『帰る場所を決めるまで』 第4話 同じ人を、違う場所から
回復期リハビリテーション病棟へ入棟して、数日が過ぎた。
カンファレンス室のテーブルには、五人が集まっていた。
病棟医の橘俊介。
担当看護師の森下玲奈。
理学療法士の中本悠真。
作業療法士の桐谷奈緒。
そして、医療ソーシャルワーカーの吉岡慎吾。
入棟時初期カンファレンス。
患者を生活へ戻していくために、
それぞれの職種が、
それぞれの場所で見てきたものを持ち寄る。
そして、
何が必要なのか。
何を優先するのか。
これから何を確かめていかなければならないのか。
その方向を整理していく場だった。
俊介が電子カルテから顔を上げた。
「では、西岡隆三さんについて始めましょう」
悠真は手元の記録に目を落とした。
西岡隆三、八十歳。
第4腰椎圧迫骨折。
保存的治療。
その文字だけなら、もう何度も見ている。
けれど、
悠真が知っている隆三は、それだけではない。
――帰りたい。
――けど、帰って一人で大丈夫かは、分からん。
その言葉を持っている人だった。
「まず、医学的なところから」
俊介が話し始めた。
「腰椎圧迫骨折については、引き続き保存的に経過を見ます。現時点で大きな神経症状はありません。離床時はコルセットを装着。疼痛を確認しながら活動量を上げていきます」
玲奈たちがうなずく。
「中本さん、お願いします」
「はい」
悠真は資料を見た。
「起き上がり、立ち上がりは、見守りがあれば行えています。歩行器を使えば病棟内の移動も可能です」
少し言葉を切った。
「ただ、方向転換では不安定さがあります。腰痛も残っていますし、下肢筋力とバランス能力には、まだ改善の余地があると思っています」
俊介が尋ねた。
「自宅生活まで考えると?」
悠真は一度考えた。
「今は、歩けることと、一人で生活できることは分けて考えています」
奈緒が小さくうなずいた。
「基本動作としては、自宅へ帰るための条件が少しずつ見えてきています。ただ、家の中での移動や夜間の動作まで考えると、まだ確認が必要です」
悠真は続けた。
「それと、本人は自宅退院を希望しています」
玲奈が悠真を見る。
「ただ、自分でも『帰って一人で大丈夫か分からない』とは話しています」
俊介は少し目を細めた。
「その不安が何を指しているかは?」
「まだ全部は分かっていません」
悠真は答えた。
「歩くことなのか。夜間の移動なのか。それとも生活全体なのか。そこは、これからもう少し見たいです」
「分かりました」
俊介が記録を取った。
「桐谷さんは?」
「はい」
奈緒が資料を開いた。
「更衣動作を中心に見ています」
「靴下の着脱は、時間をかければ自分でできます。ただ、腰への負担や座っている時のバランスには注意が必要です」
悠真は黙って聞いていた。
「西岡さんは、『できたか、できなかったか』で判断する傾向が強いです」
玲奈が少し笑った。
「それ、西岡さんらしいですね」
奈緒も笑った。
「そうなんです」
そして表情を戻した。
「でも、私が見たいのは、一度できるかではなくて、それを毎日続けられるかなんです」
部屋が少し静かになった。
「朝起きて、着替えて、食事をして、トイレへ行く。買い物もある。入浴もある」
奈緒は続けた。
「一つずつならできても、それを一人で一日の生活として続けられるかは、まだ別です」
俊介がうなずいた。
「生活として持続できるか、ということですね」
「はい」
奈緒は答えた。
「できることは、できるだけ本人に続けてもらいたいです。ただ、無理があるところは、方法や環境を変える必要があると思っています」
俊介は玲奈へ視線を移した。
「森下さん」
「はい」
玲奈は少し姿勢を正した。
「病棟では、本人はかなり自分でやろうとします」
悠真が顔を上げた。
「やっぱり?」
「うん」
玲奈は苦笑した。
「ナースコールを押す前に動こうとすることもあります」
「西岡さんらしいな」
悠真が小さく言った。
玲奈はうなずいた。
「ただ、本人自身にも不安はあります。娘さんが来る前には、風呂と夜間のトイレについて心配だと話していました」
そこで少し間を置いた。
「でも、娘さんの前では『何も心配ない』と言います」
俊介が尋ねた。
「娘さんは?」
「かなり不安が強いです」
玲奈は答えた。
「今回の転倒で、西岡さんは夜に倒れて、そのまま翌朝まで起き上がれませんでした」
慎吾がペンを持ち直した。
「娘さんが発見されたんですよね」
「はい」
玲奈はうなずいた。
「娘さんは、自宅退院そのものに反対したいわけではないと思います」
玲奈は、昨日の美和の言葉を思い出した。
――施設に入れたいんちゃう。
――生きててほしいだけや。
「もう一度同じことが起きるのが怖いんだと思います」
