻ってきましたね」

玲奈が笑った。

隆三は、

「変な看護師やな」

と言いながら病室へ入っていった。

悠真はその背中を見送った。

「どうだった?」

玲奈が小さな声で聞いた。

「歩ける」

「うん」

「でも、それだけじゃ足りない」

玲奈は少しだけ悠真を見る。

「何が見えた?」

悠真は病室の方へ目を向けた。

「夜のトイレ」

少し間を置く。

「あと、布団」

「布団?」

「家では床に敷いて寝てるって」

玲奈の表情が変わった。

「病院と全然違うね」

「うん」

悠真はうなずいた。

病院でできること。

家で必要になること。

その差は、

思っていたより、

一つずつ具体的だった。

そして、

その差を埋めることが、

帰るためのリハビリなのだと、

悠真は少しずつ分かり始めていた。

第6話へつづく。

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