『帰る場所を決めるまで』 第2話 できることの、その先
翌日の午後。
リハビリセンターの一角に、低い椅子と小さな棚が用意されていた。
棚の上には、タオルと衣類。
その横には、空の買い物袋と、いくつかの日用品。
西岡隆三は、歩行器の前で足を止めた。
「今日は歩く練習ちゃうんか」
「歩く練習もしますよ」
答えたのは、中本悠真ではなかった。
淡い緑色のユニフォームを着た女性が、隆三の前に立っていた。
「作業療法士の桐谷奈緒です」
「作業療法士?」
「はい。西岡さんが家に帰ってから、実際にどんな動きが必要になるか。一緒に見せてもらいます」
隆三は棚の上を見た。
「服とか、袋とか?」
「そうです」
「そんなもん、入院する前まで普通にやっとったで」
奈緒は笑った。
「そうですよね。だから、今も同じようにできるか確認したいんです」
少し離れた場所で、悠真が二人のやり取りを見ていた。
昨日の評価で、立ち上がりや歩行の状態はある程度見えていた。
腰痛。
立位時の不安定さ。
方向転換。
それでも、家に帰るとなれば、それだけでは足りない。
悠真も分かっている。
ただ、奈緒は、その先にある暮らしを、一つ一つの動作にまでほどいて見ようとしていた。
「まず、靴下を履いてみてもらっていいですか」
「靴下?」
隆三は少し笑った。
「そんなもんまで見るんか」
「毎日履きますから」
「まあ、そうやな」
隆三は椅子に腰を下ろした。
コルセットは装着している。
右足を少し持ち上げ、身体を前へ倒そうとする。
途中で、動きが止まった。
「痛みますか」
奈緒が尋ねる。
「いや、これくらい」
答えは早かった。
隆三は再び身体を前へ倒した。
靴下に手を伸ばす。
指先は届いた。
けれど、靴下を広げようとしたところで、身体がわずかに右へ傾いた。
奈緒がそっと手を近づけた。
「ゆっくりで大丈夫です」
「手ぇ出さんでもええ」
隆三の声が少し強くなった。
奈緒はすぐに手を引いた。
「分かりました。近くで見ていますね」
隆三は何も言わず、続けた。
時間はかかった。
途中で二度、身体を起こして休んだ。
それでも最後には、靴下を履くことができた。
「ほら」
隆三は息を吐いた。
「できたやろ」
「はい。できました」
奈緒は素直にうなずいた。
そして少し間を置いた。
「毎朝これをするとなると、どうですか」
隆三の表情が止まった。
「どうって」
「今日は一回です。朝は着替えがありますし、体調が悪い日もあると思います」
「時間かけたらできる」
「そうですね」
奈緒は否定しなかった。
「じゃあ、その時間をかける方法で安全に続けられるのか。それとも、もう少し楽にできる方法があるのか。そこを考えたいんです」
隆三は、自分の足元を見た。
できた。
その事実は変わらない。
けれど、できたあとに残った息苦しさと腰の重さは、昨日の歩行訓練のあととは少し違っていた。
悠真は、その様子を見ながら考えていた。
腰痛の影響か。
股関節の動きか。
座っている時のバランスか。
コルセットを着けた状態での前屈動作も、当然いつもどおりではない。
一つの動作の裏に、いくつもの要素がある。
ただ。
奈緒が今見ているのは、動作が成立したかどうかだけではなかった。
その動作を、
毎日、
一人で、
暮らしの中で続けられるか。
そこだった。
「次は、あの袋を取ってみましょうか」
奈緒が棚の下段を指した。
買い物袋は、膝より少し低い位置に置かれている。
隆三は眉をひそめた。
「家の物は、そんな低いとこに置いてへん」
「本当ですか」
奈緒の声は柔らかかった。
隆三はすぐには答えなかった。
冷蔵庫の下段。
流し台の下。
玄関脇のゴミ袋。
思い当たる場所が、いくつかあったのかもしれない。
「……少しくらいは、ある」
「ですよね」
奈緒は笑った。
「じゃあ、その少しをどうするか、一緒に考えましょう」
隆三は袋を見た。
「取れんことはないと思うけどな」
「じゃあ、まずやってみましょうか」
奈緒は急かさなかった。
できないことを探しているわけではない。
できることを、
どうすれば無理なく続けられるのか。
それを探している。
悠真は、昨日の隆三の言葉を思い出していた。
――帰って、一人で大丈夫かは、分からんけどな。
あの言葉の中にある「大丈夫ではない何か」が、少しずつ形を持ち始めていた。
歩ける。
立てる。
靴下も履ける。
それでも、
家で一人で暮らせるかどうかは、
まだ別の話だった。
奈緒が隆三に言った。
「西岡さん。できることを減らしたいんじゃないんです」
隆三が顔を上げる。
「できることを、家でも続けられるようにしたいんです」
隆三はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「よう言うな、あんた」
「よく言われます」
奈緒も笑った。
そのやり取りを見て、悠真も少し笑った。
そして思った。
自分も、その先に暮らしがあることは分かっていた。
けれど奈緒は、その暮らしを一つ一つの動作にまでほどいて見ている。
同じ患者を見ていても、
見えているものは、少しずつ違う。
だからこそ、
一人では見えないところまで、
チームなら見ていけるのかもしれない。
第3話へつづく
