『帰る場所を決めるまで』 第3話 心配する理由
「お父さん、ほんまに家に帰るつもりなん?」
午後の病室。
高橋美和は、ベッド脇の椅子に座るなりそう言った。
西岡隆三は、窓の方を向いたまま答えた。
「帰るに決まっとるやろ」
「でも、一人やで」
「今までも一人やった」
「今までとは違うやん」
美和の声が、少し強くなった。
隆三は何も答えなかった。
ベッドの横には、外したばかりのコルセットが置かれている。
担当看護師の森下玲奈は、少し離れた場所で二人のやり取りを聞いていた。
美和が来る少し前まで、隆三は看護師に、
「家に帰ったら、風呂がちょっと心配やな」
と話していた。
夜中にトイレへ行くことも気になっていると言った。
ところが、娘が来た途端、
「何も心配ない」
と言い始めた。
同じ人なのに、
相手が変わると、言葉も変わる。
玲奈は、それを急いで訂正しなかった。
「歩けるようになったん?」
美和が尋ねる。
「歩ける」
「一人で?」
「歩行器あったらな」
「じゃあ、その歩行器持ってスーパー行くん?」
隆三の眉が動いた。
「そこまで、まだ決まっとらん」
「ほら」
美和は息を吐いた。
「買い物は? ご飯は? お風呂は? また夜に転んだらどうするん?」
「いっぺんに言うな」
「だって心配やから言ってるんやん」
「心配、心配って……」
隆三は美和を見た。
「わしを何もできん年寄りみたいに言うな」
病室が静かになった。
美和が目を伏せる。
玲奈は、そこで初めて二人の間へ入った。
「西岡さん」
隆三が顔を向けた。
「娘さんは、西岡さんに何もできないと思っているわけじゃないと思いますよ」
「……じゃあ何や」
今度は、美和が答えた。
「怖いんよ」
隆三の表情が止まった。
「また電話しても出んかったらどうしようって」
美和は膝の上で両手を握った。
「今回もそうやったやん」
玲奈は黙って聞いていた。
今回、隆三が転倒したのは夜だった。
トイレへ向かおうとして、自宅の廊下で足を取られた。
すぐには起き上がれなかった。
携帯電話は寝室に置いたままだった。
翌朝になっても電話に出ない父を心配した美和が自宅へ向かい、倒れている隆三を見つけた。
そのことは電子カルテにも記載されている。
けれど、
《娘が自宅で発見》
という一行には、
娘が玄関を開けた時に何を思ったのかまでは書かれていない。
「また同じことがあったら」
美和の声が少し震えた。
「今度は、朝まで待ってくれへんかもしれんやん」
隆三は何も言わなかった。
窓の外へ目を向ける。
しばらくして、
「だからって施設に入れ言うんか」
と小さく言った。
「施設に入れたいんちゃう」
美和は首を振った。
「生きててほしいだけや」
その言葉に、
玲奈は二人の間にあったものが、少しだけ見えた気がした。
父は、
娘に迷惑をかけたくない。
娘は、
父を失いたくない。
二人とも相手を思っている。
なのに、
父は「大丈夫」と言い、
娘は「危ない」と言う。
言葉だけを聞けば、
反対方向を向いているように見える。
「西岡さん」
玲奈が言った。
「先日、中本さんには、家に帰って一人で大丈夫か分からないって話されたそうですね」
隆三がゆっくり玲奈を見る。
美和も顔を上げた。
「……中本が言うたんか」
「細かい内容を聞いたわけではありません。ただ、退院後の生活に少し不安があるということは、チームで共有しています」
隆三は困ったように笑った。
「余計なこと言うてもうたな」
「余計なことじゃないですよ」
玲奈は静かに答えた。
「むしろ、それを言ってもらわないと、一緒に考えられませんから」
美和が父を見る。
「お父さん、不安なん?」
隆三はしばらく黙っていた。
「……そら」
言いかけて止まる。
「少しくらいは、ある」
昨日、
奈緒にも同じようなことを言っていた。
――少しくらいは、ある。
玲奈は、その言葉を聞き逃さなかった。
「だったら、その少しを一つずつ確認していきませんか」
「またそれか」
隆三が苦笑した。
「中本も桐谷も、同じようなこと言いよる」
「チームですから」
玲奈が笑うと、
美和も少しだけ笑った。
隆三は三人の顔を順番に見た。
「みんなして、わしを囲む気か」
「囲みませんよ」
玲奈は答えた。
「西岡さんが帰りたい方向を、一緒に見るだけです」
その言葉に、
隆三は返事をしなかった。
けれど、
先ほどまでより少しだけ、
肩の力が抜けていた。
美和が帰ったあと。
玲奈はナースステーションで電子カルテを開いた。
《娘、自宅退院後の独居生活に強い不安あり》
そこまで入力して、少し考える。
そして続けた。
《本人も独居生活への不安を一部表出。本人・家族間で退院後の生活について思いに差がみられる。今後、多職種で具体的な生活課題と支援方法を共有していく必要あり》
入力を終えたところで、
「森下さん」
声をかけられた。
振り向くと、悠真が立っていた。
「西岡さんの娘さん、今日来てた?」
「うん」
玲奈は答えた。
「中本くん。西岡さんの『大丈夫か分からない』って言葉」
「うん」
「少し、意味が見えてきたかもしれない」
悠真は玲奈を見る。
「どういうこと?」
玲奈は、病室の方へ視線を向けた。
「西岡さんだけを見てたら、たぶん分からない」
「……娘さん?」
「うん」
玲奈は小さくうなずいた。
「帰るって、一人の問題じゃないんやと思う」
悠真は何も言わなかった。
ただ、その言葉をしばらく考えていた。
帰る場所を決めるまでに、
見なければならない人は、
まだいる。
第4話へつづく。