悠真は黙って聞いていた。
帰りたい父。
帰してはいけないと思う娘。
そう見えていたものが、
少し違って見えた。
帰してはいけないのではない。
失いたくないのだ。
「吉岡さん」
俊介が声をかけた。
「はい」
慎吾が資料を確認した。
「現在は独居です。娘さんは車で四十分ほどの場所に住んでいます。仕事もありますし、ご自身の家庭もあるので、毎日の支援を家族だけに求めるのは難しいと思います」
「介護保険は?」
「現在の利用状況を確認しています。必要であれば、申請も含めて早めに整理します」
慎吾は続けた。
「ただ、サービスを準備すれば、それで解決するという話でもないでしょうね」
奈緒が慎吾を見る。
「本人が受け入れるか、ですね」
「そうです」
慎吾はうなずいた。
「西岡さんは、人に迷惑をかけたくない気持ちが強いようです」
玲奈も小さくうなずいた。
「ありますね」
「だから、支援を入れることを『できなくなったから助けてもらう』と受け取る可能性があります」
「その辺りも、本人と話していく必要がありますね」
俊介が言った。
そして、一度全員を見渡した。
「今出ていることを整理しましょう」
部屋が静かになる。
「本人は自宅へ帰りたい」
悠真がうなずいた。
「基本動作は改善している。ただし、まだ身体機能の回復余地がある」
「はい」
「生活動作については、一つずつできても、独居生活として続けられるかは確認が必要」
奈緒がうなずいた。
「本人自身にも不安がある。ただ、それを家族には十分に見せていない」
玲奈がうなずく。
「娘さんは自宅退院そのものを否定しているわけではない。再転倒を強く心配している」
「はい」
「そして、家族の支援だけで生活を組み立てるのは難しい可能性がある」
慎吾がうなずいた。
俊介は少し考えた。
「では、今の段階で自宅か施設かを決める必要はありません」
悠真が顔を上げた。
「まず、自宅へ戻れる可能性をどこまで広げられるかを見ましょう」
俊介は続けた。
「中本さんは、身体機能と基本動作をもう少し詰めてください」
「はい」
「桐谷さんは、更衣以外の生活動作もお願いします。特に入浴や家の中で必要になる動作ですね」
「分かりました」
「森下さんは、病棟での夜間の動きと、本人がどこまで一人でやろうとするかを見てください」
「はい」
「吉岡さんは、家族の支援可能な範囲と、利用できる社会資源を整理してください」
「分かりました」
俊介はそこで一度言葉を止めた。
「それと」
全員が顔を上げる。
「西岡さんの家は、いずれ実際に見た方がいいでしょうね」
悠真の手が止まった。
「退院前訪問ですか」
「ええ」
俊介はうなずいた。
「ただ、今すぐではありません」
悠真は黙って聞く。
「その前に、もう少し機能を上げる。生活動作も見る。それから、今の西岡さんの能力で家へ戻った時に何が問題になるのかを、実際の家で確認する」
奈緒がうなずいた。
「家を見ないと分からないこと、ありますからね」
「そうですね」
悠真も答えた。
病院で歩ける。
それだけでは、
家の廊下を夜に歩けるとは限らない。
病院の椅子から立てる。
それだけでは、
自宅の布団から立てるとは限らない。
病院では届く場所に物がある。
家では、
そうとは限らない。
「退院前訪問は、今後の検討事項として進めましょう」
俊介が言った。
「それまでに、できるだけ材料を集める」
「はい」
悠真はうなずいた。
カンファレンスが終わったあと。
悠真はしばらく席に残っていた。
同じ隆三について話していた。
なのに、
自分が見ていた隆三。
奈緒が見ていた隆三。
玲奈が見ていた隆三。
慎吾が見ていた隆三。
俊介が見ていた隆三。
少しずつ違っていた。
誰か一人が正しいわけではない。
それぞれが見つけたものを重ねる。
そして、
生活へ戻すために必要なものを選んでいく。
それが、
チームで患者を見るということなのかもしれない。
「中本くん」
声をかけられた。
振り向くと、玲奈が立っていた。
「帰らんの?」
「帰るよ」
悠真は立ち上がった。
「ちょっと考えてただけ」
「西岡さんのこと?」
「うん」
二人で廊下へ出た。
「玲奈」
「ん?」
「家、見に行ったら」
悠真は少し考えた。
「俺らが思ってる西岡さんの暮らしと、全然違うかもしれないな」
玲奈は小さくうなずいた。
「病院って、暮らす場所じゃないもんね」
悠真は、その言葉を聞きながら歩いた。
病院でできること。
家でできること。
一人でできること。
誰かの力を借りればできること。
その境目は、
まだ見えていない。
だから、
今はまだ決めない。
その人が帰りたい場所へ、
どうすれば戻れるのか。
まずは、
それを確かめていく。
第5話へつづく。
